二つの青に想いを馳せて

 しまった、と額に手を当ててももう遅い。エリーは揺れる水面のさきを、恨めしげに見つめる。頭上では一機の飛空艇が、ちょうど通り過ぎたところであった。大きな入道雲を物ともせず、まるで立ち止まるエリーをあざ笑うかのように、飛空艇は小さくなっていく。エリーは口をへの字に曲げると、ひとまずアイスクリーム屋を探すことにした。イタリアの夏は今年も、うだるように暑い。

 絵葉書に書いた手前、エリーはきちんと休暇をとり、ホテル・アドリアーノを目指していた。長時間バスに揺られ、ときには荷物を背負って道を歩き。流れる風景を眺めるも、頭のなかではジーナのことを考えた。しかし意外な盲点というか、エリーは完全に失念していたのである。ジーナがいるホテル・アドリアーノが、どんな場所にあるのかーー
(困ったわ……ホテル・アドリアーノは、水上にあるお店。飛空艇か船がないと……)
 目の前に広がる海原は、非情にもエリーの行く手をはばむ。アイスクリームを食べながら解決策を考えるが、とんとよいアイデアは浮かばなかった。それよりも溶けだすアイスクリームに意識がいってしまい、エリーはあたふたする。時間は刻一刻と過ぎ、もうすぐ日が沈もうとしていた。
(観光船か、観光艇。あればいいのだけれど)
 ホテル・アドリアーノ行きの乗り物があるという話は、聞いたことがない。ジーナも、お客はみな自分の船なり飛空艇でやってくると言っていた。エリーのように赴くすべがない場合は、連絡があれば迎えに行くとも。それならそこらの店で電話を借り、一報入れれば済む。しかしどうにも、エリーは気が進まなかった。道がないなら、このまま帰ってしまおうか。ここまできて次第に、そんな考えすら浮かんでーー
「やあ。なにかお困りかな、お嬢さん。こんなところに一人とは、あまり関心しないが」
 アイスクリームを食べ終えたころ、エリーは後ろから声をかけられた。振り向くと、すらりと背の高い男が片手を上げている。髪は黒で、首元には黄色いスカーフを巻いていた。少々うさんくささというか、全体的に軟派な印象を受ける。
「あ、えっと、その……ホテル・アドリアーノへ行きたくて。でも、飛空艇も船もないんです」
 エリーは答えながらも、すこしだけ後ずさりする。それは急に声をかけられたこともあるが、彼女の人見知りな部分がそうさせた。とくに男性相手だと、その気は強い。恐怖症とまではいかないが、昔からどこか会話がぎこちないのだ。
「……美しい」
「えっ?」
 男がなにか呟いた気がしたが、離れたせいかよく聞き取れなかった。聞き返すと、なぜか咳払いされる。エリーは不思議に思いながらも、男を見つめた。
「すまない。ホテル・アドリアーノに行きたいんだったな」
「え、ええ。連絡を入れれば済む話なんでしょうけど……それはちょっと出来なくて」
 エリーが尻すぼみに言うと、なぜか男は嬉々として「訳ありか!」と吠える。その声に、エリーはびくりと肩を跳ねさせた。結果、男はまたすまないと謝罪を入れる。佇まいを正して、エリーに向き直った。
「そういうことなら、おれの整備士に送らせよう。おれたちも、ちょうどホテル・アドリアーノへ行くところだったんだ」
「整備士……?」
 エリーが首をかしげると、男は胸を張る。そして聞いてもいないのに、飛空艇の操縦士なのだと鼻高々に語った。なんでもカーチスという飛空艇に乗っていて、腕には相当な自信があるとか。エリーは次々と出てくる武勇伝に、目をぱちくりさせる。それは正直なところ、初対面の女性に聞かせる話ではないような気がした。しかし彼があまりにも誇らしげに話すので、エリーはすっかり話を切るタイミングを逃していた。
 飛空艇という言葉を聞くと、胸の奥が痛む。エリーは本当は、飛空艇が好きではなかった。エリーが好きだったひとたちの心を奪って、最後には命までも奪っていったから。頭では戦争のせいだと分かっているのに、どうしても許せなかった。子供のころは、あれに乗ってどこまでも遠くへ行きたいと思っていたはずなのに。しかし脳裏に浮かぶのは、泣き崩れるジーナの姿と冷たい雨だけでーー
「お嬢さん? 顔色がよくないが、どこか具合でも?」
