私はあの日から、熱に浮かされている。それはまるで、厄介な魔法にでもかけられてしまったかのようなもので。だから自分自身ではどうすることも出来なかった。


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一昨日、私は午後の授業を憂鬱な気分で受けていた。先生の退屈な話にそれなりに耳を傾けて、買ったばかりのA4サイズのノートに板書を写す。
もうすぐあるテストが嫌だとか、最近出た新作のコスメは可愛かったなとか、アルバイトのシフトを増やさないと金欠確実だとか。頭の中はそんな不真面目なことばかりを考えていて、真面目に先生の話を聞いてはいない。

それもこれも、雨が降ってきたせいである。朝の天気予報では、一日中くもりの予定だった。降水確率は午前中も午後も半分を下回っていたし、昨日も雨は降っていない。そして明日も降る予定は朝の時点ではなかった。だから私は傘を持たずに登校したのだ。それが今では厚い雲が空を覆い、本降りの雨が地面を激しく叩いている。風がないことが唯一の救いだ。


濡れて帰るしかない、か。


今日の天気予報を見ていたのなら、同級生たちも傘を持ってきていることに期待はできそうにない。折りたたみがあるから貸してくれる、なんて運のよいことは起こらなさそうだ。
チラリと空を見上げるも、灰色と黒の混ざった大きな雨雲は下校までにここを動いてくれることは無さそうだった。


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「ああ、憂鬱……」


思わずそう独りごちてしまうのも無理はない。案の定、その雨雲は学校周辺から少しも動いてくれなかった。下駄箱から目を細めて遠くを見ると、その雨雲は随分と遠くまで空を侵食している。ここから私の家までずっと雨に当たりそうだ。
途中のコンビニで傘を買うか。でもそれはお金がもったいない。かといって、濡れて帰って万が一風邪を引くのも嫌だ。特に今は高校三年生の大事な時期なのに。
私の気持ちにお構いなしに降り続ける雨雲を睨んで、仕方ないから傘を買おう、と決意をした。
誰もいない下駄箱で、しゃがんで曲げていた膝を伸ばして、はぁ、と息を吐く。一歩前に足を踏み出すと横から声を掛けられた。


「百面相は終わったのか?」
「あ、荒船くん」


同じクラスの荒船くんは、くつくつと笑いながら私に歩み寄ってくる。


「百面相って……、いつから見てたの?」
「お前が下駄箱に来たときから」
「それって最初からじゃん」


誰もいないと思っていたのに。
百面相をしていたのを異性に見られるのは、さすがに恥ずかしい。それもあまり関わったことのない異性ならなおさらだ。
私と荒船くんは同じクラスだけれど、話をしたことはほとんどない。あるとすればクラスの業務連絡くらいで、それも確か一度か二度だったはず。だから私と荒船くんは同じクラスでも初対面に等しい。それが向こうから話しかけてくるだなんて。しかも笑いながら。
荒船くんってちょっと怖いよね、なんて以前友達に言ったことがあった。彼には少し近寄りがたい雰囲気がある。それが彼特有のものなのか、ボーダーに所属していることからくるものなのかは分からないけれど。それに、切れ長の目も少し怖い。心を見透かされているような気持ちになる。そういう理由で、私は彼を前にすると気持ちが落ち着かないのだ。


「悪い悪い、考え事してるみたいだったから、話しかけるのも悪いと思ってな」
「なにか私に用事があったの?」


私はいま、荒船くんと自然にお喋りができているだろうか。声は上擦ったりしていないだろうか。呼吸は変じゃないだろうか。目線は適度に合わせられているだろうか。私は笑顔だろうか。ちゃんと、ただのクラスメイト、でいるだろうか。
彼に苦手意識を持っていることを、悟られてはいけない。けれどそれを隠す動作に違和感はないか。ほんの少しの引っかかりで、荒船くんは私の本心を見抜いてしまうかもしれない。彼の切れ長の瞳と視線が合うたび、私はそんなことを思って少し怖くなる。


「傘、入ってかないか?」
「えっ」
「この雨だし。家、近いだろ」


二人入っても大丈夫そうな、大きめの紺色の無地の傘。濡れない、お金がかからない、というのはとても魅力的なお誘いだけれど、荒船くんと一緒に下校するのは私にはレベルが高すぎる。今だって気持ちを気取られないように必死になっているのに、それを家に着くまで、今よりも近い距離で行わなければいけないなんて。


「ありがとう。でも、」
「その様子じゃ、濡れて帰るつもりだったんだろ?」
「そ、そうだけど……」


荒船くんはクラスメイト思いなのだろうか。たいして話したこともないクラスメイトに、ここまで親切にするなんて。親御さんの教育の賜物だろうか。


「で、でも、もしかしたら明日からかわれちゃうかもしれないよ」


一番嫌そうなところを突いてみた。当人同士は何もなくても、それを見ている周りはそうはいかない。好きなのか、付き合っているのか、とこちらの事情もお構いなしに好き勝手に囃し立てては盛り上がる。受験勉強でみんなストレスが溜まっているのも相まって、きっと噂が噂を呼ぶだろう。好きでもない人と噂を立てられる。それはきっと荒船くんも嫌なはずだ。もしも荒船くんに好きな人がいれば尚のこと。


「構わねぇよ」
「えっ」
「言いたいやつには言わせとけばいい」


豪快。肝が据わっている。ここまで言い切られると気持ちが良い。でも、これで逆に私は断れなくなってしまった。選択を間違ったなぁ、と内心ため息を吐いて、両手を上げて降参ポーズを取る。


「じゃあ、近くまでお願いします」
「おう」


その時の荒船くんの顔が、脳裏に焼き付いて忘れられない。いつものキリッとした眉がへにょりと下がり、切れ長の目は柔らかく細められる。口角はゆるく上がっていて、優しげな笑顔だった。
荒船くんのこんな顔、見たことがない。こんな優しく笑いかけるような笑顔。それは選ばれたものしか見ることができないような、貴重な宝石のようだった。

その後のことはあまり覚えていない。確かに巷で言うところの相合傘をしたはずなのに、私は荒船くんの低くてよく通る声や、私より高い身長や、右隣にいる荒船くんの存在で熱を帯びる右半身や、とにかくそんなことばかりに意識がいってしまったのだ。
右半身の熱は、そこから全身に広がって私を柔らかく苦しめる。自分ではどうすることもできない、厄介な魔法。その正体を私は知っている。ああ、まさか自分がこんな簡単にかかってしまうだなんて。それも苦手意識を持っていた彼に対して。

ああ、どうかどうかこの気持ちが彼に気づかれませんように。




201020
title by 甘い朝に沈む

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