教室に忘れ物をしたと気付いたのは、部活が終わってからだった。しかもよりにもよって忘れたのは、明日までに提出しなければいけない数学のプリント。正直面倒だと思ったが、取りに行かないわけにはいかないから、俺は仕方なく教室に戻ることにした。

もうほとんど陽が落ちた時間、誰もいない、温度の下がったひんやりとした廊下を歩く。最終下校間際の校舎は、昼間とは打って変わってとても静かだ。厳かな雰囲気さえあるそれを、俺はあまり好きではなかった。この時間の校舎にいると、どこか別世界にいる気がしてきてしまう。地に足が付かなくなるような感覚。だからあまり近付きたくなかった。しかしそうも言っていられない。俺はプリントを取りに行かなければならない。早足で廊下を歩く。はやく、はやく着け。

「あめんぼ赤いなあいうえお」

それは唐突に聞こえた。俺の所属するクラスからだった。誰もいないと思い込んでいた俺は、その言葉に驚くほど反応してしまった。「ひっ」。教室に入ろうと戸にかけていた手を思わず離す。

「柿の木栗の木かきくけこ」

幸い、教室にいる人物は俺の声に気付いてはいないようだった。先ほどと変わりなく大きな声で発声している。ちゃんと聞いてみると、声の主は女の子のようだ。高くもなく低くもない、聞き取りやすい声が聞こえてくる。

「ささげに酢をかけさしすせそ」

彼女は一体誰なのだろうか。今度はそんな疑問がふつふつと湧いてきた。俺のクラスにはこんなよく通る声を出す人物はいなかったはずだ。戸を開けたい。誰なのか知りたい。けれどこの声をずっと聞いていたい。そんな二つの気持ちが自分の中でぶつかり合っていたものだから、俺は教室から声が聞こえなくなったことに全く気が付かなかった。ガラリ。いきなり戸が開いた。「ぬおっ」。また情けない声を上げてしまった。

「え? あれ? 東堂くん?」

戸を開けたのは、クラスメイトの名字さんだった。今度は驚いて声が出なかった。なぜなら彼女は目立つような人間ではないからだ。声も小さく、口数も少ない控えめな子。間違ってもあんな声を出すような人ではない。念のため見える範囲で教室を覗いたが、誰もいなかった。

「一人、か?」
「そうだよ」
「ではさっきあの声を出していたのは……」
「わたし」

名字さんは俺の目を見て、はっきりとそう言った。

「入りにくかった…よね。ごめんなさい」
「い、いや!そんなことはなかったぞ!」

彼女に聞きたいことがたくさんあった。普段教室で見せている彼女とあまりにも違いすぎたから。けれど言葉が喉につっかえて全く出てこない。トークがキレない。まるで自分じゃないみたいだ。

「わたし、もう帰るから。それじゃあ、また明日」
「え、あ、あぁ。また明日…」

そのまま名字さんは帰ってしまった。結局なにも聞き出せなかった。小さくなっていく彼女の背中を、見えなくなるまで目で追う。
明日俺は、彼女になんて声をかければいいだろう。



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -