10

報告によると、ここがどこの誰かも覚えていないらしい。食べる事や着替える事は理解しているらしく日常生活に支障はないが、上司であるハンジやリヴァイ、同僚であるモブリット達の事も覚えていないと聞いた。
何の変哲もない朝、血相を変えたハンジがそうエルヴィンに報告してきた。急いでなまえのいるという医務室を開けると、小さな悲鳴が聞こえた。
なまえを取り囲むように数名の兵士。その中にリヴァイの姿も見て取れた。

「いい加減にしろよ、なまえ…ふざけてるつもりなら今すぐ止めろ。」
「や…や、いた…っ」
「おい、こっち向け。」

荒々しく肩を掴む。最高潮に機嫌が悪いリヴァイは無意識に爪を立ててしまい、その苦痛からなまえの顔が歪められる。
拒否するように首を何度も左右に振り、痛みに呻きながら拒絶の言葉を漏らすなまえに、大きく舌打ちをして目を逸らそうとする顔を顎を掴んで無理矢理こちらを向かせる。
怒りを露わにする視線と目が合う。

「や…さ、さわらないで!!きたない…きたない、おとこのひと…さわらないでよぉ!!!」

悲鳴をあげてついに泣き出してしまったなまえの手がリヴァイの手を振りほどく。
尋常ではない様子に、リヴァイも、周りの兵士も、言葉を失った。



原因は不明だった。
頭を強く打った様子も、精神的に強いショックを受けた形跡もない。
昨日まで、いつも通り淡々と訓練を行っていた。立体機動で怪我をした報告もなく、夜に顔を合わせたリヴァイ自身から何か暴力の類を受けたという事もない。
本当に、朝起きると、そこにいたのは我々の知っているなまえではなかった。

「でも、日常生活の記憶はあるからすべての記憶が失われた訳じゃない。もしかしたら、何かきっかけがあれば戻るのかもしれない。」
「だが、戻らないかもしれないんだろう?」
「それには答えられない。なんせ原因がわからないからね。」

泣き崩れたなまえをぺトラに任せて、ハンジとリヴァイ、そしてエルヴィンは団長室へ集まった。他の兵士には通常の業務を言いつけ、何かあればすぐに知らせろと医務室にいた医者に言づけて。
内容はもちろんなまえの事だ。
日常生活に支障は無いとはいえ、ここは調査兵団の本部だ。もちろん兵士として立体機動の使い方や、ハンジやリヴァイの補佐としての頭脳も今は記憶していないという事らしい。
記憶が戻れば万事解決なのだが、もし、この先一生彼女の記憶は戻らないかもしれない。そんな不確定な要素ばかりの彼女の処遇をどうするかを、なまえと関わりを持つハンジとリヴァイ、そして調査兵団団長であるエルヴィンが審議していた。

「しばらく様子を見よう。彼女は調査兵団に無くてはならない存在だ。なんとしても記憶を取り戻してもらう。」
「エルヴィンならそう言うと思った!!」
「……了解した。」



具体的に取られた措置は安易なものだった。
とにかく彼女の人間関係や仕事内容や調査兵団の事、なまえという人物を形成していたすべての内容をひたすら教えると言う事だった。
それは主にぺトラやハンジによって行われた。モブリット達が近づこうとすると、なまえが震える為男子禁制となった。
特にリヴァイの時はひどく、身体をガタガタと震わせて狭いベッドの上から這うように逃げて泣き喚くからだ。それを見たリヴァイの機嫌はこれまでにない程悪くなり、エルヴィンの手によって強制的に退出させられた。しかしリヴァイにとってぺトラは安心して任せられるが、いかんせんハンジという人間だけは信用していないため、医務室の外に常に待機している。そんな状態が続いていた。

「ほんとに覚えてないの?」
「はい……すいません…」
「なまえが気にする事じゃないわっ!!だから謝らないで?ね?」

何を離しても首を傾けるなまえに、ハンジもまた首を傾ける。そんなハンジを見てしょんぼりと肩を落とすなまえを元気づけるようにぺトラが声をかける。
一週間かけてなまえの話をした。知っている限りの話を。
じゃあさ、とハンジは声を上げた。わずかに弾むその声に落ち込んでいたなまえは顔をあげる。

