白い部屋に、パンの焼けたいい匂いが充満していた。僕と白蘭さんの目の前には、焼けたばかりのパンと名前の作ったジャムが並べられている。今日の朝食はまだ摂っていなかったから、その匂いは僕の食欲を大いに誘った。白蘭さんはジャムを見つめたままピクリとも動かない。その瓶に何を見ているのか、僕には見当もつかない。僕は考えた末、白蘭さんを待たずに目の前のものを食べることにした。僕が食べている姿を見れば白蘭さんも食べるかもしれないと思ったからだ。それに、白蘭さんは名前が亡くなってからろくに食べていない。

「いただきます」

右手にジャムを掬うヘラを持って、パンにジャムを塗る。相変わらずキラキラと輝いているそれは綺麗だった。ジャムを塗り終えたパンを手に持ち、一気にかぶりつく。

「…美味しい」

素直にそう感じた。名前はこんなにも上手にジャムを作ることができたのか。思い返せば、僕は彼女の手料理を一度も食べたことがなかった。名前は料理が上手だったのか。彼女の近くにいたくせに、僕はそんなことも知らなかった。彼女の手料理を食べてみたかった、と心の中で少し後悔した。

「……美味しそうだね」
「ええ、とても美味しいですよ。白蘭さんも、どうぞ」

白蘭さんがパンを手に取った。それから、丁寧にジャムを塗っていく。そのとき、ジャムがいっそうキラキラと輝いた気がした。けれどそれは次の瞬間にはまったくなくなっていて、見間違えではないかと判断しそうになった。だけど、あれは見間違いなんかじゃない。とても綺麗な輝きだった。僕らが出す炎さえも凌ぐ、そんなきらめき。白蘭さんはその一瞬の出来事に気が付かなかったのか、そのままパンを口の中に放り込んだ。ゆっくりと咀嚼し、飲みこんでいく。

「しょ―――」

恐らく僕の名前を呼ぼうとしたのだろう。しかしそれは最後まで言葉にならず、大きな咳きこみに変わった。

「白蘭さん!?」

数秒咽たあと、白蘭さんは気絶してしまった。僕は彼の側で呆然としてしまう。なぜこんなことになったのか。原因はなにか。偶然の出来事なのか。それともジャムが原因か。けれどそれならば僕にも異変が起こるはず。しばらくゆるい思考が頭の中を支配していたが、すぐに我に返って医務室に連絡をした。



その日の夕方、白蘭さんの目が覚めたとチェルベッロから報告があった。やっとか、と安堵に包まれながら、二つ返事で医務室へと向かう。

「失礼します」

そう言って医務室に入る。やはり何もかも白い部屋に白蘭さんは横たわっていた。近づいて彼の名前を呼ぶと、白蘭さんはゆっくりと目を開いた。バイオレットの瞳が僕を見つめる。

「やぁ。どうしたんだい、正チャン」
「どうしたんだいじゃないですよ、いきなり倒れたりして。大丈夫なんですか?」
「大丈夫だよ。それより、僕はどうして倒れたんだっけ?」
「は?」

予想外の質問に息が詰まった。白蘭さんが真っ直ぐに僕を見る。それに動揺を隠せず、僕は俯いた。不思議そうに僕を見つめるのが気配で分かる。なんでもありません。震える声で、そう言った。

「目が覚めてから、ここ数ヶ月の記憶が曖昧なんだ。ほとんど何していたか覚えてない」

その言葉で、ぼくはなんとなく悟った。名前はあのジャムに仕掛けを施していたのだ、と。僕には無害になる形で、白蘭さんにのみ影響が出るように。この時代でしかも名前ならば納得できる。

「白蘭さん、名前という人物を知っていますか?」
「……さぁ?」

白蘭さんが首を横に振る。

「その人がどうかした?」
「いえ。知らないならいいんです」

名前はこうなることを見越していたようだ。
僕は軽く頭を下げて、医務室を後にした。すぐにあの部屋を片付けよう。そしてこの数ヶ月のことはなかったことに。先のことだけ考えよう。これから僕らは白蘭さんと全面戦争をしなければならないのだから。

(了)
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -