酒と、女と、哀しみと

 夕暮れどき、雲間から差す光は朱を帯びる。そろそろ一日の終わりが近いだろう、その光は大なり小なりひとびとを感傷させた。そんな空を、マルコは同じく朱色をした飛空挺で進む。ときおり降り注ぐ光に目を細めながら、沈みゆく太陽を見送った。目的地に到着するころには、夜の帳も降りきるだろう。自由を求める者たちの憩いの場、ホテル・アドリアーノは、もうすぐそこだ。

 速度を落としながら着水し、飛空挺を寄せていく。停泊場には、すでに数多くの船や飛空挺がとまっていた。マルコは飛空挺が完全に停止したのを確認すると、ベルトを外して降り立つ。そして慣れたようにボーイへチップを渡し、煙草を一本、取り出した。ふと、ここらでは見慣れない飛空挺が目に入る。マルコはマッチを擦ろうと手は動かしながらも、じっとその飛空挺を観察した。深い紫色をした機体、尾翼にはとぐろを巻く蛇のマーク。たしか、あれはーー
(どこのどいつかは知らねえが、良いもん持ってんじゃねえか)
 フ、と音にならない息をひとつ、マルコはそこで視線を切った。そろそろ渇いた喉を、美味いワインで潤したい。またしっとりとした空間で食べる夕食は、なによりの癒しである。マルコは明かりの灯る賑やかな方へと、足を動かした。



 ドアを開けて店へ入ると、そこではちょうどジーナが歌を披露していた。妙にしんとした店内が、彼女の歌声をほどよく反響させる。マルコはカウンターに近づき、いつのも酒を注文した。今夜も、ここには静かな音楽と濃い酒のにおいが在る。紫煙を吐き出すと馴染むそれらに、マルコは気を緩めた。そしてバーテンダーが酒を用意すれば、いよいよ体の力みがとれる。
 しかし気を緩めたのも束の間、満席のテーブルから二人の男が顔を出した。ひとを掻き分け、二人はあっという間にマルコの前へ立ちはだかる。パシャリ、とカメラの眩い光が容赦なくマルコの顔を捉えた。
「ポルコ・ロッソさん! ネプチューン社の特派員ですが、今回もお手柄でしたねえ!」
 彼らような者たちの相手をするのは、べつに今回がはじめてではない。マルコは嫌悪するでもなく、ただただ彼らを自由に喋らせた。こんな場所までやってくるなんて、難儀なことだとは思う。しかし彼らだって、生きていくために必死なのだ。そのためにはいちいち相手の、それもブタのご機嫌とりなどしている暇はない。はじめのころは驚いたが、無遠慮に畳み掛けるのがやつらの手口と知れば、可愛いものだった。
「これでマンマユート団は、当分再起不能でしょう! ところで今年の賞金総額の予想ですが、去年を軽く越えるとーーうおっ!」
 しばらくそのままにしていると、二人の背後から見慣れぬ男が近づいてきた。男は二人の首根っこを掴むと、引きずっていく。そして手近なテーブルに、強引に二人を座らせた。どうやら彼らの手口が、気に食わなかったらしい。ちいさく歌がどうの、という怒気を孕んだ言葉が聞こえる。
「……素晴らしいひとだ。ホテル・アドリアーノのマダム・ジーナは、国の飛空挺乗りにも有名だもんな」
 歌い終えたジーナへ拍手を送りながら、男は言う。そのまま行ってしまうかと思えば、男はマルコの隣へ並んできた。黄色いスカーフを首に巻き、体からは品のよい香りを漂わせている。
「表のカーチスは、お前のか」
 マルコの放ったそれは問いかけというよりも、確信めいた発言だった。見慣れない飛空挺に、見慣れない若男。結びつけるのは、容易い。現に、男もとくに驚くことをせず「ああ」と返す。
「名声と金を運んでくる、幸運のがらがら蛇さ」
「……シュナイダーカップで、二年続けてイタリア挺を破ったやつだ」
 マルコの言葉に、男は「空中戦でも強いぜ」と自信たっぷりに言う。続けて、意味深な視線をマルコに寄越した。
「ここらじゃ、ポルコ・ロッソとかいうブタが名を売ってるそうじゃないか」
 さきの特派員とはまた違うが、こういう好戦的なやつも、真面目に相手するだけ疲れる。マルコは返答の必要はないと、新しい煙草に火をつけた。おもむろに、客席を回るジーナへと視線を移すーー
「お、おいっ! ここで火事でも起こす気か、まったく!」
 隣の男がそう吠えるまで、マルコは意識を飛ばしていた。はっ、として見ると、男がごしごしと床に片足を擦り付けている。どうやらぼんやりしていた間に、煙草が落ちたらしい。男の足元からは、うっすらと紫煙が上がっていた。マルコは慌てて「わ、悪い」とあやまる。心臓の鼓動が、いやに大きく聞こえた。

