私は、箱根学園に入学して福富寿一という人間の存在を知ったその日から、彼のことが嫌いだった。誰よりも努力し、ストイックで、実力に裏付けされた自信を持っている。福富というのは、昭和の頃の少年漫画の主人公みたいな人だった。その上、顔に表情がない。いつも険しい表情をして前だけを見ている。いつだったか、荒北がそんな彼のことを鉄仮面だと言っていた。初めてそれを聞いたときは、随分的を射た言葉だと感じたのをなんとなく覚えている。そんな荒北も今じゃ立派な自転車部員で、福富の側でしっかりと青春している。だから私は荒北のことも嫌いだ。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎いなんて言葉があるように、私は福富も自転車も、彼に関する何から何まで全てが嫌いだった。

梅雨に入ってすぐのことだった。土砂降りの雨が箱根に降り注いでいる。今日の私の気分は最悪だった。寝坊して、すべての授業中に当てられて、今日出すプリントを忘れてこっぴどく担任の先生に叱られて。そんな最低最悪な一日だった。だから少しでも早く帰りたくて、帰りのホームルームが終わった瞬間、私はダッシュで教室を飛び出した。下駄箱まで一直線に走り、自分の下駄箱の中に入っているローファーを掴む。そこまでは良かった。問題は靴を履き替えようとしたときだった。

「名字か?」

誰かに話しかけられた。私は廊下に背を向けているからその主のことは見えない。だけど、その一瞬で私は誰に話しかけられているかが分かってしまった。
福富だ。福富嫌いの私が間違えるはずもない。

「どうも」

とりあえず言葉は返しておく。だけどもちろん彼の方に顔は向けない。
一つ疑問があった。私は箱根学園に入学しねから三年間、福富寿一を避け続けてきた。だから私と福富はこれが初対面のはずだ。だというのに、どうして彼は私に親しげに話しかけてくるのだろう。

「もう帰るのか」
「帰宅部だからね」
「そうか」

そこで会話が途切れた。帰るなら今しかないと思った。手早く靴を履き替えて下駄箱を後にしようとする。だけど一歩踏み出したところで、私はまた福富に引き留められてしまった。

「もし暇があるなら、また練習を見に来ないか?」

その瞬間、どうして福富が私に親しげに話しかけてくるのかを思い出してしまった。私たちがまだ一年生だった頃、新開くんを見たいという友達に付いて行って自転車部に入ったことがあった。そこで少しだけ彼と話したことがあったのだ。私と福富のファーストコンタクトは、今日ではなかった。

「気が向いたらね」
「ああ、待っている」

その時、私はなんとなく福富の方に振り返ってしまった。彼は私の方を見て、自信に満ち溢れた顔で私を見ていた。その真っ直ぐすぎる瞳に、心臓がドキリとする。私は鞄を強く握り、踵を返して下駄箱から走り出した。
福富にこんな自分を見られたくなかった。ただただ土砂降りの雨の中を必死で走る。しばらく走って、息が切れてきたところで足を止めた。
どうして私が福富をこんなにも嫌っているのか、理由が分かってしまった。私は彼が羨ましかったのだ。理由も目標もなく、ただ生きているだけの私と福富は違う。何もかもが違う。それを二年前の自転車部の練習を見に行った日に、福富から突きつけられてしまった。福富の走りはすべてが正しかった。だから私は福富のことが嫌いなのだ。彼が羨ましいから、妬ましいから、だから嫌いなのだ。なんて自分は浅はかで愚かなのだろう。

「福富…、ごめんなさい……」

土砂降りの雨は、未だ止みそうにない。



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