あなたの涙はうつくしい

 奏でられる音楽は軽快なものから、すでに落ち着いたバラードへと変わった。ジーナはバーテンダーに目配せすると、そっと持ち場を離れる。向かうはどうせ一人で食事をとっているであろう、幼馴染のもとだ。今宵も、ホテル・アドリアーノは海に生きる男たちで賑わっている。

 かちゃかちゃと器用にナイフとフォークを動かす様は、その容姿に不釣り合いだ。しかしジーナにとっては見慣れたもので、目の前の男をちゃかすことはない。ただ向かいに座って頬杖をし、大きな口へ運ばれるソテーをぼんやり見送った。飽きれば、男のさきにある写真へと視線をうつす。
「エリーは、元気なのか」
 視線をたどったのだろう、目の前のブタもとい、マルコ・パゴットは問う。するとジーナは待ってましたと言わんばかりに、微笑を浮かべた。幼い頃、エリーと撮った写真を見つめていれば、いずれ男が口を開くと見越していたのだ。
「てっきり、今年も断られるものだと思っていたわ。でも……なにかあったのかしらね、会いに来るって」
「……まさか、男か」
 マルコの言葉に、ジーナはかたむけていたワインを吹き出しそうになる。エリーが会いにきてくれないのは、もはや毎夏の愚痴であるが、その返答は予想外だった。離れた土地で暮らし、もうしばらく会っていないというのに、男の顔はいやに苦々しい。
 いままでエリーに浮ついた話がなかったことくらい、マルコなら知っているだろう。それにここへ来たくない理由だってーーそこでふと冷静になって考え、ジーナは笑みを深める。嗚呼、そういえばこの男は。昔のことを想うと胸が痛むが、この瞬間だけは、あたたかい感情に包まれた。
「違うわよ、エリーに限ってそれはないわ。もしそうだったとしても、私が許さない」
 どこまでも健気に、そして一途に慕ってくれるエリー。そんな可愛い義妹を、どこの馬の骨とも知れぬ男にやれるわけがない。本当に愛し合っているなら別だが、しばらくそれはないと、ジーナは確信を持っていた。というのも「姉さんを差し置いて、私が幸せになんてなれないわ」と、のたまう妹なのである。エリーは悲しいほどに、優しい娘だった。
「腕っ節のいい大工だろうと、お偉い政治家だろうと、あの子は嫁がせない。ねえ、マルコ。これは横暴かしら?」
 テーブルに肘をつき、上目遣いでマルコを見た。ジーナは完全に、男をからかう体制に入る。しかしマルコが放ったのは、面白みの欠片もない、冷たい一言だった。
「身内同士の問題だ。おれには関係ない」
 これにはさすがのジーナも、カチンときた。素直になれない大人など、この世に五万といるが、この男にはほとほと呆れる。なのでついつい、挑発するような口調になってしまった。
「ふうん? じゃあ私の結婚式のとき、新郎新婦を差し置いてエリーのドレス姿に魅せられていたのは、どこのどなただったかしら?」
「……さあてね、昔のことは忘れた。ごちそうさん、また来る」
 さっとナプキンで口元を拭い、マルコは席を立つ。すこし乱暴に代金を置くと、そのまま振り向かずに行ってしまった。ジーナが声をかける暇もない、素早い動きであった。テーブルでは、飲みかけのワインが悲しく揺れている。
「なによ、マルコの嘘つき。よりにもよって、忘れただなんて」
 怒らせてしまったのは、こちらの非だ。しかし間違っても、ジーナはそんなことを言ってほしくなかった。もう三度、結婚式をしているが、そのどれもがジーナにとっては幸せな思い出なのである。
 祝福が飛び交うなか、誓いのキスをして、ブーケを投げて、そしてーー式の最中でも、ジーナは目ざとくマルコがエリーを見ていたのをみつけていた。けして派手ではない、落ち着いたドレスに身を包んだエリー。三度ともハンカチで拭うことはせず「姉さん、とても綺麗よ」と、静かに涙を流していた。
「それにしても、照れ隠しが下手なひと。ねえ、マルコ……あなたになら、あの子のこと任せてもいいのよ?」
 窓の外は、すっかり暗くなっている。しかし飛び立ったその赤は、闇夜でもよく見えた。ジーナはぬるくなったワインを飲み干すと、立ち上がる。そろそろ、持ち場に戻らなくてはならない。まだまだこの店にとっては宵の口、ジーナには仕事が残っていた。



 バラバラとプロペラ音がするなかでも、男は物思いにふける。海鳥たちは巣へ帰り、代わりに空では欠けた月が顔を出していた。アジトがある無人島までは、もうすこしかかる。マルコは愛艇を操りながら、さきのジーナの言葉を思い出していた。
 マルコの捨て台詞である「忘れた」というのは、もちろん嘘だった。しかしあえて反論するならば、マルコはドレス姿に見惚れていたのではない。マルコが見ていたのは、あたたかい涙を流すエリーの姿だ。
 いまでも、そのときのことはよく覚えている。ジーナの結婚式の日、エリーはいつも泣いていた。普段から大人しく、引っ込み思案なあのエリーが。といっても子供のように喚くのではなく、しとしとと泣いていた。マルコが立ち合い人になって式を挙げたこともあったが、その日も変わらず、エリーは美しい顔を涙で濡らしていた。
(触れられやしねえよ、あいつには)
 男は思う、これは恋などではない。女の涙は心揺さぶるが、エリーのそれはどうにも違うのだ。小刻みに震える肩を、不思議といつまでも眺めたくなる。そして胸を貸すのは、きっとどんな色男でも許されない。当時のマルコは、たしかにそう思った。
 透明なその雫は、舐めれば塩辛いだけだろう。しかしまるで聖水のように澄んでいて、ただただ触れがたい。声をかけたら最後、なんだかエリーを穢してしまう気がした。なのでマルコは三度も、その様を見つめるしかなかったのだ。おそらく今後、似たようなことがあっても、彼女に触れることはないーー
「そうか……帰ってくるのか」
 つん、とした胸の痛みは、はたして存在したのか。ブタの姿では、よく分からない。しかしそれも一興だと、マルコは笑みをこぼした。もうすぐあの無人島が見えてくるだろう、すこしづつ飛空艇の速度を落としていく。すると気のせいか、エンジンが不穏な音を立てた。

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