からからと、小気味良い音を立てながら開け放たれた窓。
それまで部屋に充満していた有害物質と、二酸化炭素を含んだ白煙が、徐々に空へ飲まれていく。


嗚呼、あれもやがては空気に溶け、雲の一部になるのか。


――なんて、途方もないことを思いながら、俺はただ消えていく白煙を見詰めていた。




色あせた写真





「部活ばっかで、構ってらんねーから」

「・・・そっ、か。邪魔しちゃって・・・ごめ、ね?」

「や、いいって」


――咲き乱れた花の季節も終わる、夏。
俺の目の前で、今までの時間に終止符を打ったにも関わらず、涙ぐむこともなくただ震えているのは、今まさに、この瞬間まで俺の恋人だった、苗字名前。俺から最後の言葉を告げたあと、過去になく不自然な沈黙が、俺たちを包んでいた。それは、どちらかが少しでも動いてしまえば、壊れてしまいそうな世界。


「今まで・・・ありが、と・・・」

「・・・・・おお」


世界に止めを刺したのは、名前の方だった。


「さよなら」


「いたい、痛い」と、叫ぶ声が聞こえてきそうな微笑み。彼女は俺に背を向けると、振り返ることなく、桜吹雪に消えた。まるで消滅したかのような、そんな幻想に、キュウと鳴いたのは、自身の左胸に取り付けられた臓器。


「・・・・・・・・・名前」


呼びなれたはずの名前に、ほんの欠片、違和感を感じた。
俺はそれを振り払うかのように頭を振り、乱れ咲く桜と共に、全てを胸の中で切り裂いた。






それが、ほんの他愛のないことだとは知っていても、名前が誰かと話すのを見かける度に苛々していた。バットでボールを殴り飛ばしていれば、少しくらいは和らいだけれど、そんな処世術も、そう長くは持たなかった。


結局、俺は彼女に当り散らすようになっていった。


それくらい好きだったことを、理解して欲しかった。
名前を欲して、名前だけに見て欲しかった俺を、認めて欲しかった。


ただ、無理じゃねーけど、無理だったんだ、全部。


理不尽な理由でキレたり不機嫌になる俺を、名前はいつだって最後に笑って許してくれた。そんな彼女に安堵しながら、俺はどこか痛くて、悲しくて、酷く惨めで仕方が無かった。


夏になれば俺たち中学三年にとっては、最後の大会が控えてるから、部活が忙しくなるのは当たり前。それはとても正当な理由だけれど、俺たちは、それを承知で付き合っていたはずなんだ――つまり、俺は「部活」とか「最後の大会」という、誰も断れないような、そんな理由を、惨めな自分の為の逃げ道にした。


(楽になれると、思ってたんだ)


後悔することは、どこかで気付いてた。でもさ、こんなに辛い事が世の中にあんだって、こんなにしんどいことが、この世界にあるんだって、知らなかったんよ。


名前に放った俺の台詞は、俺の心に乗っかってた嫉妬という重みを奪って、名前を攫って、悲しいとか全部ひっくるめた後悔だけを、置いていきやがった。






――名前と別れを告げてから、一年とちょっとが過ぎた。

俺の入った華武高校も先輩方の卒業やら受験を控え、今日は珍しく休日なのに部活がない。
久しぶりの休日に、したいことなんてなかった。中学の時は名前がいたし、休みとなれば二人で遊んでいた。ナンパにでも出かけようかと思ったけれど、生憎、夏には再び甲子園が待っている。


――女好き?女は好きだ。
でも、俺が好きなのは、女より野球で、女より、名前だった。


久しぶりに来た公園の景色も二年近く振りに見た。明確に覚えているから、来た気がするわけじゃなくて、本当に、二年近く振り。
あの時、満開だった桜の残像は今でも色濃く脳に焼き付いているというのに、骨組だけになった桜の木たちは、寒々しさを余計に煽ってくれる。


最後に腰掛けたベンチへ座ると、クソ懐かしくて、クソ切ない。


中学は一緒だったけど、高校は別の場所を選んだ俺たち。顔を合わしたことは、あれっきりまるで無い。
華武に入学した当初、元同中のクラスメイトに、名前は十二支へ入ったと聞いた。野球が好きだと言った名前は、十二支のマネージャーにでもなってるのかと思ったけれど、そうではないらしい。
十二支の奴等に会うたびに、その姿を探したけれど、見つけることは出来なかった。(ちょっと期待してた、なんて、格好悪くて言えねーよ)


