「飲みすぎでは?」


目の前に座っていた七海が、そう言って私からお酒の入ったグラスを取り上げた。グラスの中に入った氷がカラカラと音を立てて鳴る。半分ほどに減った、オレンジ色がきれいなスクリュードライバー。彼には子どもみたいなそのオレンジ色があんまりにも似合わないものだから、そのアンバランスさに思わず笑いがこぼれる。七海の眉間にシワが寄った。彼が咎めるように私の名前を呼ぶ。


「ごめんごめん。でも全然酔ってないよ。本当は酔いたいんだけど」
「酔ってなくともここまで飲めば身体に毒です」
「先輩を労ってくれるなんて出来た後輩だなぁ」


七海とともに、とある呪詛師の調査を命じられた。必要があれば殺しても構わないとも言われていた。お互い一級術師で、何度も一緒に任務にあたったことがあったものだから、調査自体は何の問題もなくスムーズに終了した。正直、一級を二人も行かせる必要があったのだろうかと疑問に思うレベルの任務だった。そしてその調査結果から、私も七海もその呪詛師を殺すべきだという結論に至り、命を奪った。
呪詛師と言えども人間だ。いくらそう割り切っていても、何度同じことを経験しても、人を殺す行為に慣れはない。一人の人間の命を背負ったという事実が、ずしりと深く心にのしかかる。そしてそれを、死ぬまで抱えて生きていかなければならない。
私が殺した。七海には手を出すなと言った。後輩に命を背負わせたくなかった。それも、呪術師を一度辞めた七海になら尚更だ。そんな私の気持ちを汲んでくれた彼は、私を立てて手を出さなかった。まったく、どこまでも出来た後輩である。
人の命を奪うような任務に限らず、後味の悪い任務を終えたあとはお酒が欲しくなる。任務が終わった時間が夜ともなれば尚のこと。気を利かせた七海が私を夕食に誘ってくれて、今こうして美味しい料理に美味しいお酒で自分にご褒美を与えて甘やかす。


「それで終わりにするから返して。残したらもったいないよ」
「……どうぞ」
「ありがとう」


七海からお酒を返してもらって、一気に飲み干す。冷たいオレンジの甘さが喉を通っていく。七海がなにか言いたげにこちらを見ていたけれど、その表情は見て見ぬふりをした。


**


指定した住所の前でタクシーが止まる。
あの後、先輩だから払うと言った私を、七海は強引に振りきって支払いを済ませてしまった。そしてお店の前で止まっていたタクシーに私を押し込むと、さっさと帰るように言ったのだ。いつもの七海らしくないと感じたけれど、気遣いのあらわれだろうとたいして気にもとめていなかった。お金を払ってタクシーから降りて、やっと気づく。七海の行動は気遣いなどではなかった。


「お疲れさま」


私の住んでいるマンションの出入り口。そこに五条がいた。右手に付けている腕時計を確認する。もう終電もない時間だった。こんな夜遅くに人の家の前で待ち伏せなんかして、一体なにが目的なのだろうか。


「七海から聞いたの?」
「察しがいいね」
「帰り際の七海の行動、変だったから。後輩を脅さないでよ」
「脅してない。オマエがいつ帰ってくるか聞いただけ」


今、一番会いたくない相手だった。五条に会うには今は条件が悪すぎる。お酒を飲んでいて、後味の悪い任務帰り。しかも時間は夜中。私がいつも、誰にも気づかれないように心の一番深いところに隠している、もう一人の自分が出てきそうになる条件がすべて揃っている。私はもう一人の自分を、五条だけには絶対に見られたくない。絶対にだ。


「用事なら手短にお願い」
「せっかく来たのにもてなしてくれないわけ?」
「今は無理。タクシー呼んであげるから帰って」
「いいじゃん。家入れてよ」


私の言うことを、五条はまったく聞きもしない。私の腕を掴んだかと思うと、マンションに向かってズカズカと歩いていく。振り解きたくても、私の力では敵いもしない。
家に上げて、ある程度好き勝手させれば帰るかもしれない。私は頭を切り替えて、カバンから家の鍵を取り出した。


「全然物ないね」


私の家に上がった五条の第一声。
確かに、私の家にはあまり物がない。高専を卒業して一人暮らしを始めてから一度も引っ越していないのに、全然物が増えない。物欲がないのだ。
部屋を物色している五条を横目にカバンをおろす。私はシャワーを浴びるもの着替えるのも億劫で、ソファーにドカッと腰をおろした。


「用事はなに」


思ったより尖った声が出た。七海といたときは全く酔っていなかったのに、ここにきてアルコールが回ってきたようだった。頭がぼんやりする。呂律も少し回らない。けれど、まだそれを冷静に俯瞰できる自分がいる。大丈夫、平常心。
五条をそこそこ満足させて、さっさと追い返す。もう一人の自分が胸の内から出てこないうちに。私は心の中で自分に言い聞かせた。


「名前に聞きたいことがあってさ」
「なに?」
「ずるいってなにが?」


心臓に思いっきりナイフを突き立てられたような衝撃だった。
ずるい。その言葉は、もう一人の私がいつも思っていることだった。誰にも言ったことがない言葉。それをどうして五条が知っているの。


