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 そこは、白紙になっていた。

 いや違う。正確に言うならばそこは、完全なる白ではない。一応、吹き出しというものはある。実際には吹き出しとは名ばかりで、その中にはただ一つも文字のないただの丸なのだが。
 私の手の内に収まる一冊のコミック、その中のとある一ページ。
 しかしながら"その人物"によって埋め尽くされていたはずのそこから彼が消え、すっきりぽっかり。一目見た瞬間には、まるでそこが白紙になってしまったかのような錯覚を覚えた。それがあくまでも錯覚に過ぎないということは次のページぺらり捲り、何もない空間をサスケが見ているという何とも不可思議な絵を見ることによって確信できた。

 ぱちり、私はそこで漸くと視線を持ち上げる。
 そこにあったのは、赤。『NARUTO』――私の持つその単行本の中に本来描かれているべき、二つの赤い瞳だった。


「あの〜…」

「………」

「うちはイタチさん、ですよね?」

「…だから、そうだとさっきから言っているだろう」

 ふうと流れるようにして動き、抑揚なく言葉を紡ぎ出した薄い唇。後ろで一つに纏められた長く艶やかな漆黒の髪。ハの字に刻まれたゴルゴ線は少々気になるものの、やはりとんでもない程の美人だ。
 そして、美人が怒ると怖いとはよく言ったもの。

「それで、オレを元いた場所に戻せるんだろうな?」

「………」

 何とも言えない私は、ただただ口を噤むしかない。

 なんと言うかまあ、苛立っていらっしゃるイタチさんは……大迫力だった。





 私は、イタチ兄さん信者ではない。寧ろ、デイダラくんやサソリさん、芸術コンビの方が好きだ。二人が出てくる巻は何度も何度も繰り返し読んだのだが、実を言うならばイタチさんの登場巻はそこまで読み込んでいない。
 ところで私の友人には一人、熱心なイタチ兄さん狂がいる。今日も彼女はそこが教室という一つの公共の場であることを恐れず、イタチ兄さんの魅力を熱弁し、イタチ兄さんの悲劇の運命に声を震わせ、イタチ兄さんの最後を回想し涙を浮かべていた。彼女のそれは常で、周りの人間は私を含め、もうそんな話は聞き飽きている。

 しかし、その日私は何故だか、彼女の演説に心引かれたのだ。
 久しぶりに読み返しても良いかな、そう考えた私は、早速家に帰るなりNARUTOというタイトルがずらり並ぶ本棚へと向かった。イタチ兄さんが実弟であるサスケに殺される四十三巻。過去に読んで特に泣いた訳でもないその一冊を私は改めて読み直さんと手に取り、早速ページを開いた。


 そこからはもう、お分かりだろう。


 ――ぼふん!

 途端、大きな音を立ててもくもくと煙を立たせた一冊の漫画に、私はわあだかぎゃあだか色気のない悲鳴を上げ、思い切り体を固くした。
 溢れる白が落ち着いた頃、見つけたのは黒地に赤の雲が浮かぶどこかで見たことのある外套、そしてそれを身に纏ったこれまた見たことのある顔で。
 直ぐに分かった。私も伊達にオタッキーの一人として、芸術コン芸術コンはあはあと鼻息を荒くしている訳ではない。これは、よくある夢小説的展開だと。

 そこからの私は早かった。初めから展開が分かっているのだったら、ここはどこだ下手に隠し立てをするのならば命はないぞと、それこそよくあるパターンに突入し、態々自分の命を危険に晒すこともない。
 私を見留めたイタチ兄さんがきゅうとその柳眉を歪ませ訝しげな表情を作ってその唇を開きかけた瞬間、私は声を張って一気に説明を繰り広げたのだった。
 困惑の表情を浮かべたイタチさんに反論の余地を与えず、私はべらべらと一方的に捲し立てる。この道はプロだ。ありとあらゆるタイプの夢小説を読み漁り、何度も疑似体験を重ねてきた。疑われるであろう事柄は既に分かっていた為に、イタチ兄さんが何を言わずとも私は彼の疑問に答え、宥めて、彼が全てを納得せざるを得ないようにしてこの世界の説明を終えた。

 そして今、私の首は無事繋がっている。
 イタチさんは暁の中でもかなり安全な方だと理解はしている。だがしかし、やはり怖い。
 取り敢えずは命が繋がったのだと、私はほっと胸を撫で下ろした。



 イタチ兄さんは聡明だった。きちんと順序立てて説明すれば、ここは異世界だということをすんなりと理解した。
 しかし、だからといって流石の彼も、完璧に落ち着いていられるという訳ではないらしい。

「……シオ、と言ったな」

「はい」

「オレは一刻も早く向こうの世界に戻らなければならない。……協力してくれ」

「…………」

 聞けば、イタチさんは丁度今からサスケと戦うというところで目映い光に全身を包まれ、気がつけばこの世界に来てしまっていたらしい。
 しんとした決意と憂いとを秘めた瞳が伏せられた瞼によって長い睫毛に翳るのを見、私は小さく唇を開いた。