「なまえに恋人がいたの知ってる?」
「……?」
「ハンジ分隊長、それは…」
「ええーだって、もう話す事なんてないじゃん。それに、なまえと言ったらコレしかないっしょ?」

咎めるようなぺトラの視線を笑って無視して、そしてなまえに向き直る。
どうやって語ろうか、そうして今となっては懐かしい思い出を物語調に頭の中でまとめて、言葉を発する。


「むかしむかし、いや、そんな昔でもないんだけど。確か半年くらい前かな。ある一人の女の子がいました。もちろんなまえなんだけど。
その女の子はかなりの潔癖症というか綺麗好きで、いつも上司が散らかした部屋を片付けてくれる子でした。そんな子が上司はとても大好きでお気に入りでもう絶対どこの班にもやらんぞ、っていうくらい寵愛してて、ぶっちゃけもう妹にでもしようかと真剣に考えてエルヴィン、あ、調査兵団の団長ね?エルヴィンに相談とかもマジでしたことあるくらい大好きで、」
「ハンジ分隊長、話逸れてます。」
「おっといっけね…でね、まぁその上司のひとつ上の上司もかなりの潔癖症でさ。いやもう男のくせに女々しいだろってくらい綺麗好きで、いつだったかその女の子が暇そうにしてたからって理由で資料室を片付けさせたらそりゃもうそいつが超満足するくらい綺麗にしちゃって、一発でその子気に入ったらしくて、それからちょいちょい部屋の片づけ手伝わせたり、もともと書類作ったりまとめたりするのが上手いからって理由で私に無断で自分の所に持って行っちゃったりしてさ。正直糞迷惑だったんだけど、文句言うと蹴られるからさぁ…それに午前中とかはちゃんとなまえの事私にくれたから、まぁいっかなあとか段々思うようになってね?」

懐かしい、そう目を遠くさせながら語るハンジをなまえはじっと見つめていた。
言葉のどこかにひっかかる部分はないかと必死に探す。その様子をぺトラは黙って見守っていた。

「そしたらある日、なまえが傷だらけで朝食食べてるじゃん?なんでかなって理由聞いたら、その上司の上司に殴られたって聞いて私いてもたってもいられなくって殴りこんだ訳。」

始まりは最低だな、と今でも思う。
ぺトラもまた、傷だらけで帰ってきたなまえには驚いた。そしてまさか、あのリヴァイ兵長がこんな事をするとは信じられないと心のどこかでなまえの言葉を疑ったな、と今だからこそ言えるが当時はそんな事も思っていたという事を思い出す。

「そしたらそいつはなまえに噛みつくし引っ掻くし日に日に傷が増えて行って正直見ていられなくってエルヴィンに頼んだの。あいつの蛮行とめてくれって。そしたらさ、なんて言ったと思う?」
「………わかんない…なんて言ったんですか?」
「あいつにキスの仕方を教えてやってくれ、だって。」
「エルヴィン団長そんな事言ったんですか…」
「うん、マジで言った。私あの時ついにエルヴィンの頭沸いたって思ったよ、ハハ。」

何もかもが懐かしい。
今もどこか歪んでいるけれど、二人はいつも真っ直ぐで、真っ直ぐすぎて噛み合わなくて別々の方向を向いてお互いの事が好きなんだろうなと、今ならそう理解できる。

「そしたらさ、ピタって暴力が無くなったみたいで、何があったのか私は知らないんだけど。そんな感じで二人は付き合いはじめたんだ。まぁ、その後色々あったんだけどねー今じゃ内地のお土産買ってきたり、なまえも他の女に嫉妬したりとか、すっごいラブラブだったんだよ?」
「そうそう、いつもなまえの事部屋まで迎えに来てくれたりね。そのまま夜は帰らなかったりすることも多々あったり…」
「うわぁマジで…聞きたくなかった身内のそんな話…」
「事実です、分隊長。」

盛り上がる二人の会話を聞きつつ、なまえはぼんやりと靄がかかったような内容に疑問する。



大事な何かを隠されている、そんな不透明な物語の真実が知りたくて、なまえは調査兵団内を歩いていた。
今日の業務は終了したのか兵士の姿はあまりなく夕日だけが調査兵団内の広い廊下を赤く染め上げていた。
記憶にない廊下を、ひたすら迷うことなく歩く。目的地もわからず、ただ一人の人物を目当てに、ひたすら赤い廊下を歩き続ける。
ひたひたと素足で歩く。記憶がない割に迷いがない足取りは、本能で動いているのだろうか。キョロキョロとあたりは見回しているが、歩く足が止まる様子は見受けられない。

ひたり、と足音が音を立ててひとつの扉の前で止まる。
コンコンと控えめに扉を叩くが中に人がいる気配は感じない。ここに来るまでに兵士とすれ違う事は無かったため、もしかしたら今日はもう会えないのかもしれないと、小さく肩を落とす。

「なにをしている。」
「……、あ…」

佇むなまえに、声をかける。リヴァイの執務室の前で肩を落としている少女を素通りして部屋に入る事は困難な為、怯えて泣かれてしまおうとも、声をかけざるを得なかったからだ。
エルヴィンからはリヴァイはなまえと会わない方がいいと、そう告げられた。男に拒否反応を示す傾向が有る為男子禁制としたという理由もあるが、何よりなまえの怯え方がリヴァイの時は他のそれとは違ったためもしかしたら記憶を思い出す妨げになるかもしれないという配慮からだ。

「あ、の…」
「お前は俺が嫌いなんだろう。そこは俺の仕事部屋だ、用がないなら早く退け。」
「あの!!」

拒絶も拒否もしないと命令され、それに従順に従ったなまえはもういない。口を開けばつい辛辣になってしまう口調に自分自身に内心舌打ちをしながらも、言葉は止められなかった。
しかしそれを遮るように、先ほどより一際大きな声でリヴァイの言葉を止める。

「教えて、ほしくて…さっき聞いてたんでしょう?」
「なにを…」
「私の恋人っていう話…ハンジさん達の話じゃ、なにか隠そうとしてて、…それって貴方の事なんじゃないかなって…そんな気がして…」

意外と目ざといところは記憶がなくても相変わらずらしい、とリヴァイは感心した。



「はっきり言うが、あれは俺の事だ。」

部屋へと招き入れ適当なソファに座らせる。そして中断させていた書類の整理となまえに関する報告書に目を通しながら、言葉を続ける。

「ハンジの上司は俺だ。兵士長だからな。お前をこき使った潔癖症の上司っていうのも俺だし、お前に暴力をふるったって言うのも間違いなく俺だ。お前にも覚えがあるんだろう?」
「…は、い…」
「だから俺の事を隠して話したんだ。お前は俺が嫌いらしいからな。そんな奴と恋人だったなんて聞いたら記憶を取り戻すことを放棄し兼ねない。だからこそ、ハンジやぺトラには俺との話題は一切するなとエルヴィンから指示を受けている。そのせいでここ半年の話題がなかったのはその所為だが。」

覚えがあるとでもいうように、思わず爪を立ててしまった方に触れるなまえを見て、そして視線を逸らす。
自嘲するように言葉を紡ぐ。隠されていた真実を事細かに伝える。そして思うのだ。

「でも…そんな事言ったら、もう私に思い出さなくてもいいって言ってるって事じゃないんですか…?」
「ああ…そうだな。別に思い出さなくてもいいんじゃないか?」

もう、このままでもいいのではないかと。
兵士をやめれば命の危険に晒される事はなくなる。どこかの村で全てを忘れて生きていくという人生を選ばせてもいいのではないかと。
なまえは命を捨てるために調査兵団に入団したのだ。しかし兵士としてその命の利用が出来ないのならば、生産者として生きて人類の糧になればいいのではないか。

「そ、そんなの嫌です……」
「なぜだ。今のお前は兵士ではない。命を捨てる覚悟もない、ただの一般市民だろうが。」
「い、いやです…だって、そうなったら…」

声が震えだす。顔をあげれば、大きな瞳に涙を貯めて何かを堪えるように息を詰まらせる。

「……そんな、の…きっと後悔する……もし、思い出して、私がその男の人の近くにいなかったら…」
「…なまえ、」
「今の私は貴方が怖いけど、その前の私は貴方が好きだったんでしょう…?だから、痛い事されてもずっと一緒にいたんじゃないんですか?」

その言葉に細めていた瞳をわずかに見開いてなまえを見る。
考えた事もなかった、なまえの事など。
そういえば最初は最低な事をしていたなと思うが、いかんせん感情が高ぶっていたため善悪の区別がついてなかった。なまえに出会うまでは性的に感情を高ぶらせると女に暴力をふるって解消していた、今思えばとてつもなく最低な行為だと我ながら思う。
そんなリヴァイに、なまえは大人しくそれを受け入れていた。ただ従順な人形みたいに何の感情もないせいだと思い込んでいたが、当のなまえに言われてしまえばその認識は改めざるを得ない。

俺を好き?なまえが?

