静かな夜だった。
私以外のすべての生き物が息絶えたのではないかと錯覚してしまうくらい、音のしない夜だった。


高専の自室で買ったばかりの文庫本をペラペラとめくる。昭和時代に書かれた、有名な作家による作品のひとつ。読んでいるだけで死んでしまいたくなるという噂の内容。今まで食指が動かなかったのだけど、先日書店を物色しているときにふと目にとまって買ってしまった。
この心境の変化は、言うまでもなく彼のせいだ。数十日前に彼が起こした行動が、私の中に重くのしかかっている。あの時の衝撃が忘れられなくて、だから私はいつもは手に取らないような作品を買ってしまったし、こうして読んでいるのだ。

細かな文字をゆっくりと目で追っていく。主人公の心情と行動を、自分の中に落としこむように反芻する。数ページ進めたところで、本を閉じてローテーブルの上に置いた。
全然理解できない。この主人公のことも、そして彼のことも。
きっと辺りが静かすぎて集中できないんだ。そんな適当な理由で自分を納得させる。ベッドに寝転がって、疲れた目をマッサージする。時計を見ると23時を過ぎたところだった。
今日はもう寝てしまおうか。そう思って電気を消すために立ち上がると、誰かが玄関を叩く音がした。相手は誰か考えなくても分かる。こんな時間にこんなことをする人を、私は1人しか知らない。
ペタペタとフローリングを歩いて、玄関を開けに行く。


「……ん。」


玄関を開けると、予想通りの人物がそこにいた。五条悟。私の大切な同期の1人。
いつも通り上下黒いスウェットにつっかけを履いている。ほのかに清潔な良いにおいがして、シャワーを浴びたことも分かった。

私は何も言わずに部屋の中へ招き入れる。悟はつっかけを脱いで一直線に私のベッドへと進んだ。そのままベッドに入り、もぞもぞとしっくりくる位置を探しているようだった。電気を消して、私も続くようにベッドへと入る。シングルベッドに2人は狭いな、と毎回思うことを今回も思った。

私ももぞもぞと動いて、悟に背中を向ける。すると悟はいつも通り私をぎゅうっと抱きしめるのだった。


「痛いよ」
「……」


毎回一応抗議はしてみるけれど、それで力が緩んだことは一度もない。むしろ無言のまま、さらに力を込められることもたびたびある。そして今日はその日だったようで、悟は無言のままさらに私を抱きしめた。


彼、傑が大事件を起こしてから数日経って、悟は夜私の部屋に来るようになった。来る日はまちまちで、毎日来ることもあれば数日開くこともある。共通しているのは、私のベッドで私と一緒に寝るということ。比喩表現ではなく、本当に寝る。睡眠をとっているのだ。

理由は分からない。きっと人肌が恋しいのだろう、というのが私の結論だった。傑を失った穴を埋めるように、寂しさ紛らわせて気持ちを誤魔化す手段が必要だった。ただそれだけ。そこに深い意味はない。けれども、硝子ではなく私を選んだ理由は結論が出なかった。何度かそれを聞こうとしたけれど、なんだか悟にも理由が分かっていないような気がして聞くことを躊躇ってしまう。


するり。
ふいに悟の手が動いた。パジャマの上から身体を撫でられて、反射的に反応して強張った。どうしたの、と言葉を発する前に、その手は服の中へと侵入してくる。
ゴツゴツした手が私のお腹の上を這い、止まり、そのまままた抱きしめられる。


「なんで何も言わねぇんだよ」


突然耳元で吐かれた言葉に全身の皮膚が粟立った。
悟が、怒っている。
いくら親しい同期とは言え、悟に恐怖を感じたことはこの2年以上で数えきれない程あった。手合わせのとき、任務のとき、授業のとき。他にもたくさん。

産まれたときから呪術界にいる悟と、非術師家系出身の私では、そもそも価値観から全く違うのだ。加えて悟の実力からすれば、私は片手間に殺せるくらい差のある相手。媚びへつらって機嫌をとるなんてしたことはないけれど、それでも顔色を伺ったことくらいはあった。強いものに対する根源的な恐怖。私と悟は同列であっても対等ではないのだ。


「犯されるとか思わないわけ?」
「……その一線は越えないと思ってるよ」
「そんなの分かんないだろ」


瞬間、思いっきり引っ張られて組み敷かれた。部屋は暗いけれど、闇に慣れた私の目はしっかりと悟の表情を捉えた。苦虫を噛み潰したような、腹立たしそうな、不機嫌極まりないという顔をしていた。それを見て、ああ私に怒っているわけじゃあないんだな、と安堵した。悟の中にある色んな感情が爆発して、たまたま標的が私になっただけ。ただのやつ当たりだ。


「犯してやるよ」


吐き捨てるように悟が言った。
パジャマが胸の上までたくし上げられて、空気に触れたお腹がひんやりする。けれども、私の素肌を見て、そして抵抗しないことに悟は怯んだようだった。


「なんで抵抗しないんだよ」
「そんなことしないって分かってるから」
「お前に俺の何が分かるんだよ!」


私の胸ぐらを掴んで悟が言った。絞り出すような声だった。泣きそうな顔で私を睨みつけている。


「分かんないけど、私にとっての悟はそうだから」


ああ、説得力がないな。だって私にとって傑は人を殺すような人間じゃなかった。だからきっと、この言葉は悟をすごく傷つける。
殴られるかな、と思ったけれど、悟は目を見開いたあと唇をきつく結んで私からそっと離れた。
そして私の隣に寝転がり、背中を向ける。


「……ごめん」


聞き逃してしまいそうな小さい声だった。悟の背中が丸まっている。
だから今度は私が悟の背中に抱きついた。


「もういいよ、寝よう」


悟は泣かない。私も泣かない。
泣いてしまったら、何かを、そして誰かを呪えなくなってしまうから。


「おやすみ、悟」
「……おやすみ」


でも今は泣きたくて仕方なくて、悟の背中に顔を押しつけてみたけれど、でもどうしても涙は出なかった。




211204
title by 甘い朝に沈む

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