ティーカップに残っていたテフを眠気覚ましのために一気にをあおると、いつもの独特な苦味がドロリと喉を流れていくのを感じた。お世辞にも美味しいとは言えないそれに、私は思わず顔をしかめる。ミルクや砂糖で味を整えていないテフは美味しくない。というか不味い。とても。
それでも、この苦味が私の眠気をいつも吹き飛ばしてくれている。


私の机の両側には、書類の山がいまだうずたかく積まれていた。捌ききる前に新たな書類がどかどかと追加されていくから、この書類たちは増えることはあっても減ることはない。

フォドラ全土を巻き込んだ5年にわたる戦争は表向き終結した。けれど、それはこの地を良くするための前段階に過ぎない。戦後の後処理とセイロス教の解体、貴族の廃止や新たな法整備など、やる事はいくらでもある。

私もエーデルガルトから大きな案件をいくつか任されていた。どれも今までのフォドラには無かったものばかりで、進めるのも一苦労なそれら。
これなら戦場の最前線で切った張ったの大立ち回りをしていた方がいささか楽だったかもしれない。なんて、懐かしむべきではない血生臭いあの頃につい思いを馳せてしまう。


頭がいよいよそんな現実逃避をし出して、私はペンを放り投げた。集中力が切れている。一度仮眠をとった方がいいかもしれない。ため息を吐いて、椅子から立ち上がって硬くなった身体を伸ばす。
すると扉を数回軽く叩く音が聞こえた。入室許可の返事をすると、入ってきたのは見慣れた人だった。


「失礼する。……これは、ひどいな」
「久しぶり、フェルディナント。足の踏み場がなくてごめんね」


同じ学級で机を並べ、戦争時には黒鷲遊撃隊として背中を預けた級友、フェルディナント。久々に見た彼は相変わらずキラキラと輝いていた。頭のてっぺんからつま先まで身なりに手入れが行き届いていて、まさに貴族の模範。そんな彼は、書類の散乱するこの部屋の惨状や私の姿を見て、その綺麗な顔をしかめた。


「分かってるから皆まで言わないでね。それで、どうしたの?」
「……エーデルガルトからの遣いだよ。一緒に来るように命じられている」
「新しい案件かなぁ」


これ以上はさすがにちょっと厳しいんだけどな。
とはいえ、私以上に忙しいエーデルガルトやヒューベルトがいる手前、言われたことはやるしかない。


「身支度する時間はありそう?」
「いや、生憎すぐに来るようにとの命でね」
「じゃあ……着替えと、少しだけ化粧直ししようかな」
「それなら私は廊下で待っていよう」
「わざわざいいよ。隣の部屋で準備するから、そこの長椅子にでも座ってて」
「……君はもう少し自覚を持った方がいい」
「フェルディナントこそ自覚持って。宰相が廊下に立ってたら部下たちが困るよ」


仲間に対して今更何を自覚しろというのか。
フェルディナントは私の返答で言葉に詰まったようで、なんとも言えない顔で押し黙ってしまった。

今のうちに早く着替えてしまおう。そう思って隣の部屋へと足を進めると、不意にぐらりと視界が傾いた。倒れないようにと足に力を入れるけれど、疲労のせいか踏ん張りがきかない。
倒れる、と思って目をつむる。瞬間、強い力で引き寄せられた。引っ張られたせいで脳が激しく振られてクラクラする。身体を落ち着けるように息を吐きながらゆっくりと目を開けると、目の前にはフェルディナントがいた。どうやら扉の前から私のところまで走ってきて、倒れる前に抱きとめてくれたらしい。相変わらずすごい瞬発力だ。

そういえば昔、戦場でフェルディナントに抱えられたことがあった気がする。がっしりとした腕に強く抱きしめられて、ぼんやりとそんなことを思い出した。


「ありがとう、助かった……」
「君は令夫人だろう。他の男の前であまり無防備にならないでくれ」


困ったような顔でそんなことを言うものだから、今度は私が言葉に詰まってしまった。
私だって誰彼構わずこんなことをさせる訳じゃない。けれど何を言っても言い訳になってしまうような気がして、私は素直に謝ることにした。


