いい加減にしてほしい。ため息とともにそんな言葉を吐くと、目の前でパソコンに文字を打ち込んでいた二宮くんが顔を上げた。私の言葉に反応をして、眉間にシワを寄せる。二宮くんのことを言ったわけではないけれど、訂正するのもなんだか億劫で、そのシワは見て見ぬふりをする。私は左手に持っていたスマートフォンをテーブルの上に伏せると、もう一度ため息を吐いて、自分の目の前にあるパソコンに向き直った。


「おい、俺のことじゃないだろうな」
「まさか。二宮くん今の今まで真面目にレポート書いてたじゃん。そんなこと言わないよ」
「じゃあなんだ」
「犬飼くんだよ」


私の出した名前に、二宮くんが納得したような顔をする。けれどだからといって特になにも言わず、彼はまたパソコンに目を向けた。私のことなどお構いなしと言うように、カタカタとレポートを作り上げていく。

最近、運悪く立て続けに一般教養科目の講義に出られなかった二宮くんは、同じ科目を取っている私に連絡を取ってきた。その科目は、出席も取らなければ考査もない。ただ一度、レポート提出のみで評価が決定される。しかも内容は、すべての講義を踏まえた上で書き上げなくてはならない。続けざまに休んでしまった二宮くんにはかなり辛いだろう。休んだ分の講義内容を教えてくれ、という連絡だったため、私は二つ返事で了承した。大学はこういう助け合いがなければやっていけない。特に、講義に出られないことが多いボーダーともなれば尚更だ。それなら一緒にレポートをやらないか、と誘えば、二宮くんは案外簡単に賛成してくれた。二宮くんの視点は結構面白いから、私のレポートにも活かしたいのだ。


「あの子、どうにかならないの?」
「ならないな」
「そんなこと言わないでよ。隊長でしょ?」
「俺は馬に蹴られる気はない」


犬飼澄晴。ガンナーで、攻防も援護も優秀にこなす二宮隊のバランサー。二宮隊がA級にいたことからも、そのスキルの高さは折り紙つきだ。
同じガンナーとして彼の能力の高さには舌を巻くし、尊敬もしている。防衛任務で一緒になった際も、常に冷静で視野を広く持って対応していた。その様を見れば、彼をクールだと思う人もいるだろう。けれど、任務にあたっていないときの犬飼くんは、愛想がよくて話が上手い。人懐っこく慕ってくるものだから、ひとりっ子の私は、弟がいたらこんな感じなのかなぁ、と可愛がっていたのだ。お姉さんがいるせいもあってか、かなり甘え上手でもあったので他の子より世話を焼きすぎていた自覚はあった。

きっかけは模擬戦だった。トリガーの設定を少し変えたから相手をしてほしい。年下の可愛がっている子からそんな風に頼られて、私が断るわけがない。いくらでも付き合うよ、と何戦も戦っていたときだった。いつもと同じように動く犬飼くんに、どの設定を変えたのかと疑問に思いながら、彼の左腕をスコーピオンで吹っ飛ばしたところ、急にグッと距離を詰められて唇にキスをされたのだ。それを皮切りに、私は犬飼くんに猛アタックされている。私は彼に、恋愛対象として見られていたのだ。


「馬なら代わりに私がいくらでも蹴られてあげるからさぁ」
「俺はこれから防衛任務だ。俺のレポートが読みたいなら後で隊室に来い」
「そんな殺生な」


私の話を聞く気はないらしい。パタン、とノートパソコンを閉じて、二宮くんがラウンジを後にする。隊室に来い、だなんてひどいことを言う。行ったら十中八九犬飼くんに会ってしまうのに。二宮くんは鬼だなぁ、とスタスタ歩いて去ってゆく背中を見て思った。
伏せていたスマートフォンをもう一度見る。先ほど私にため息を吐かせた『防衛任務終わったらご飯行きませんか?』という犬飼くんからの文章。まだ既読もつけていない。

