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『お腹が空きました』


 学校帰り。
 自宅の玄関扉の真ん前を陣取り見知らぬ男の人が膝を抱えて座り込んでいたら、誰だって驚くと思う。

 だけど、

『甘いものが食べたいです』

 悪い人――いや、そんなに悪い悪魔には見えなかった。


 アマイモンと名乗った彼が悪魔だと私が直ぐに気付いたのはきっと、私の叔父が中々に実力のある祓魔師(エクソシスト)だからなのだろう。
 それまでにも私は日常生活の中でも度々、悪魔を見てきていた。だからなのか私は、彼が普通とは違う――何か、特別なものだと本能で悟った。


 だけどやはり、彼の纏う雰囲気だとかその眠たそうな瞳からは到底、危険だと思うことはできなくて。

 お菓子を作ることは、好きだった。
 私の唯一誇れる特技でもあり趣味でもある――その日家にあったのはミルフィーユだったので――それを皿に乗せて差し出せば、ものの数秒でその一人で食べるには少々大き過ぎるくらいの塊は彼の口内に掻き消えてしまい、

『…とても、美味しかったです』


 また来ますと言ったその言葉の通り。
 それから彼は時折、私の家を訪ねてくるようになった。



 だけど。


「こんばんは」

「何で…」


 今日は会いたくない。
 私はそう思ったからこそ、毎日来る訳でもない彼の為に常に開けていた自室の窓に、鍵をかけた訳で。

 何故、彼は今私の家のリビングに堂々と居座っているのだろうか。

 私は慌てて一歩、後ろに下がる。
 …昨日、他の人からしては大したことがないのかもしれない。だけど、私にとってはとても辛いことがあった。その所為でひどく泣き腫らした赤い目を、見られたくない。
 私は隠すようにして顔を俯かせた。

「今日のおやつは何ですか?」

 そんな私の思いなど露知らず。こてりと首を傾げた悪魔は、飄々とした足取りで私との距離を縮めてくる。

「…買っておいた、市販のプリンならあるけど…」

 私はすっと、キッチンの方を指差す。それは、彼を近付けさせたくなかったからでもあり。

「そうですか」

 私の思いが伝わったのかどうかは、分からない。だけど彼の進路はふらり、私から逸れる。向かった先は、勿論キッチンだ。

 がちゃり、それと分かる扉の開く音。

 彼は小さなその容器を手に、ゆったりと再び私の方向へと歩み寄ってきた。
 そしてべりっ、私の目の前でその蓋を開け――その入れ物を傾ける。

 ごっくん。

 彼の栄養摂取はいつもの如く、ほんの一瞬だった。

「…あなたが作ったものの方が、美味しいですね」

 真顔で呟かれたその言葉に、私は少し目を丸くする。

「…ありがとう」

 まだ落ち込んでいたけれど少し、元気が出た。
 私が相変わらず顔を伏せたままそう言った…そのとき。

「シオさん」

「!!」


 にゅっ、と。


 突如その独特な瞳に顔を覗き込まれた私は、思わず一歩後退る。

「びっ…くりした」

「そうですか?」

 僅かに首を傾けるアマイモンは、私の足元にしゃがみ込んでいて。
 私は呼吸を整え、若干視線を逸らしながら口を開く。

「…あんまり、近付いて来ないで」

「何故です」

 間髪を入れずに返された言葉。
 私が返答に詰まっていれば、アマイモンはややあってその唇を開いた。

「赤く腫れた目を、僕に見られたくないからですか?」

「…」

 気付いていたのか、と。
 私は押し黙る。

 しかしアマイモンはそんな私の様子を気にすることもなく、するりと言葉を続けた。

「まあ、昨夜あれだけ泣いていたのなら仕方がないですよ」

「!」

 これには、私も驚いた。

「どうして…」

「見てましたから、昨日」

 戸惑う私に、単純明快な答え。しかし私の疑問は晴れない。
 確かにアマイモンが私の家を訪れるタイミングはばらばらだった。二週間と来ないときもあれば、三日続けて来るときも。だから昨日、彼が私の家を訪ねて来たとしても、何ら不思議はない。

 だけど。

「昨日…だって、会ってないよね?私」

「はい。家の中には入りませんでした」

 正確には入れなかったんですけど、と続けたアマイモンの言葉に私が首を捻れば、彼の目が眠たそうに――だけど、真っ直ぐ私の瞳を見つめた。

「あなたが泣いていたので。…僕には、どうしたら良いのか分かりませんでした」

「………」

 私は口をつぐむ。
 アマイモンはいつもの通り、無表情だった。

「だから僕は今日、あなたに会いに来たんです」

「…?」

 私の訝しげな様子が伝わって来たのだろう。
 「兄上に聞いてきたんです」と尋ねてもいない疑問に答えてくれたアマイモンはゆっくり、立ち上がる。


 ぱしりと、取られた腕。


 驚きに目を丸くする間もなく、不意を付かれた私の体はあっさりと引き寄せられて――…。


「ア…アマイモン?!」


 私の鼻先にきゅうと、見慣れた縞模様のネクタイが押し付けられる。
 私の体を包むその力はまるで、加減が分からないかのようにひどく緩やかなもので。

「はい」


 気付けば私はアマイモンに抱き締められていた。


 かあああ…。


 頬に熱が集まるのが、分かる。
 男の子にこんな風にして抱き締められたことなど、初めてだった。

 私の呼び掛けに律儀にも返事をしたアマイモンはしかし、その先のあるはずもない私の声を待つでもなく、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「大丈夫ですか、シオさん」

