ss | ナノ


幸福


 五月上旬だというのに、昼間の気温は連日夏日だ。本格的な夏よりもマシだが、日差しがジリジリと照りつけてくる。湿気も相まってじんわりと汗がにじむ。
 昔から夏の空気が好きだった。それでも、肌に纏わりつくような、ねっとりとした蒸し暑さはどうにも好きになれそうにない。
 強い日差しを避けるように、日陰になっている席に座って本を読む。
 ゴールデンウィークの図書室は、学校が休みだから人はいないし、空調は効いていて、まさに楽園だ。先生に許可はとらなければならがないが、誰にも邪魔されることなく自分の時間が過ごせる。遠くの方からは、かけ声や金管楽器の音が聞えている。図書室には自分ひとりだが、この箱の向こうには確かに他に人がいるということだ。当り前のことだが、その事実に居心地の良さを感じる。
 コンコンと窓の方から音がして、そちらに目を向ける。窓の外に、真っ赤な髪の男が立っていた。この学校の制服を着ているという事は、ここの生徒なのだろう。
 吃驚して動けない俺に気付いているのかいないのか。男は鍵を指さし、あけてと言っているようだった。拒否したら殴られるだろうか。嫌だなと思いつつ、言われた通りに鍵を開けた。
「ありがとう」
 窓が開き、男はそう言って中に入ってきた。見た目よりもあまく掠れた声だ。外から来たのに上履きを履いていることを不思議に思いつつ、爪先の色を確認する。緑という事は、三年生か。
 ふわりと風が入ってくると甘いにおいがした。バラのにおい、だろうか。
 男をよく見れば、だいぶタッパがある。俺だって平均より高く、百七十五センチはあるのに、見上げている。百八十は優に超えているかもしれない。男は窓と鍵を閉め、床に座り込んだ。
「読書の邪魔してごめんね。しばらく休んだら出てくからさ。それまで匿ってよ、一年くん」
 立っている俺を見上げて言う。匿ってとはどういう事なのか。面倒事には巻き込まれたくないな、と思うがそれを口に出すのは憚られた。
「あれ、そういえば何で一年くん学校にいんの? ゴールデンウィークだよ? 補習?」
 小首を傾げる男に、俺は何も言えなくなる。家にいたくなかった、なんて言ってそれ以上聞かれたくない。詮索されたくない。
「まぁ、いいや。おれ、森川千鶴(もりかわちづる)っていうんだけど。一年くんは?」
 察したのかそれ以上聞くことはなく、次の質問をよこしてきた。
「……入江(いりえ)です。入江恵(めぐみ)」
 俺が名乗ると男は自分から聞いてきたはずなのに、興味がなさそうに「ふーん」と相槌をうった。そしてにっこりと口端を持上げる。
「じゃあ、入江くん。おれはあっちでしばらく涼んだら出て行くから! 入江くんは読書続けててよ。誰か来てもおれのことは知らないって言ってね!」
 片手を上げて男はそう言うと窓の外から隠れるように中腰になって、本棚のほうへと向かう。また、ふわりとバラのにおいがした。
「……バラ」
 思わず呟くと男が振り返る。またそこに座り込んで、少し考え込むような顔をする。何か想い付いたのか、ズボンのポケットから何かを取り出した。バラの絵が描かれたハンドクリームだった。
「におった? バラのにおいするの、これ。おれ、手荒れ酷くてさ。手荒れって、冬だけじゃないんだよ。今くらいの時期から夏まで結構乾燥するの。湿度すごいのに、詐欺だよね」
 右の掌を俺に見せるように開いて、男は苦笑する。確かに、手が荒れていてぼろぼろになっている。親指の先が割れて、少し血が出ていた。
「んで、誕生日プレゼントに友達からこれいっぱい貰ったの」
 さっきとは逆のポケットから未開封のハンドクリームを出し、俺に差し出してきた。
「知ってる? バラって花の色だったり、蕾とか葉とかにも花言葉あるんだけど、バラ全体の花言葉の中にね。幸福ってのもあるらしいよ」
 男はそう言って俺の手にハンドクリームを押し付けてきた。
 掌におさまったそれに視線を落とす。銀色のチューブに、油絵のようなバラが描かれている。後ろを見れば、確かにローズの香りと書かれていた。
「……幸福のお裾分け」
 男はそう言うと俺に手を振って、また中腰になって本棚の陰に消えて行った。
 何なんだ。
2018.05.24


以下広告↓
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -