ペンギンになりたい。いつだったか、彼はそう言った。水族館のペンギンになりたいと。
曰く、ぷかぷか浮いているだけでチヤホヤされるしタダ飯まで付いてくるサイコーな人生、らしい。

ペンギンだって全く楽チンなわけではない事を、彼は知らなかったのだ。
つまり、他人に媚を売って生きるのは存外ムズカシイと言う事。



一緒に暮らし始めて、もう10年は経っただろうか。
ちゃらんぽらんだった彼もすっかりオトナになり、家族も増えた。

ほとんどモンスターと言って差し支えないであろう小さな存在は日に日に喧しく騒がしくなり、私はほとんど静かな時間を過ごせなくなっていた。
そんな時は、ふらりと何処かへ行ってしまう。どうせ誰も気にはしないのだ。

彼と二人きりだった時間が恋しかった。
二人が三人になり、その頃はまだマシだったのだが、三人が四人になった時、私は完全な邪魔者になってしまった。

寝食を忘れる程ではない。
ただ、気にされなくなった。

初めの頃は、ほんの少し家を空けるだけでとても心配され、優しく抱き締めてくれたのに。
今じゃ数日空けたって気付かれない。

私の方が最初から家族だったのに、真っ先に除け者にされたのが悔しくて腹が立った。
からと言って、彼が大事にしている小さな存在を攻撃して、烈火の如く怒られるのはゴメンだった。

そんな時は、彼に媚びを売る。浅ましいオンナだと思われたって構いはしない。彼に愛されていたかった。
私はもう彼の1番じゃないけれど、愛してくれるなら何番目だっていい。

上手くいかない日のが断然多かったが、時たま、彼は優しく撫でてくれた。
ほら、媚びを売るのもカンタンじゃないのよ。そう言って温かな手にすり寄った。



私もペンギンになりたい。水族館のペンギンに。
それがどんな生き物なのか、画面越しでしか知らないのだけれど。
きっと誰からも愛されて、愛されたまま死んでゆくんだろうなあ。




一緒に暮らし始めて、10年以上は経った。
小さな存在も、すっかりオトナになり、また静かな時間が戻ってきた。

私はというと、何にも告げずに家を出て、ふらりふらりと放浪の旅をしていた。

私を見る彼の顔が、とても辛そうで、哀しそうで、見ていられなかったから。黙って出てきてしまった。

ペンギンになりたかった。
水族館では何処からか流れてきてしまった迷い子を保護してる事もあるんだよ、と彼が言っていたのを思い出した。
流れていれば、私もペンギンになれるだろうか。

このところ、やけに身体が重苦しい。手脚の自由はきかないし、上手く喋れなくなった。
此処はどこなんだろう。
彷徨って彷徨って。それでも私は私のままだった。



ペンギンには、なれないかもしれない。
そんな諦めが生まれたのは、奇しくも彼の腕の中――。

いつの間にか戻ってきてしまった私の家は、何にも変わらず、しかし淋しげな匂いがした。

どれだけ心配したと思ってるんだ、と。とても久しぶりに怒られた。
無事に見つかって良かった、と。とても久しぶりに抱き締められた。
おかえり、と。とても柔らかい声で言われた。

弱り切った情けない姿を見られるのは嫌だったけど、優しさに甘え大人しく抱かれていた。

心配かけてごめんなさい。
見つけてくれてありがとう。
ただいま。

たくさんたくさん、言いたい事があるの。
それなのに声が出ない。掠れた息の音が、妙に響いた。

ごめんね。ありがとう。大好きよ。
伝わればいいなあと、彼の胸に頬擦りする。
そうすると何故か淋しさの匂いが強くなって、私はいよいよ何もできなくなってしまった。
ほら、媚びを売るのも、カンタンじゃないでしょう?

じっとしていても、思考は止まない。
彼と出会った日のこと。初めてのケンカ。一緒に暮らし始めた日。家族が増えた日。一人で眠った夜。賑やかな音。哀しい色。
思い出すのは、ありふれた日常だった。

幸せだった、と。今なら胸を張ってそう言える。
そうして唐突に、私は死ぬんだと悟った。



――不意に。透き通った水がキラリと宙に散った。
ひと粒。また、ひと粒。
次々と降り注いで、視界を満たしていく。

そうするとまるで、ぷかぷかと浮いているようで。
ああ、私は水底へ飛び立てたんだ。


ありがとう、さようなら。
さいごのちからをふりしぼって、ひとこと、ないた。


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