優しさは海のもとで生まれる

 一定の間隔で、引いては満ちる波。そんな穏やかな水の音が、そっとエリーの意識をすくい上げた。瞼を開け、何度か瞬かせると、次第に視界がはっきりとしていく。鼻腔をかすめるこの香りは、細く開けられた窓からだろう。普段の目覚めとは違い、優しい潮の匂いがエリーを包んでいた。
 ここは、海の上。エリーは昨夜から、ホテル・アドリアーノへやってきていた。

 目が覚めても、しばらくエリーはベッドの上にいた。昨夜、少量でも酒を飲んでしまったからだろう。頭が重くて、どうにも動けなかった。吐き気はないものの、この体たらくには我ながらげんなりする。
(そういえば昨日、マルコに会ったような……?)
 痛む頭を押さえながら、エリーは思い出す。しかし酒を飲んでからのことは、ところどころ曖昧だった。ひどく怒った様子のマルコがいたような気もするし、そうでないような気もする。マルコの人相は、そうそう見間違えるようなものではないがーー浮かんでくるのは、ぼんやりとした映像ばかりで、いまいち自信が持てない。だがたしかにそのひとは、エリーのまえに現れた。
 あのとき、マルコがなにを言ったのかは分からない。ただ急に腕を引かれて、その場を連れ出されて、そしてーーと、そこまで思い出してエリーは息を吐いた。考えてみれば、もう何年と彼には会っていない。だからあれは、酒に酔ってみた都合のよい夢。きっと、そうに違いない。
「エリー、起きてる?」
「……ええ、ジーナ姉さん。おはよう」
 コンコンというノック音のあと、ドアの向こうから声がかけられる。エリーはなんとか上半身だけ起こし、答えた。すると扉が開かれ、美しい婦人の装いをしたジーナが入ってくる。手には、グラスと水さしが乗ったトレーを持っていた。
 ジーナはいまだベッドの上にいるエリーを見ると、困ったように笑う。これにはなんだか申し訳ない気分になって、思わず頬をかいた。
「ごめんなさい。まだ、すこし頭が痛くて」
「ふふ、いいのよ。こちらこそ、あなたがお酒に弱いって知っていたのに……ごめんなさいね。マルコに叱られてしまったわ」
 バツが悪いという風に、眉尻を下げるジーナ。対してエリーは、驚きで身を固くする。やはりマルコは昨夜、お店に来ていたのだ。それどころか、怒っていたのも夢ではなく本当のことだってーー?
「姉さん。昨日、マルコが来ていたの? その……本当に?」
 エリーの頭のなかでは、軽いパニックが巻き起こった。口をぱくぱくさせ、半信半疑でジーナを見つめる。冷静になって考えれば、彼女がそんな嘘をつくはずがないと、すぐ分かることだというのに。
「あら、覚えていない? 彼ったら私に会うなり、すごい剣幕で怒って……きっと、あなたのことが心配だったのね」
 言いながら、ジーナは持ってきたグラスに水を注いだ。そしてそれを、エリーに手渡す。エリーは受け取ったグラスを見てから、もう一度ジーナを見上げた。彼女の瞳に、不安げな顔をする自分が映る。
 目が合うと、ジーナは優しい姉の顔をした。刹那、ぎゅっと心が締め付けられる。エリーは重々しくなった唇を、それでもなんとか動かしてみせた。
「でもあれは、私が勝手にしたことで……姉さんはちっとも悪くないわ」
 水の入ったグラスを握りしめながら、エリーはうつむく。悲しみに負けそうになってしまったのは自分で、それを紛らわそうと酒に頼ったのも自分。エリーはあまりの不甲斐なさに、体を縮こませたーーすると、あたたかくて柔いものがエリーの髪に触れる。見れば、いつの間にかジーナがすぐ横に腰掛けていた。ゆっくりとした動きで、彼女はエリーを愛撫する。
「ふふ、そうね。まさかエリーが、自分からお酒を飲むなんてね。お姉ちゃん、驚いちゃったわ」
 でも、とジーナが続ける。エリーは静かに、その言葉に耳を傾けた。
「おかげで、もう悲しくない。ありがとう、優しいエリー」
 これが一度目ならば、盛大に泣いていたことだろう。しかし、これで三度目なのだ。エリーは抱きしめてきたジーナの体に、そっと腕を回す。そして落ち着いた声色で「どういたしまして」と、つぶやいた。ふと、彼女の抱きしめる力が強くなる。震えた体は、見て見ぬふりをした。
 溢れそうな想いに蓋をするべく、深く目を閉じる。悲しみに慣れてしまったことが、どうしようもなく哀しいことだと、エリーは知っていた。