弟のように思っていた子から恋愛感情を向けられている、というのはまさに青天の霹靂だった。しかもそれをキスされて知るだなんて。
二十歳ともなればそれなりに経験はあるから、キス自体にはなんとも思わない。ただの肌の接触だ。しかもお互いトリオン体だった。
犬飼くんほどの年頃なら、年上に憧れることもあるだろう。他の子よりも可愛がられて好きになった、なんて十代にはありがちだ。

けれど、無視できない大きな問題が二つある。ひとつは、私が犬飼くんの猛アタックに絆されて本気になりかけていること。もうひとつは、彼が高校生であることだ。ボーダーの隊員は大半が未成年だ。だから、大人である私たちが彼らの手本にならなければならない。問題や間違いなど、決してあってはならないのだ。
だから私は、少なくとも犬飼くんが高校を卒業するまでは彼からの猛アタックをのらりくらりと躱さなければならない。好きになりかけている相手に応えることができず、応えられるようになったときにはすでに心変わりしているかもしれない。そんな不安を抱える私の気も知らないで、犬飼くんは私の心にちょっかいをかけてくる。本当、いい加減にしてほしい。耐えられない。


「なーに怖い顔してるんですか」
「……迅くん」
「そんなときには、ほら。ぼんち揚げどうぞ」


スマートフォンから声のした方に視線を向けると、そこには実力派エリートがぼんち揚げを片手に立っていた。目の前に出された袋を見て、いただきます、と一枚貰う。迅くんは私の目の前、つい先程まで二宮くんが座っていた位置に腰をおろした。


「私の未来、今どうなってる?変なことになってない?」
「言っていいんですか?」
「……どのくらい先まで分かってるの?」
「だいぶ先まで」


迅くんがニヤニヤしながらぼんち揚げを頬張る。ああ、これはロクなことになっていない気がする。


「未来は無限に広がってますよ」
「広がってないよ……」
「大丈夫。とりあえず後で二宮隊の隊室行ってみたらどうです?」


一体なにが大丈夫なのか。それは私にとっての大丈夫なのか。聞きたいことは山ほどあるけれど、知るのが怖くて結局なにも聞くことができない。本日何度目かのため息を吐く。幸せが逃げそうだ。


「名字さんはもっと自由になっていいと思いますよ」
「……それはなんのアドバイスなの」
「違う違う、ただの感想。堅苦しく考えすぎなんですって」


これも迅くんの暗躍のひとつなのだろうか。睨みつけるように迅くんを見るけれど、彼はどこ吹く風とヘラヘラ笑っている。迅くんがそこまで言うなら仕方ない。乗ってあげる。


「分かった。後で行ってみるよ」


**


時刻は20時15分。私は覚悟を決めて、ラウンジの椅子から立ち上がった。二宮隊は20時まで防衛任務だったから、この時間ならばまだ全員いるだろう。犬飼くんも、人の目がある場所ならある程度は弁えてくれているので、今なら行っても問題はないはずだ。
隊室に行く、二宮くんからUSBを貰う、帰る。頭の中でシミュレーションをしながら本部の廊下を歩く。イメージトレーニングはバッチリだ。大丈夫。二宮隊の隊室の前で深呼吸をして、ドアを開けた。犬飼くんがいた。


「あ、名前さん。待ってましたよ」
「お邪魔します。任務お疲れさま。二宮くんは?」
「二宮さんならもう帰りましたよ?」


え、なにそれ。聞いていない。
隊室を見回すと、二宮くんどころか辻くんも氷見ちゃんもいない。つまり、隊室には私と犬飼くんの二人きりだ。それを理解した瞬間、図ったかのようにドアが閉まる。立派な密室が出来上がった。


