その少女は、いま

 夕食の買い物を済ませた、帰り道。ふと空を見上げれば、すでにそれは通り過ぎた後であった。ごうごうと耳奥に、懐かしい音色がこだまする。真白い雲がいくらかさけ、そこからは青空がのぞいていた。どこかで見たような、不思議な既視感を覚える色だった。エリーはそこが大通りだということも忘れて、じっとその青を見つめる。どうしても懐かしんでしまうのは、年をとったからだろうか。馳せた想いは、誰に届くこともなく宙にとけるーー



 エリーの父が再婚相手に選んだのは、辺りでは美人と名高い婦人であった。まだエリーが、十歳にも満たない時の話である。そのとき人は見かけによらぬものだと、エリーは子供ながらに思った。あの偏屈で頑固者の父が、どうしてあんな美しいひとと。もちろんそう思ったのはエリーだけではなかったが、真相が語られることはついぞなかった。ただ「このひとが、お前の新しい母さんだよ」と紹介されたあの日、吐いた息はたしかに歓喜のものだった。
 新たに母となったひとには、すでに娘がいた。のちにマダム・ジーナと呼ばれ慕われる、そのひとである。しかしエリーと出会った頃はそんな面影は欠片もなく、ごく普通の娘であった。母によく似た目元が印象的の、優しく活発な娘。親の再婚相手の連れ子であるエリーにも、とても優しくしてくれた。まず姉さんと呼ぶのを許してくれたし、いつもおやつを仲良く分け合った。そしてそれまで内遊びが基本だったエリーを、よく外に連れ出してくれた。それまでどこぞの島国並みであったエリーの世界を、ジーナは瞬く間に広げていったのだ。

