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 燦々と降り注ぐ光は、細めた目にさえ眩しい。おれは顎を逸らせて空を仰ぎ、手の甲を額に当てて微かに笑う。
 むわりと身体に纏わりつくような熱気の中、船長から仰せつかった甲板掃除は平生ならば面倒極まりないものだったのだが、隣に並ぶ存在を考えればそれほど苦とはならなかった。


「あっつー…」

 視線を降ろしたその先。シオはへばったような声を上げ、その手に持ったデッキブラシの柄に背中を丸めて顎を乗せている。赤く火照ったその頬には薄く汗の玉が滲んでおり、瞳もとろんと熱に浮かされていた。

「バンダナは冬島生まれなのに、よく我慢できるね…」

 ゆるりと向けられた覇気ない声に、おれは苦笑する。

「シオは夏島生まれなんじゃないの?」

 からかうようなおれの台詞にその瞳を悔しそうに細まったものの、シオは返す言葉がないのか黙り込んだ。それからふっとその視線を下げ、自身の開かれたツナギの奥にある黄色のインナーを摘まみ、シオはぱたぱたと扇ぎ始めた。
 胸元に風を送り込みたいのだろう。この暑さだ。そう思うのも当然。しかし。

「……薄着、すんなよ」

 ぼそり呟いたおれの声に、シオはちらりと視線を上げる。

「…バンダナはタンクトップの癖に」

 格好良くて狡い、と悪態をつく尖った唇は大層可愛いけども、そこは譲れない。
 今この場に居合わせているのはおれ一人だけなので、まだ良い。けれどちらり見える鎖骨のライン、その肌色に、心臓が危うくざわめく。それは今にも誰かおれ以外の奴がシオを見るとも知れないこの状況を考えれば、どうしようもないことだった。

 再度そこの開き具合を吟味するようにして、おれは黙って視線を滑らせる。そのとき、そこで落ち窪んだ陰影の中、おれは一つの赤色を見つけた。
 きゅっと眉間に皺を寄せ、低く呟く。


「…誰にちゅーされてんの」

「え? あ…」

 ほんの数歩でシオとの距離を詰め、それから徐に腰を折ってそちらを改めて覗き込みつつ、眉を潜めてぴんっ、おれはそこの肌を弾いた。
 指摘されたそれに目を落としたシオは俄に慌て出したものの、弁解は不要だ。
 
「これ、虫に刺されただけだよ…?!」

 シオの言葉に嘘がないということくらい、分かる。
 そして何よりおれにはそれがキスマークではなくただの虫刺されだということくらい、今までの経験から一目瞭然だった。

 だがしかし、これはそういう問題でもないのだ。
 おれは真一文字に唇を引き結び、狙って尖らせた視線でじいっとシオの良心に訴えかけるようにする。
 まんまとそれにうっとたじろいだシオは直にへにゃり、その眉を下げた。

「そんな顔しないでよ…」

 伸びてきた手のひらがそっと、こちらの髪を梳く。それを甘受しながらもおれは、直ぐには機嫌を直さない。

 しかし肌を通して伝わってくるもの、それは、意外にも多かった。
 その力加減、その温もり、その心。
 優しすぎるくらいのその指先からは、申し訳ないという思いがひしひしと伝わってきて。

 だから、許してしまいそうになる。
 そんな自分も常々シオには甘かった。


「…何か、シオが船に乗り始めたばっかりのときのこと思い出すな〜…」

 拗ねた響きを滲ませおれが唐突に上げた声に、シオの瞳はぱちりと反応を返す。

 どうやら、覚えているようだ。





 愛情なんて不確かなものは要らない。
 それがそのときのおれのポリシーだった。


 愛とは自己満足だ。己の思う形のそれを、各々押し付け合う。それが、相手にとってどんな形であろうと。
 他の人間ならば通常喜ぶようなものであっても、人によってはそれを受け取ることによって不快感しか得られないような、そんなものだってある。
 そこのところをきちんと、理解して欲しいのだが。


 思いながらも、朝陽に照らされ薄ぼんやりと明るく白み始めた丸窓を横目で見流し、おれは自室への通路を歩く。
 すっと下方に向けた視線は直ぐに肌蹴たツナギの襟ぐりとぶつかり、その影の中、押し付けがましい"その"痕、おれの瞳に赤の印が映り込んできた。

 …ふ、と溢したものは、自嘲を含んだ笑み。


 愛よりも恋の方が楽?
 ――いいや、それすらも煩わしい。


 早々に結論付けたところで最早自己中心的な愛の考察に興味を失ったおれは、瞬き一つで思考をリセットし、視線を前方へと戻す。


 そして、ややあって見つけた。

 おれの足が向かう先、通路の反対側からこちら側へと歩いてくるその姿。それは、つい最近仲間となったこの船唯一の女クルー――新入りのシオだ。


 目が合った、と思えば直ぐにふわり、ゆるく微笑みを浮かべた唇が紡ぐ。

「あ、おはよう」

 ひらりと持ち上げられたその白魚のような手は、おれの注目を集めるのに十分だった。
 暢気な挨拶だ。悪くはない、けど、少し可笑しい。

「おはよう」

 笑みを含んだ口端を小さく持ち上げ、おれは同じ言葉を返した。

 男ばかりのこの海賊団に、シオはまだ完全に慣れた訳ではないのだろう。おれの声に安心したのか、ぎこちなかった弧の端がふっと柔らかく溶けていくのが分かった。
 自然な半円を刻んだその唇はしかし、ふと視線を下げたシオに合わせ、直ぐさま小さな円を形作る。