 はっと我に帰ると、男が心配そうにこちらを見ている。エリーは慌てて、かぶりを振った。幸いにも仄暗い残像は、すぐに消え失せる。
「大丈夫です、お構いなく。それよりも……ええと、ミスター・カーチス? 本当に、ホテル・アドリアーノまで送っていただいても?」
「もちろん。美しい女性のためとあらば、たとえ火のなか水のなか。大歓迎ですよ、お嬢さん」
 ぱちん、とウィンクをして男、カーチスは言う。次いで手を握ってきたものだから、エリーは盛大に飛びのいてしまった。カーチスの軽快な笑い声が、辺りに響く。
「なんともまあ、ウブなお嬢さんだ。どうだろう? 差し支えなければ、迎えが来るまであなたの旅の目的を教えてくれ。まさか、そこで働くボーイに会いに行くわけではないよな?」
 冗談めかして言うが、カーチスの顔は真剣だった。エリーはその見当違いな問いかけに、思わず笑みをこぼす。すると今度はカーチスが、目をぱちくりさせる番だった。
「違います、姉に会いに行くんです。もうしばらく会っていなくて、今日ひさしぶりに」
「ああ、なるほど。君の姉ということは、その彼女も相当な美人なんだろうな……」
 顎に手を当てたカーチスが、意味深に唸る。その間も、エリーはくすくす笑いを続けていた。ジーナはたしかに美人だが、エリーとは血が繋がっていない。もしも彼にジーナを紹介したら、似ていなくて驚くことだろう。彼女と義理であっても姉妹だなんて、エリー自身いまだに信じがたい事実だ。
「じゃあ、いまはフリー? 彼氏はいないのか?」
「……それ、初対面の女性に聞きます? 品がないと笑われますよ?」
 エリーが困惑気味に答えると、カーチスは口を開閉させた。途切れ途切れに「しかし」だとか「だって」という呟きが聞こえる。それはまるで、駄々をこねる子供のようだった。エリーは警戒していたことなんて忘れ、ころころと喉を鳴らすーー
「だが、想う男はいる。そうだろう?」
 さきの様子とは、一変。静かに放たれた一言は、エリーの動きを止めるには十分だった。口に当てていた手をそっと離し、カーチスを見つめる。しかしなぜ、と言葉に出すことは憚られた。それをすれば、認めたも同然だから。カーチスはしてやったりと得意げに、だがどこか残念そうに言う。
「おれが声をかけるまでずっと、あなたは空を見ていた。あの目は、そういう目だ……まったく羨ましいぜ、こんな美人に想われてよ」
 否定の言葉どころか、唸り声すらあげられない。エリーは完全に、身動きが取れなくなっていた。この数日間、ジーナの他にそのひとのことを考えていたのは、まぎれもない事実だったのだ。ジーナの幼馴染であり、エリーにとっては兄のような存在でもある、そのひと。自由と空をどこまでも愛し、旧友の死をひそかに悲しむ、やさしいひとーー
「あっ、その新聞記事! そいつがポルコ・ロッソとかいう、ブタだな!」
 すこしわざとらしく、声を上げる。カーチスはエリーのカバンから出ていた新聞を見つけ、指をさした。それはエリーがここへ来る途中で買った、地方紙だった。するとようやく、エリーは金縛りから解放される。おずおずと、カーチスに新聞を手渡した。
「空賊から、少女15人を無事救出! へえ、ブタのくせにやるねえ。こりゃ、おれもおちおちしてられないな! なあ、お嬢さん……?」
 エリーはじっと、カーチスの手元からのぞく写真を見つめる。いまや昔の姿は、見る影もない。しかし纏う空気というか、雰囲気がやはり彼なのだと思わせた。
 はじめて飛空艇に乗せてくれた日が、昨日のことのように蘇る。怖い怖いと泣き出してしまったエリーに慌てふためいて、あやうく墜落しそうになったのだ。そして彼はジーナにこっ酷く叱られ、エリーはしばらく飛空艇には乗せてもらえなかったーー

 それからの記憶は、ひどく曖昧だった。気がつけばカーチスと別れ、エリーは彼の整備士だというひとの船に乗っていた。ちゃぷちゃぷと、波の音がどこか遠くに聞こえる。エリーがホテル・アドリアーノに着く頃には、すっかり夜になっていた。

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