「これ、二宮さんからです。中身はレポートと資料って言ってました」


犬飼くんが、テーブルに置いてあった黒いUSBを私に差し出す。なんだ、用意はしてくれていたのか。
お礼を言って受け取ろうと右手を伸ばした瞬間、手首を掴まれた。もう一方の手で肩を掴まれ、そのまま後ろに押される。倒れるかと身体を固くしたが、壁が近かったようで、そのままドア横の壁に押しつけられる形になった。足の間に犬飼くんが足を入れて、逃げられないようにされる。生まれてはじめて壁ドンをされた。これはダメだ。


「ははっ。警戒心、ちょっと薄すぎるんじゃないですか?」
「私もそう思って後悔してる」


なにがダメかって、私が生身であることだ。トリオン体なら、もう少し抵抗できただろうに。もう帰るだけだからと生身になったのが失敗だった。
加えて、犬飼くんも生身。学校から直でボーダーに来たのだろう。制服姿だった。ジャケットは前を開けているし、首が苦しいのが嫌なのかワイシャツのボタンを開けてネクタイも緩めている。
密室で制服を着た高校生に壁ドンをされている。恐ろしい状況に、背徳感でいっぱいになる。堪らず犬飼くんから目を逸らした。
犬飼くんの顔が近づいてくる。


「名前さん、こっち見て」
「……っ、無理」
「キスしちゃうよ?」
「……だめ、しないで」


吐息のかかる距離で話されて、私はもういっぱいいっぱいだった。お願いだからこれ以上私の心を刺激しないでほしい。こっちは我慢をしているんだから。
頭の中で、犬飼くんは未成年、と呪文のように何度も繰り返す。


「犬飼くんは、年上に憧れてるだけだよ」
「……そんなこと言うんだ」


肩を掴まれていた手が、今度は私の顔を掴んだ。強制的に犬飼くんの方を向かされる。痛い。


「本気でそう思ってる?」


犬飼くんの声が低く尖った。彼を突き放すために言った言葉は、どうやら彼を本気にさせてしまったらしい。いつもは見せないような、嘘偽りのない真っ直ぐな目で私を見てくる。掴まれた手首も痛いくらいに握られている。
どうしてそんなことを言うの。どうしてそんなことをするの。やめてよ。声にならない思いが私の中でぐるぐると巡る。
先に目を逸らしたのは犬飼くんだった。顔も手首も解放される。離れる前にUSBを握らされた。


「なーんて、びっくりしました?」


先ほどまでの射抜くような目はどこへやら。いつも通りの声音にヘラっとした笑顔。今までのことをなかったことにするらしい。


「送りますよ」


自分の鞄を持って、犬飼くんが私に笑いかける。いつも通りの人懐っこい笑顔。それを見て、私の中にふつふつとある感情が湧いた。

悔しい。その笑顔を崩してやりたい。

そう思ったときにはすでに身体は動いていた。背を預けていた壁から離れ、犬飼くんの胸ぐらを掴んで引き寄せる。唇にキスをしてやった。犬飼くんが目を見開く。私は目を合わせたまま、無防備な唇に舌をねじ込んだ。そのまま、これでもかと口内を荒らす。舐めて、なぞって、絡めて、噛んで、吸って。
夕方、迅くんに言われた通りに自由にした。犬飼くんが時折鼻から抜ける声を出すものだから、劣情を煽られて仕方ない。気持ちを押し付けるように、空いている片手を彼の後頭部に回す。その余裕を壊してやる。そんな暗くて強い衝動が、私の中にはあった。
散々好き勝手にして、最後唇を離すときは下唇を舐めてやった。犬飼くんの唇がテラテラと唾液で光っている。彼の、耳まで真っ赤になった惚けた表情と相まって、私は優越感で満たされた。


「澄晴くんのせいだよ」


わざと名前で呼んで、隊室から出る。全部犬飼くんのせいにしてやる。散々煽ったのはそっちなんだから、ちゃんと責任を取ってよね。




201109
title by 甘い朝に沈む

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