「ごめんなさい」
「分かればいいさ。やはり廊下で待っているから支度ができたら出てきてくれ。馬車で向かうから、少しは寝られるだろう」
「うん。そうさせてもらうね」


そっと離れたフェルディナントにもう一度お礼を言う。彼はそんな私に微笑んで、扉へと歩いて行った。



**



フェルディナントの言う通り、馬車では寝かせてもらった。そのお陰で少しは体力が回復した気がする。私が死んだように眠っていたせいか、フェルディナントにまたたしなめられてしまった。


雑談混じりに近況を報告し合いながらエーデルガルトが在室する部屋を目指す。足の長さが違うから歩く速度だって違うはずなのに、それを感じさせないのがフェルディナントだった。ここ数年で、彼の立ち振る舞いはさらに洗練された気がする。自分が模範足らねば、と考えているのだろう。


エーデルガルトの部屋へ入室すると、そこにはまた懐かしい顔ぶれがいた。


「久しぶりね、名前ちゃん」
「ドロテア……。うん、久しぶり」


パタパタと駆け寄ってきて私の両手を握ったのは、ドロテアだった。フェルディナント以上にキラキラと輝いている彼女を至近距離で見て、私は目を瞬かせる。歌劇団に復帰したドロテアは、あの頃より一層綺麗になっていた。
一目見て私の状態を察したのだろう。彼女は心配そうに私の頬に手を当ててきた。
私、そんなに疲れた顔をしてるのかな。

逸らすように部屋の奥へと目を向ければ、そこにはエーデルガルトとリンハルトの姿。リンハルトは相変わらず眠たそうな目で、私へ手をひらひら振っていた。


「積もる話もあるでしょうけれど、本題に入りましょう」


エーデルガルトに促されて、私たち5人は長椅子へと座った。私の両隣にはフェルディナントとドロテア。机を挟んで向かいには、エーデルガルトとリンハルト。


「貴方に休暇を与えようと思うの」


開口一番にエーデルガルトが言った。


「休憩? 嬉しいけど、突然だね」
「そうでもないわ。ずっと休ませようとは思っていたの。随分遅くなってしまったけれど……」
「それで、私たちが名前ちゃんの仕事の引き継ぎに来たのよ」


彼女がすまなそうな顔をする一方、ドロテアは優しく微笑む。
エーデルガルトの方が忙しいんじゃないかな、なんて言う前にリンハルトが口を開いた。


「君は働き過ぎなんだよ。少し休んだ方がいい」
「リンハルトと比べたらみんな働き過ぎになっちゃうよ。それに、もう少ししたら一段落すると思うんだけど」
「仕事なら我々が引き継ぐさ。心配しなくていい」
「どうせ引き継ぐなら君が倒れる前にした方が面倒じゃないしね」


私の隣でフェルディナントが胸を張る。さらにダメ押しのようにリンハルトに言われて、私は納得することにした。せっかくの厚意をありがたく受け取ろうと思う。


「……分かったよ。みんなありがとう」
「ふふ、どういたしまして」


ドロテアが笑う。
とはいえ、書類を見ながらの方が引き継ぎがしやすい。それにあの部屋もある程度片付けておかなくちゃいけない。
部屋の惨状に眉を寄せたフェルディナントの顔を思い出して、私は小さく息を吐いた。



**



静かな部屋に、カリカリと音が響く。
ひとまず抱えている案件を書き出すようにエーデルガルトに言われ、私は羊皮紙に筆を走らせていた。
ひとつひとつは大きくなくても数があったようで、上げてみれば案件はそれなりの量があった。

ひと通り書き終わり、羽根ペンを置く。ちらりとエーデルガルトを見ると、彼女は引きつった顔をしていた。


「貴方……抱えすぎよ。ここまで仕事を与えた覚えはないわ」
「その都度エーデルガルトかヒューベルトに確認取ってたよ。大丈夫、独断では進めてない」
「そういうことを言ってるんじゃないわ。一人でこなす量じゃないと言っているの」


エーデルガルトはため息を吐いて、その羊皮紙を手に取る。横からリンハルトが覗き込んで、少し嫌そうな顔をした。


「これだけ多いと引き継ぐのも時間がかかりそうだね。面倒だけど仕切り直した方がいいかもしれないな」
「そうかもしれないわねぇ。明後日はどうかしら? 名前ちゃんには、明日はまずゆっくり休んでもらいましょ」
「うむ、それがいい」