「なんで……」
「七海や硝子が言ってた。嫌な任務のあとで酒を飲むと、うわ言みたいに呟くってね」


五条はいつの間にかサングラスを外していた。ソファーに座っている私を真っ直ぐ見ている。
知らなかった。知りたくなかった。誰にも知られたくないもう一人の私が、いつの間にか出てきていたなんて。
頭を抱えた。必死に隠してきたのに。誰にも知られたくなかったのに。どうしよう。
先ほどまではたしかにあった冷静さが、みるみる失われていく。


「名前」
「帰って」


これ以上はだめだ。お酒で緩んだ頭では制御ができない。ずるい、という言葉の先が、今にも口をついて出てきそうだった。
うつむいて頭を抱えたまま、帰ってと繰り返す。はやく帰って。おねがい。


「名前」


五条が名前を呼んで、私の左肩に触れた。もう限界だった。


「天内理子はずるい」


私から出た名前が予想外だったのか、五条が動揺したように私の肩から手を離す。
逃がすもんか。もう一人の私が頭の中で怒鳴った。離れた手を掴む。もう片方の手は五条の服を掴んだ。


「夏油もずるい。みんなずるい。羨ましい。私も死にたい」


もう止まらなかった。私の腹の奥底で、何年も何年も溜めこまれて煮こまれてドロドロの真っ黒なコールタールみたいになった感情が、せきを切ったように口から流れ出る。


「くやしい。憎い。嫌い。羨ましい。ずるい」


鼻の奥がつんとして、閉じたままのまぶたから涙が出た。意識が朦朧とする。五条の服を握る手に力が入る。


「私も五条の特別になりたい」


その言葉を最後に、私は意識を手放した。


**


高専の頃から五条のことが好きだった。けれどきっと、叶うこともなくこの恋は終わるのだろう。叶うことがないのならば、せめて五条の特別になりたい。どんな特別でも構わない。五条の心の中に、私という存在が消えない痕となって残ればいい。私は恋心を間違った方向にこじらせて、いつからかそんな風に考えるようになっていた。

だから私にとって、天内理子と夏油はまさに理想だった。天内理子は自身の運命をもって、夏油はその生き様によって、五条に消えない痕をつけた。こんな方法があったのか。まさに天啓を得たようだった。
同時にずるいとも思った。私よりも先に、五条に消えない痕をつけて特別になった彼女たちが、ずるくて憎くて羨ましい。あの二人を超える痕を、どうやっても私は残せる気がしない。
一体どうしたら、私は五条の特別になれるのだろう。どんな方法ならば、五条に一生残る痕を残せるだろう。考えて考えて考え続けた私は、もう自分の気持ちにおしつぶされそうだった。いっそのこと死にたかった。それほど自分の気持ちに疲れていた。

今日の任務で七海に手出しをさせなかったのは、七海を思ってのことじゃない。あれはただの建前だ。私はあの呪詛師に殺してほしかった。そうすれば、もう楽になれると思った。けれどあんまりにも弱いものだから、勢いあまって殺してしまったのだ。

私は、そんな自分勝手でどうしようもない人間だ。惨めで哀れ。それがもう一人の私の正体。誰にも知られたくなかった情けない私。


**


ゆっくりと目を開けると、私はベッドに横たわっていた。カーテンを通して、朝日が床を明るく照らしている。泣いたせいだろうか。まぶたが重たい。服は昨日帰ってきたときのままだった。
五条と会ったのは夢だったのだろうか。お酒を飲みすぎて、悪夢を見たのか。それならそれで構わない。あの、なんて表していいか分からない感情を誰にも知られていないのなら、なんだっていい。

水が飲みたい。ベッドから起き上がって、リビングに続くドアを開ける。そこには、ソファーに座ってスマートフォンをいじっている五条がいた。


「起きたんだ。おはよ」
「な、なんで……」


なんでいるの。言いかけて、昨日のことが悪夢でなかったことに気づく。最悪だ。悪夢以上だ。けれど後悔してももう遅い。
リビングで突っ立ったまま途方に暮れていると、五条が私の名前を呼んで手招きをした。ここで抵抗したところでどうにもならない。素直に応じて、五条のところへ行く。


「昨日の返事だけど、僕も好きだよ」
「返事……?」
「熱烈な告白してくれただろ。まさか酔ってて覚えてないなんて言わないよね?」
「あ、あれを告白って受け取るの」
「違った?」


違わないけれど違う。あんなもの、もはや恋の告白と呼べるようなかわいいものではない。陰湿でドス黒くて醜い感情のかたまりの成れの果てだ。


「いやあ、僕のことあんな風に想ってくれてたなんてね。もう一回言ってよ」


五条が私の右手を取って、恋人つなぎで握って見上げてくる。澄んだガラス玉のようなきれいな瞳が、私を見る。

本当にいいのだろうか。こんな暗い感情を、本人にぶつけていいのだろうか。
昨日、散々さらけ出したというのに、いざその場面になると躊躇してしまう。そんな私の心を見透かしたように、五条は繋いでいる手に力をこめてきた。私も力の入らない手で握り返す。


「……五条の特別になりたい」


もう一人の私が報われた気がした。




201116
title by 甘い朝に沈む

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