 私に触れる広い胸が、落ち着いた声と共に低く震える。
 私はその振動とそこから伝わる温もりにやがて、緊張に固まってしまった体から力を抜いていった。

「うん…ありがとう、アマイモン」

 私はアマイモンのその言葉に小さく微笑み、そっと呟く。その声は思っていたよりもずっと、甘えたようなものになっていた。
 そのことに少し照れ、それと同時に私の胸へと湧き上がってきたのは…後悔の念。

――…こんなことなら昨日もちゃんと泣いてないで、何かお菓子でも作っとけば良かった。

 友人とちょっとした喧嘩をし、少し泣いていただけの私に対してこんなにも優しい言葉を掛けてくれるアマイモン。そんな彼に何のお礼もしてあげられないということがひどく、申し訳ないと思った。

――ん?…お礼?

 そこでふと、私はあるものの存在を思い出す。

「あ、そうだ」

「?」

 とんとん。軽くその二の腕の辺りを叩けば、アマイモンはあっさりと私の体を解放した。
 私は小走りで自室へと向かい、そして"それ"を片手に再びアマイモンの元へと舞い戻ってくる。

「ね、アマイモン手出して」

 言えば、彼は素直に従った。
 差し出されたのは左の手のひら。私はその手首に、そっとそれを回す。

 大分前から、友人たちの間で流行っていたミサンガ。
 つい最近、久しぶりに作ってみたそれは、気付けば黄緑と緑そして紫の三色が使われたものになっていて。
 無意識で編んだ、アマイモンの色。ちょっとしたお礼には、ぴったりだろう。私はそう思った。

 しかし、

「…あ…」

 色はともかく、私用に作ったそのミサンガ。
 その上今回は少し失敗してしまい、自分に付けるのにも少し短いくらいの長さにしてしまったのだ。

 それは当然…、

「結ぶんですか?…少し、足りませんね」

 アマイモンの手首のサイズには合わなかった。

 むむ…と少し唸った私はしかし、直ぐに思い付く。手首からそのカラフルな紐を外し、アマイモンの――指へとそれを掛け直す。

 今度は長すぎるそれ。
 細くも骨張ったその指をしかし二周もすれば、やっとその長さは丁度良くなった。

「――…できた」

 ふう、と私は息をつき、その独特の眉のようにきょとんと珍しく僅かに丸く見開いているアマイモンの瞳を見上げる。

「お礼に、そんなので良ければ…あげる」

 糸を紡いだ紐からできた、ちゃちな作りの小さな指輪。

 アマイモンはしかし、そんなものを感心した様子で見つめ、光に翳し、再び見下ろし、しげしげと眺め――…そしてぽつり、口を開く。


「――成る程。これが"婚約指輪"というものなんですね」


「………へ?」

 ぱちくりと瞬いた私はしかし直ぐに、はたと気が付く。
 図らずも指輪といえばと思い、私がそのミサンガを巻き付ける為に選んだアマイモンの指は――薬指。

 慌てた私が訂正の言葉を発するよりも早く、アマイモンはするりと私の手を取った。
 私の――左の手のひらを。

「じゃあ僕もこの次来るときにはきちんと、用意してきますね」

 「それまで…、」と言葉を切ったアマイモンは、不意にその顔を伏せ、


 ――ぱくり、


「――っ…?!」


 私の薬指を、口に含んだ。
 ぺろり、と湿った温かな感触が肌を滑れば、私はびくりと体を震わせてしまって。
 折角落ち着いた頬の熱が、再び私の顔を上気させる。

 咄嗟にその手のひらを引き抜こうにも、そんなに強い力で押さえられているようには感じないそこはしかし、びくともしない。
 私が羞恥に目を伏せ、再度上がりそうになる妙に艶を含んだ声を唇を噛み締め堪えていた、――そのとき。


 …――ガリッ、


「…ッ!?」

 突如私の指の付け根辺りを襲った、鋭い痛み。
 私がその痛みに顔をしかめたその瞬間、ぺろりとそこから染み出した赤を舐めとり、アマイモンは顔を離す。

「――これで、我慢していてください」

 言われて自分のそこへと視線を落とせば、左手の薬指――そこに、まるで変わった指輪のように点々とその指を取り囲む赤が見えた。

「…あなたは、甘い」

 どこから取り出したのか。くるり、アマイモンが私に踵を返したその瞬間にはもう、その手のひらには大きなロリポップ型のキャンディが握られていて。

「匂いからそうだろうとは思っていましたが……やはりあなたは、とても甘い」


 凄く、食べたくなってしまいます。


 そう呟いた声は冗談には聞こえなくて、ぞくり、私の背中は粟立った。

 ゆっくり、アマイモンは私から遠ざかっていく。
 渦巻き模様の大きなキャンディをその鋭い牙で咥えながら、アマイモンは開け放った窓の前でくるり振り返った。

「また来ます」

 そう言ったアマイモンは、その口に依然その砂糖菓子を含んだまま器用に口端を持ち上げ少しだけ、しかし、凄く嬉しそうに――笑った。


「待っててください、僕の花嫁」



笑う悪魔と
エンゲージリング




 大きく脈打った私の鼓動はきっと、悪魔に魅せられた恋の音。



11.10.23