 空の色とは、また違った青色。帰宅時、ポストに入っていたのは、海が描かれた絵葉書だった。エリーは送り主をとくに確認することもなく、絵葉書をひっくり返す。すると見慣れた細い字で「お願いだから、今年こそは顔を見せてちょうだい。お姉ちゃんは、あなたのことが心配でたまらないわ」と綴ってあった。端には、愛しのエリーへジーナより、とサインが施されている。
(ジーナ姉さん……まだ、こんな)
 その愛のこもったメッセージは、エリーの胸をひどく締め付ける。だが彼女にしたためる文章は、すでに決まっていた。ごめんなさい、仕事が忙しくて行けないわーーたしかこの前買った、絵葉書の残りがまだあるはずだ。エリーは引き出しを開け、どこにしまったかと探しはじめる。できたら、彼女に負けない美しい絵葉書がいい。そんなことを思いながら。
 父と義母が亡くなって、はや五年。もうお互いを結ぶものはないというのに、こうしてジーナは手紙やら絵葉書をくれる。エリーがミラノに引っ越してからは、月に一度は必ずだ。そして夏近くになると、彼女がいるホテル・アドリアーノへ遊びに来ないかと、わざわざお誘いを入れてくれる。エリーがなにかと理由をつけて断ると知っていても、なお。
(花……は、どうせいつも貰っているわよね。だったらこっちの、浜辺の絵がいいかしら)
 見つかった絵葉書は、二枚。南国のものだろう花の絵葉書と、夕日に照らされた浜辺のものだった。エリーはしばらくそれらを見比べ、後者に筆をすべらせる。ジーナほど綺麗な文字ではないが、最大限の敬意と親愛を込めて、あらかじめ決めておいた文を書いたーー
「ごめんください。エリーさん、いらっしゃいますか?」
 コンコン、という控えめなノック音のあと、可愛らしい声がエリーを呼んだ。瞬間はっ、とまるで悪夢から目覚めたかのようにエリーは顔を上げる。ひとまずペンを置き、玄関へ急いだ。扉を開けると、そこには最近知り合った女の子が立っている。エリーはおりてきた髪を耳にかけながら彼女、フィオ・ピッコロに笑いかけた。
「あら、フィオちゃん。どうかしたの?」
「突然すみません。あの、夕食は?」
 どこか落ち着きのない彼女に疑問を持ちながらも、エリーは「いえ、これからよ」と答える。するとフィオは決心したかのように、強い瞳でエリーを見つめた。明るい茶髪のポニーテールが、しなやかに揺れる。
「その……もし良かったら、私と食べませんか? 今夜はおじいちゃんが出かけていて、一人なの」
 まるで、デートのお誘いね。もしこの場に義姉がいたならば、そう微笑んだことだろう。エリーも思わず笑ってしまいそうになったが、すんでのところで耐えた。真剣な眼差しで言うフィオに、それはあまりにも失礼だと思ったのだ。
 食事に誘うだけで、なぜこうもフィオが意気込んでいるのかは、定かではない。しかし年下の友人の誘いを断る理由はなく(ジーナの誘いは断ってばかりなのに)、エリーは快く承諾した。とたん、フィオが嬉しそうにはにかむ。うすく頬を赤らめて、ほっと息を吐いた。どうやら相当、肩に力が入っていたようである。
「良かった。お店はもう決めてあるんです、そこでいいですか?」
「ええ、フィオちゃんの好きなところでいいわ。そこには、よく行くの?」
「はい! 昨日も、おじいちゃんと行きました。パスタがとても美味しいお店なんです!」
 目を輝かせて語るフィオに、エリーは堪えていた笑いをすこし漏らした。その勢いは、若さゆえだろうか。自分だって彼女くらいの時があったはずなのに、その眩しさがなぜかひどく身にしみる。エリーはすっかりくすんでしまった自分の輪郭を、いやでも思い知らされた。
 フィオと話していると、ふと子供の頃に戻ったような錯覚に陥る。美しく優しいひとたちに囲まれ、未来を思い描いた毎日。大人になったらあれをしよう、あんな服を着て町を歩くのだと、あの頃のエリーはいつだって夢に溢れていた。それもこれも、外に連れ出してくれたジーナのおかげだった。そのうち、年は離れていたがジーナの幼馴染たちとも親しくなって、さらにエリーの世界は広がった。思えばなによりも愛しくて、尊くて、かけがえのない日々だったーー
「エリーさん? どうかされました?」
「っ、ごめんなさい。ちょっと考え事を……あ、そうだわ!」
 首をかしげるフィオをそのままに、エリーは部屋に引っ込んだ。ぱたぱたと足音を鳴らしながら、例の絵葉書のもとへ走り寄る。そしてペンをとると、さきの文章に勢いよく横線を入れた。弾ける感情に身を任せ、書きなぐる。すると出来上がったのは淑やかな親愛の手紙というよりも、まるで思いの丈をぶつけたポエムのようだった。エリーは財布と絵葉書を手に、玄関へと急ぐ。そのとき年甲斐もなくはしゃいでいるのに気づいたが、エリーにそれを止めるすべはなかった。玄関へ戻ると、驚いた表情のフィオと目があう。
「途中で手紙を出してもいいかしら。そんなに時間は、とらせないから」
「ええ、いいですよ。綺麗な絵葉書ですね、お姉さんにですか?」
 手元をのぞき込んだフィオに、エリーは笑顔でうなずく。筆マメな義姉がいることは話しているから、それは当然の反応だった。しかし絵葉書を褒められたのが、たまらなく嬉しくて。自分でも分かるほど、口元が緩んでいた。するとそんなエリーを見てか、フィオも笑みをこぼす。
「ふふ。エリーさんに想われて、お姉さんは幸せ者ね。羨ましいわ」
 つぶやくように吐かれたそれは、エリーに若干の違和感を抱かせた。果たしてフィオが羨ましがる部分など、いままであっただろうかーー? だがそう思ったのもつかの間、フィオがエリーの腕を引いたので思考は打ち切られる。
「さあ行きましょう、エリーさん! はやく行かないと、美味しいお店だからきっと混んじゃいます!」
 ほらほら、とフィオはエリーの手を握ったまま歩き出す。その様は、幼い頃のやりとりをひどく彷彿とさせた。蘇る情景に、重なる面影に、エリーは密かに笑みを深める。嗚呼、こんなにも穏やかな気持ちになったのは、いったいいつぶりだろう。
『行くわよ、エリー! マルコが飛行艇に乗せてくれるんですって!』

〜本当は「いいえ」と書くつもりだったのに、すこし事情が変わりました。姉さん、どうかそれまでお元気で。愛しのジーナへ、エリーより〜
 そんな文章を乗せた絵葉書が、ホテル・アドリアーノに着いたのは、それからしばらく経ってからのことであった。

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