「あ…」

「ん?」

 その唐突な声の意味が分からず、おれがぐいと首を傾げれば、伸びてきたシオの指先は迷いなくおれの襟元を指してきた。


「それ、虫に刺されてるよ」


 おれは、驚いた。

 船長は一体、何を考えているのだろうか。
 いや、この女を入れるように強く推していたのは、確かペンギンだったか。

 情事の意味を示す分かりやすい赤の痕跡にしかし無邪気な目を向けてきたシオは、おれの反応を見てはきょとんと黒目がちなそこを丸めている。

 そこにあるものは狙われていない、ただただひたすらに純粋なだけの白さ。

 面倒事は御免だ。だから、クルーとまで何か問題を起こす気はなかった。なかったの、だが。

 綺麗すぎると汚したくなる。それは、誰の足にも踏み荒らされていない新雪を前にしたときの感覚に似ていた。

 にっこり、おれは甘い甘い笑みを口元に作って浮かべ、早速"獲物"との距離を縮める。少し驚いた様子で一歩後ろに下がろうとしたシオの腰は素早く掴み留め、おれはぐいとそこを引き寄せた。


「――シオちゃんもこれ、欲しいの?」


 そして顔を傾け寄せた唇、それで耳元に囁く。

 ぴくりと微かに震えたシオは一拍の間を置き、やがてやけにゆっくりとした動作でその顔を持ち上げてきて―――…


「――え? 嫌に決まってるでしょ」


 俺はぱちり、大きく一度瞬いた。

 何なのだろうか、この女は。恐ろしく鈍い。しかし、こうまでされても尚その意味に気付かなかったとして、それでも頬一つ染めないとは。

 目だけを丸め静かに驚愕するおれから離れるどころか、寧ろぐいと鼻先を近づけてきたシオには照れる様子もなく、きゅうと唐突にその目眉をしかめた。

「大体その顔、いっつも思ってるんだけど……怪しい」

「は…?」

 訂正。こいつはまだ親しくなりきらないクルーたちに尻込みするような、そんなタイプではない。全く以て違った。

「その笑顔が胡散臭すぎるってこと! もっと素直に笑ってみたら?」

 真っ直ぐな言葉はそれ故に温かく、おれの胸に一陣の風を吹き込んだ。





「――…あのときと比べたらシオってば、すっかり染まっちゃって…」

 回想を終えたおれがよよと態とらしく泣き真似をして見せれば、シオは困ったような表情でこちらを見つめる。

「染まっ…――て、ただ単にキスマークの意味が分かるようになっただけでしょう? もう…」

 大体、そういうこと教えてきたのはキャプテンとバンダナが主でしょうが、と項垂れたシオの旋毛を見下ろしつつ、おれはけろりと言葉を紡いだ。

「だって、知らな過ぎるのも危ないでしょ」

「それ、矛盾してる…」

 ほとほと呆れたといった様子で大きくため息を吐き出したシオは、私はキスマークの意味を知ってた方が良かったのか悪かったのかと、ぶつぶつ不平を呟いている。
 だからおれは穏やかな気持ちでそちらを見つめつつ、ふっと囁いた。

「嘘。――良いんだよ、知ってて」

「え?」

 そして何てことないような振りをしておれは、あざとさを含んだ秘密の垣間をそっと覗かせる。

「キスマークのことはおれがシオに嫉妬して欲しくて、それで教えたことなんだから」


 言葉を失った目の前の柔かそうな唇はしかし、ぽかんと固まりちょっと間抜け面。それからじわり朱に染まり始めたシオの顔は、おれの目には凄く楽しくて。


「――シオ、」


「! はっ…な、何?」

 呼び掛ければびくり、飛び上がる肩がひどく愛おしい。

「それ、誰にちゅーされたの?」

 宙を泳ぐその視線は少し、情けないもの。けれど、だからこそ守ってやりたくもなる。

「え、えーと…」

「うん?」

 そして何よりも、

「……蚊…に、かなぁ…?」

 秘かな策略の甲斐もありいつしか羞恥を滲ませるようになったその顔に、おれの嗜虐心は大層煽られる。


 満面の笑みで追い詰めていけば、シオはおれの顔が落とす影の中でひくり、唇を引きつらせる。

「もう、二度と浮気はすんなよ?」

「は、はい…」

「返事が小さい」

「アイアイ!」

「返事は一回」

「はいッ」


 ――そんな無茶な。


 そう考えているのがありありと伝わってくるような、そんなシオの表情におれは肩を揺らし、真っ赤に染まったその頬を軽く摘まんで引き上げた。


「いッ!?」

「じゃあま、シオがこれから本当に浮気しないのかどうかは甚だ疑問なんだけど…取り敢えずは」

「と、取り敢えずは…?」

 たらたらと汗を流すシオの瞳は頬の痛みの所為か、若干の潤いを有していた。
 おれはシオのその瞳を真っ直ぐに見つめつつ、口端をつり上げわるく笑う。己の人差し指をつうと、そこに滑らせて。


「―――上書き」


 そっと、唇を乗せる。


 光を跳ね返す色は滑らかで温かく、汗ばんだ肌は甘く香る。
 それによって目眩に似たくらくらとした感覚に襲われたおれは、熱に浮かされた頭でこの幸福の呼び名を考えていた。

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