「ところで。あのアメリカさんとは、どこで知り合ったの? ずいぶんと、仲がよさそうだったけど?」
 それは、水を飲んだことで頭痛もだいぶ治まったころだった。突如、ずいと顔を近づけジーナが言う。エリーは、びくりと肩を揺らした。身支度を整えようと上げた腰が、勢いに負けてベッドへと逆戻りする。
 アメリカさん、とはミスター・カーチスのことだろう。エリーは厄介なことになりそうだと、思わず口角を引きつらせた。しかし答えなければ、この手の尋問が終わらないことも知っているので、仕方なく口を開く。
「彼は、その……ここへ来る途中に、ちょっと。ホテル・アドリアーノへ行く手段がないって言ったら、私を送ってくれて……」
 だんだんと、尻すぼみになっていく語尾。眼前では「へえ?」と、ジーナの目つきが心なしかキツくなる。エリーは、ちいさく悲鳴を上げた。昔からこの目をしたジーナは、お化けよりもおっかない。
「エリーって、ああいう男が好みだったのね。お姉ちゃん、知らなかったわ」
「ち、ちがっ! ミスター・カーチスはべつに、そんなんじゃ……!」
 そこまで言って、エリーはジーナが肩を揺らしているのに気がついた。くすくすと、口に手を当てて笑いを堪えている。エリーははあ、とため息を吐いた。どうやら、からかわれてしまったらしい。その証拠に、責めるような視線を送るとジーナは笑うのをやめる。
「ごめんなさい。あなたがあまりにも、ムキになって言うものだから」
「もう、姉さんたら……私にそういうのは早いって、自分で言っていたくせに」
 エリーは昨夜の断片的な記憶のなかから、ジーナの言葉を拾ってくる。たしか再会をひとしきり喜んだあとで、口すっぱく「男に気をつけなさい。あなたに恋愛は、まだ早いんだから」とのたまった。しかし現在の当人は、というと。
「あら、そうだったかしら?」
 まるで少女のように、とぼけてみせるジーナ。エリーはまた、ため息を吐いた。だがそのあとで、くすりと笑みをこぼす。なんだか昔の、一緒に暮らしていたときを思い出して、胸があたたかくなった。あのときも、よくこうして彼女にからかわれたっけーーエリーは気がつくと、自然にお礼の言葉を口にしていた。
「……姉さん、ありがとう。私のこと、心配してくれて」
「そんなの当たり前よ。だってあなたは私の、可愛い妹ですもの」
 ちゅ、と頬に優しいキスをされる。目が合えば、包み込むような笑みが送られた。エリーは、その笑みに幸福の真理を垣間見る。そして自分もお返しにと笑ったが、照れくさくて上手くできているのか分からなかった。

「さあ。いい加減ベッドから出て、ご飯を食べましょう。今日はエリーに見せたいものが、山ほどあるの!」
 ぱちん、と手を叩きジーナが言う。いくらか遅くなったのは彼女のせいだが、エリーは黙っておくことにした。ベッドから抜け出し、せっせと身支度を整える。その間、後ろからは軽快な鼻歌が聞こえていた。
 こんなにも嬉しそうな姉を見るのは、一体いつぶりだろう。優しくて活発な少女は、多くの悲しみにも負けずいまだそこにいた。エリーは、人知れず安堵の息を吐く。そして今日からしばらく楽しい日々が続きそうだと、心を躍らせた。

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