明日でも構わないけど、と言いかけて口をつぐむ。危ない、厚意を受け取ることにしたんだった。


「実はヒューベルトにも休暇を与えてるの。貴方たち、もうすぐ結婚記念日でしょう? 夫婦水入らずでゆっくりしてちょうだい」
「けっこんきねんび」


エーデルガルトの言葉に思わず復唱。
耳慣れない言葉に思考が一瞬止まった。


「やだ、名前ちゃんったらもしかして忘れてたの? ダメよ、仕事が忙しくても記念日は大事にしないと。」
「え? あ、うん。そう、だね」


私とヒューベルトが婚姻して、もうそんなに経ったんだ。
数節はろくに顔を見ていない彼のことをぼんやりと思い出す。
お互い立場があるから忙しいのは当たり前で、それにそもそも私たちは夫婦として振る舞う必要がなかった。だから結婚記念日なんてすっかり頭から抜け落ちていたのだ。


「気遣ってくれてありがとう。でも、私たちにそういうのはいらないよ。好き合って結婚したわけじゃないし」
「……は?」


四人がギョッと私を見る。


「ええと、どういうことかね」
「そのままの意味だよ。お互い仲間として好きだけど、恋愛的な関係じゃない」
「……あんまりこういうことを聞くのは良くないと思うけれど、名前ちゃん、ヒューくんになんて求婚されたの?」
「約束通り結婚しましょう、だったかな」
「約束してたんじゃないか」
「それはそうなんだけど……」


おぼろげに当時のことを思い出す。結婚の約束をしたのは、タルティーン平原へ進軍する前のことだった。
ヒューベルトに呼び出されて雑談をして、その時に流れで結婚の話になったような気がする。お互い生き残ったら結婚するか、みたいなことを言われて、ヒューベルトもそんな冗談を言えるんだとびっくりしたものだった。そしてフェルディアでの戦いの後、約束通りに、と彼から申しこまれたのだ。


「私は約束だと思ってなかったんだよ。でも断る理由もなかったから」
「待ってくれ。それは……それは仮に、私が求婚しても君は受け入れたということかね?」
「そうだね。少なくとも、黒鷲遊撃隊のみんななら誰でも私は断らなかったよ」
「なっ……」


フェルディナントは絶句して私を見ていた。
エーデルガルトたちも二の句が継げないようで、なんとも言えない顔で私を見ている。
そんなに驚くようなことだろうか。結婚に恋愛感情は必須じゃないと思う。だから私は、信頼しているみんななら誰とそうなっても文句なんてなかった。


「ヒューベルトは、私と結婚することがエーデルガルトのためになるって考えたんじゃないかな」
「……貴方、それ本気で言っているの?」
「君たちはもう少しちゃんと話し合った方がいいと思うよ」
「そうねぇ、私もそう思うわ」


みんなだって、ヒューベルトがどんな人間かよく知ってるはずなのに。
どことなく噛み合わない反応に私は居心地が悪くなる。それに、フェルディナントは絶句して固まったままだ。


「いいわ。名前、今日はもう帰って休みなさい。引き継ぎは明後日貴方の仕事場で。それから休暇中にヒューベルトとよく話すこと。勅命だと思ってちょうだい」
「……かしこまりました。拝命致します」


腑に落ちなかったけれど、エーデルガルトはそれ以上話すことはないと話を切り上げてしまった。
リンハルトも、やれやれと言わんばかりに呆れ顔をしている。
私はどことなくもやもやとした気持ちを抱えたまま、エーデルガルトの部屋を退室するしかなかった。



**



「名前ちゃん!」


廊下を歩いていると後ろから声をかけられた。この声は、と振り返ってみれば、そこにいたのは予想通りドロテアだった。
彼女はパタパタと走ってくると、私の耳元へと口を寄せる。


「名前ちゃんが思ってるより、ヒューくんは貴方のことが好きよ」


ドロテアが珍しく、意地悪っ子みたいに笑う。
内緒話をするような、誰にも言ってはいけないことを話すような、そんな声だった。




230827

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