 なぜ、いまのいままで気づかなかったのだろう。満席だと思われた店内にひとつだけ、ひとり寂しく腰掛けているテーブルがあった。そこには落ち着いているというか、ひどくいえば地味な装いの娘がいる。しかし憂いを帯びた横顔に、そのドレスはよく似合っていて。また薄化粧が、元から質のよい素材をさらに引き立てていた。
 エリー、とマルコは出かかった言葉をなんとか飲み込む。久しぶりに見たエリーは、思わず声をかけたくなるほど、綺麗になっていた。両頬を赤く熟れさせ、楽しそうにジーナと話している。
「……空賊と関われば、また会うこともあるだろう。じゃあな」
 すると言いたいことを言い切ったのだろう、男はマルコの横を離れていった。最後の言葉から察するに、どうやら彼は空賊どもに用心棒として雇われたらしい。いまだ混乱の最中にある頭でも、マルコはそれだけは理解したーー
「あの野郎……!」
 いままでマルコの横にいた男は、まっすぐエリーとジーナがいるテーブルへ向かった。そしてあろうことか、エリーの座る椅子の背もたれに手をかけ、なにやら親しげに話しはじめたではないか。これには、さすがのマルコも黙ってはいられない。一瞬にして混乱は吹き飛び、考えるまでもなく体が動く。マルコはどすどすと足音をたてながら、エリーのいるテーブルへと急いだ。
 いままで、ジーナを口説く輩は数多く見てきた。だがエリーが絡むとなると、話はべつである。彼女は人見知りだし、なによりあんな男が気安く近づいていい人間ではない。頬を上気させたエリーは、たしかに魅力的だが、見逃すわけにはいかないのだーー
「っ、ジーナ! なぜエリーに酒を飲ませた! こいつが下戸なのは、知ってるだろ!」
 だが男に向かって飛び出すはずだったものは、さらに怒気を強めてジーナへとあびせられた。もはやエリーの横にいる男のことなんて、かまってはいられない。憤りが頂点に達したそのとき、マルコの視界にはジーナとエリーしか映らなくなった。
 テーブルの上には、空になったグラスが二つ。妙にエリーの頬が赤いなと思えば、それは酒に酔っていたからだった。ワイン一杯で潰れるようなやつに、ジーナは酒を飲ませたーー!
「マルコ!? ち、違うのよ。これは、その!」
「……エリー、こっちへ来い。来るんだ!」
 ジーナはとつぜん現れたマルコに、目を丸くさせた。そしてなにやら、弁明するようなことを口走る。だがそれよりもはやく、マルコはエリーの腕を引いて、席を立たせた。とにかくここから離れようと、力任せに細い腕を引っ張る。そのとき、後ろでなにか聞こえた気がしたがーーマルコには関係のないことだった。

 ひとびとで賑わう店の、奥の方。酒場から離れたそこは、酒のにおいがうすく、人影もすくない。マルコはそこまでエリーを連れてきて、ようやく掴んでいた手を離した。しかし安全地帯にぶじ逃れたとはいえ、怒りがおさまったわけではない。マルコは鼻息を荒くしながら、エリーに向き直った。彼女は、なぜか一言も発しない。
「まったく、お前もお前だ! なぜ弱いと知っていて、酒を飲んだ! ここは、都会にあるような品のいい店じゃねえ。女が酒を飲んで潰れたと知れば、男はハエのように群がってだな! って、お、おい……!」
 刹那、ぽたりと透明な水が床に落ちる。見ればエリーの両目から、大粒の涙があふれていた。マルコはぎょっとして、思わず口をつぐむ。彼女は火照った頬と虚ろな瞳をそのままに、静かに泣きはじめた。慰めたいのに、ひどく触れがたい。そんな、いつかを彷彿とさせる泣き方でーー
 マルコは一瞬、取り乱したものの、そっとエリーから距離をとった。後ろから、ジーナが焦った顔をしてこちらへ向かって来るのが見える。するとはあ、と大きなため息をひとつ、マルコは目を伏せた。柄にもないことをした、とはいまさらである。

 いまごろ、エリーはホテルのベッドで休んでいるだろう。マルコは向かいに座るジーナを気にすることもなく、食事を続けた。ワインを飲み干したところで、ジーナがゆっくりと口を開く。
「あの子、言ってたの。姉さんが泣かないなら、私も泣かないって……馬鹿よね。お酒で気を紛らわせたって、虚しいだけなのに」
 その夜、マルコは旧友がまたひとり、確実に遠くへいったのを知った。だが流す涙は、もうとっくの昔に枯れている。それでもあまり悲しくなかったのは、きっと彼女のおかげだろうとマルコは思った。

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