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夜。 丑三つの頃、もやは一段と黒く滞り、彼を覆う程まで膨れ上がっていた。濃くなったそれは、最早人にも触れられる程のものである。
その黒い手がけい殿の喉元へ伸ばされた、瞬間、我は両者の間に割り込みもやを叩きつけた。
どんっ、と鈍く、重い音が響く。
けい殿は寝台で深く眠ったままだ。人が起きぬような生易しい音ではなかったにも関わらず。
この場はもやが支配している。このままでは、けい殿は目を覚まさぬだろう。
上も下も分からぬもやが、それでも起き上ろうとするのか蠢くのを掴み、我は窓へ走った。己も妖かしの端くれ、支配の場より抜け出ることならば出来よう。
鍵を外し、開け放った窓からもやを放り投げる。部屋の家具をいくつか倒しながらも、なんとか建物の外へと出すことが出来た。
憑いているけい殿から離れたまま、朝日を浴びせられれば、この程度のもやなら晴れる筈。 そう、祈った。
我が名縁し稲荷の神よ。御身は祓えが出来ようか。
けい殿は優しき御仁だ。我の怪我を手当てしてくれた。匿ってくれたのは、治る前に再び悪童どもに行き会うのを案じてくれたのだと、言外に語っている。怪我を憂うその上で、礼をしたいと申し出た我の意すらも汲んでくれた。
真優しき、御仁だ。
もやよ、彼の人は恨まれるようなことをしたやも知れぬ。だが、諦めてくれ。お前には非道いことをしたのかも知れないが、我にとっては恩人で、守りたい人なのだ。
どうか。
祈りが通じたやら、思惑が当たったやら。子細は知れぬ。しかし確かに、もやは朝焼けと一緒に空へと溶けて消えて行った。
眠りが深かったのか、珍しくすっきりと起きれた朝。イナリは、怪我が治ったのでそろそろ暇すると言ってきた。
同居人ならぬ同居狐の居る生活に大分慣れていたので、何となく寂しい気もするが、まあ、何時までもうちに置いとく訳にもいかない。帰れるってんなら帰った方がいいだろう。
こいつの世界へは六ん家の裏口から行けるってんで、その日は一日オフだったから送ってってやることにした。
冷蔵庫に溜め込んでたタレ漬けの油揚げを全部稲荷寿司にしてやって、でっかいタッパふたつ分持たせてやれば、イナリは殊の外嬉しそうに受け取る。
治って、もう隠せるようになったしっぽをちらりと出して大きく振って見せるのは俺への気遣いだろう。いい奴だ。
「またお邪魔してもよろしいか」
「たまにならいいよ」
去り際の問いかけにそう返すと、いなりはにっ、と笑って、それからお辞儀をして扉の向こうへ消えて行った。
「ふうん。盆が近いのに調子が良さそうだと思ったら、代わりに狐が憑いてたのか」
扉の持ち主…と言うべきか、帰るのを見守っていた六が、意味ありげに俺を見て笑う。
あいつに何の効果があったか知らないが、確かに夏に弱い割に今年は体調がいいみたいだ、が、いや、ちょっと待て。代わりにって、どういう意味だ。
「知らないならそれでいいだろ? ま、あの分だとまめに来そうだ。そんとき聞きな」
聞かなくても予想は付いたけど、信じたくないから聞かないことにしよう。そうしよう。オカルト系は駄目なんだって。ああでも、何かやってくれたなら、礼をしてやらないとか。
六がからからと笑う。
「守狐なんて、豪気でいいことじゃないか」
引き気味の俺の背を、六は勢いよく、痛い位に叩いた。
後日譚-----
FEEL SO GOOD 29にて無料配布していましたイナリ×KK布教本の再録です。
路地裏に狐の続きの様で季節がまったく合ってないのはご愛嬌です。外套羽織る季節じゃないね!
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