桜の代わりに咲いた秋桜が、憎らしい。
その周囲をさも楽しげに歩く、カップル達はもっと恨めしい。


あの頃は、名前に「馬鹿、ら!」と呼ばれるたびに怒っていたけど、今更認めてしまえる。俺は何て、馬鹿だったんだ。馬鹿で、愚かで、弱くて、脆かった。


「置いてくZE!」


突然、視界に飛び込んできたカップルの片割れ。
特徴的な話し方のせいで、随分印象に残っている、十二支の――・・・何ていったっけ?忘れたけど、取り合えず、十二支の野球部のピッチャー。


「ちょ、待って、早いよ!ばか!」

「バカじゃねーYO!」


先ほどの台詞を投げかけた相手が、木の幹から飛び出てくるように、視界に入った。その姿は何も変わりなく、ああ、いや、少し大人びたかな。あまりに懐かしくて、あまりにタイムリーで、言葉なんか何処かへ消えてしまった。


「名前・・・・・・・・・」


バカ、とか言ってたわりに、仲良くお手て繋いで散歩道。微笑み合って、見詰め合って、それは確かに、あの頃俺だけが見ていた表情。


幸せそうな“女”の顔。


居た堪れなくなって、駆け出した。どうしたって記憶は振り切れるはずがないのに、我武者羅に走った。
家に着いて、階段を駆け上がって、自分の部屋にたどり着く。


「・・・・・・・・・・・ッハ・・・」


零れ落ちたのは、己をせせら笑うかのような、空っぽの笑い声だけ。


壁にもたれかかると、無駄に強張っていた力が一気に抜け、ずるずると床へ座り込んだ。少し顔を持ち上げれば、ベッドの片隅で色あせた写真が俺を見下している。


涙なんか出ないと思っていた。確かに、終止符を告げたあの日だって、俺は泣きなどしなかったのだから。
けれど、空を握った手のひらの無力さ――残っているはずで、存在しない温もりが、寂しくて堪らない。悔しくて、堪らないんだ。
またあの無邪気な顔で、「バカ、ら」って、笑えばいいのに。そうしたら、俺も笑って「バカにすんなよ」なんて言って、手を繋いで歩くのに。


名前の傍に、帰れるのに。


――なんて、自己中心的で幼稚な思考。
俺たちはあの日、あの場所で、キレイに咲き誇る桜の下で、違う道を選んだ。分かれ道の先に、お互いの知らない新しい何かがあるのも、当たり前なんだ。


「あぁ、俺は本当に・・・・・・」




卒業アルバムに挟んでいた写真の全部を、引っ張り出して部屋で焼いた。


「・・・時間ってさ、本当に止まるんだな」


女々しいくらい未練がましく持ち続けていた思い出が、本のページを捲るように、燃えカスになっていく。


「なあ、名前?」


手を伸ばせばいつだって届く距離にあったはずの名前は、もう届かない距離まで来てしまっていた。
焼け爛れていく俺たちの思い出は、もうあの頃は帰ってこないのだと、物語るように消えていく。


夕陽に沈むあの公園で、何度、彼女の名前を呼んだだろうか。
恥ずかしげに頬を染め、囁かれた「すきだよ」と、耳に焼きついたその一言さえ、消えてしまいそうだ。


別れを告げた俺と、最後まで笑った名前。
その場所から、その時間から動けていない俺と、新しい時間を生きている名前。


全ての燃えカスをゴミ箱に放り捨て、白煙に染まった部屋の窓を開ける。
徐々に薄れていくそれは、あの日のまま止まっていた俺の気持ちを、これからを、現しているように見えた。


手元に残る、最後の一枚。
名前が一番幸せそうに笑ってるその写真は、窓辺に置いてあるテーブルで放っていたせいで、随分と古い写真みたいに色あせている。
燃やせなかったその写真の中の名前の笑顔は、公園で十二支のアイツに向けてたのと、同じもの。
“俺の名前”は、もう二度と帰って来ない。もう二度と、喋らない。


無言の笑顔に零れた滴を、急いで服の袖で拭った。


「今日で、最後だから」


明日から俺は、止めていた時間を動かすから、今だけは、この止まらない涙も、許してな。


今はまだ、好きな人――愛してる人。
だけど、いつか「運命の人」だったなんて、本音も茶化して言えてしまう、その日まで、

いつかまた、今日みたいにお前を見かけたとき、「元気だったか?」なんて、笑える日まで。


格好悪ィから、涙は隠してんよ。





2008.04.30
2012.05.14 書き直し

*元曲
待ちぼうけの公園で・・・ / 大日本異端芸者ガゼット

哀愁祭り参加作品。
素敵な企画をありがとうございました。





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