「なまえ、」
「…な、なに……」
「俺はお前に触れたい。お前を抱きしめたい。キスをして、お前を感じたい。もう一週間もお前を味わっていない、正直限界だ。さっき聞いたようなことをされたくなければ今すぐこの部屋から出て二度と俺の前に現れるな。その方がお前の為だ。だが、」

立ち上がり、ソファに座るなまえの傍らに立つ。その目の前に膝を付きなまえの手を取ると、怯えながらもその動作を見守る。

「ここに残れば、お前が兵士だろうと一般市民だろうと俺の傍に置く。お前がどんなに俺を嫌いだろうと拒絶しようと、俺はお前を好きにする。だから、選べ。」

見上げた瞳には今にも零れ落ちそうな程に涙をため、潤む瞳がリヴァイを見守るように見下ろしていた。
その瞳に懇願する。



「…………ここに、います…」

ぽつりと、小さく呟かれた声。なまえの手を握る手に僅かに力を込められて握り返される。
その手を引っ張り、素早く後頭部に手を回して顔を寄せる。あまりの速さになまえは涙を貯めた瞳を大きく見開いて近づいたリヴァイの顔に小さく悲鳴をあげる。
後頭部を何度か撫でる優しい手に、心拍が上昇するのを感じた。あの日、肩を外す勢いで握りつぶそうとした手とは正反対のような優しい手に、この人だと、確信する。

「なまえ…なまえ、教えてください…」
「リヴァイ、だ…呼べ、なまえ…」
「……リヴァイ、さん…」

さん付けとは新鮮だな。そう思いながら更に顔を寄せる。
たった一週間とはいえ毎日のように触れていた唇は、若干かさついていた。

合わせられた唇に、なまえは目を閉じる。



「なまえ…」
「ん……、へいちょ…」

キスの合間から漏れた言葉に、もう一度口づけてやろうと寄せた顔を止める。キスを止め、なまえから距離を取ると涙を浮かべた瞳にわずかに熱を孕ませて、きょとんとした顔でリヴァイを見上げる。

「兵長…?」
「なまえ、か…?」

そうですよ、と疑問符を浮かべながらリヴァイの問いに返す。
状況を整理しようと頭を働かせようとすると、リヴァイの耳に激しい足音が聞こえてきた。なんとなく察しのついたリヴァイは扉の方を差し、なまえへと再び問う。

「リヴァイ大変!!!なまえがいない!!!!!!!!!!!」
「おい、あの奇行種の名前はなんだ。」
「ハンジ分隊長ですよね、どうみても。」

足音を立てると埃が舞うのでやめてください、と無表情に言い捨てるなまえは確かに記憶を無くす前のなまえだった。
そうか、戻ったのか。そう呟いて、状況をあまり掴めていないなまえの頬を撫でる。
そして素足のなまえを横抱きにして、驚愕して情けないハンジを無視して部屋を出る。

「とりあえず医務室向かうぞ。」
「あの、状況がよくのみこめないんですけど…」
「それは後で全部ハンジにでも聞け。まぁ、とりあえず…」

全ての言葉を言い終える前に、もう一度唇を合わせる。
一週間も触れていなかったためリヴァイは枯渇していた。そう、だから、病み上がりだろうと関係ない。

「今夜は眠れると思うなよ、なまえ。」

どんな理不尽な事でもリヴァイの為なら全て受け入れてくれる。しかしそれはなまえが人形のような無感動な人間だと思っていたが、そんなことは全くなく、もしかしたらそこに好意の気持ちがあるからかもしれないと分かった今、感情を高ぶらせたリヴァイを暴力ではなくもっと違う方法で抑えられ受け止められるのは、なまえだけなのだから。




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