「来ちゃったものはもう、仕方がないですよ。のんびり待ちましょう」

「しかし、」

「ひょっこりこっちに来てしまったっていうことは、いつかはひょっこりあっちに戻れるっていうことでしょう。何も、急いで…死ぬ為に戻ることないじゃないですか」

「………」

 イタチ兄さんには、全てを隠さず伝えた。未来も過去も、私は、全てを知っているのだということを。

 押し黙ってしまったイタチさんをぼんやり眺め、そして私はふと口を開く。

「あれ? ところで兄さん、目の方は…」

「…理由は分からないが問題ない。見えている」

「へー」

 流石は夢小説的お約束展開、私は心の中で呟いた。

「と言うか、"兄さん"とは何だ」

「あ」

 つい口が滑ったと大袈裟に両手で唇を押さえてみたところで、最早どうしようもない。あははと苦笑いを溢しつつ、私は素直に白状した。

「いっつもそう呼んでたんですよ。"イタチ兄さん"」

「…、そうか…」

 ぽつり、唇の先だけで小さく相槌を打ったイタチ兄さんは、こちらの世界に来てからそのとき初めて、僅かにしかし大層美しく微笑んだ。





 一人暮らしがしてみたいと駄々を捏ね、やっとのことで獲得した念願のアパートひと部屋。しかし両親は手強かった。なんとうちには、テレビというものが存在しないのだ。
 最初の内はイタチ兄さんも色々なものに対して興味深そうな視線を熱心に送っていた。がしかし、所詮は狭いアパートの一室。暫くの後に窺った兄さんの表情は少し、退屈そうに見えた。
 ちなみに言うなら、携帯電話を弄る以外にすることがない私もまた然り。兄さんの存在をスルーして好きにしていても良いのかもしれないが、流石に彼の目の前で彼の知り合いの夢を見てにやにやすることは躊躇われた。

「…イタチ兄さん」

 呼び掛ければ、すうと向けられた黒曜石の瞳。私はその犯罪者とは思えぬ程に澄んだ光に一瞬言葉を詰まらせつつ、何とか思い付いた暇潰しの方法を切り出す。

「この近くに、美味しいお団子を売っているお店があるんですけど…」

「よし、行こう」

 すくり、間髪を容れずに立ち上がったその瞳は、一瞬赤く光ったような。

 …そんな馬鹿な。

 急かされるままに動き出した私の手を引き、早速玄関へと向かい始めたイタチ兄さんを私は慌てて引き止め、目立ち過ぎる外套を自主的に脱がせ冬の寒い日の為にと買っておいたぶかぶかのパーカーを手渡した。

 ちなみにその間、イタチ兄さんは何故早く団子の元へ向かわないんだと真っ赤な瞳で私にジト目を向け続けていた。

 …ねえ兄さん、それさっきとキャラ違うよね。





 大通りに面した一つの、とある和菓子屋さん。その中にいざ踏み込んでみたは良いものの、肝心の団子を目にした途端イタチ兄さんは固まってしまった。

「……こ、こんなものは団子ではない」

「!」

 美人の兄さんを認識し、にこにことやけに愛想が良かった店のお姉さんの笑顔が一瞬にして凍り付いた。
 何てことを言うんだと勢いよくその顔を見上げれば、「三色でない…だと?」と兄さんは四個ずつ連なり串に刺された、こちらの世界では一般的な形の団子を睨み付けている。

「ちょっと外で待っててください」

 仁王立ちのまま微動だにしなくなったイタチ兄さんの体を無理矢理に引き摺っていき、私はにっこり笑って店の外へとその背中を突き飛ばした。
 その後は居心地の悪い空間の中、私は取り繕う言葉をいくつも並べつつ何とか味違いの三つの団子を購入し、肩を怒らして自動ドアを潜り抜けた。

「イタチさんっ…! 何で、あんな失礼なこと言うんですかっ」

 団子が絡むとどうやら少々性格が変わってしまうらしい兄さん。
 初めから謝罪は期待していなかった、しかし。

「すまなかった……」

 ここは異世界だったということを、どうやらイタチ兄さんは思い出したらしい。気の毒な程に反省の色が窺えたその頭頂部に、私は少し慌てる。

「い、良いですよ、分かっていただければ。ほら、頭を上げてください」

 ちらり、こちらを上目で窺う兄さんの眉は少し下げられていて、ちょっと可愛かった。思わずくすり、小さく笑みを溢してしまえば、「…何故笑う」と不貞腐れたような声色が直ぐさま響いてきて。

「何でもないです」

 言ってそれでも小さく肩を揺らし続ける私を見、兄さんは少し呆れたようだった。
 しかし、穏やかな黒はやがて仕方がないなとでも言うように、緩やかな弧を描く。

「家に戻ろう」

「はい」

 私は清々しい思いで、大きく頷いた。