残光のエリニュス


むかしむかしのお話です。
あるところに一人の女がいました。女は大きなお腹を抱えて微笑んでいました。自分の愛する人との子供をお腹に宿し、彼女は幸福の絶頂にあったのです。
愛する人は一生懸命働いており、たいへん忙しくてなかなか会えずにいました。女は彼に会えない寂しさで時々泣くこともありましたが、そんな時には決まって、女を慰めるように子供がお腹の中で動くのでした。女にとってお腹の子供が何よりもかけがえの無い存在でした。
妊娠してから数箇月が経ちました。男はいつになっても会いに来ません。週に一度の手紙すら届かなくなりました。彼の身に何かあったのかもしれないと女は心配になりました。しかし身重の女が彼に会いにいけるはずもありません。女はひたすら男を待ちました。

そろそろ臨月に入ろうかという時、やっと男が女の元を訪れました。女は彼の来訪を心の底から喜びました。彼に話したいことがたくさんありました。
お腹の子供はどうやら双子らしいということ。時々二人分の鼓動と自分の鼓動が重なり合って、とても不思議な感覚に包まれること。生まれてくるのはもうすぐだということ。名前の候補は既にいくつか決めてあるということ。もし生まれてくるのが男の子なら、お兄ちゃんの名前は、真っ白な心でいてほしいという願いを込めて「白」を意味する名前にしたいということ。もしよかったら、弟の名前を考えてほしいということ。
次から次へと笑顔で話し続ける女とは対照的に、男は重く沈んだ表情をしていました。どうしたの、と女が問う前に、男は思い切ったように口火を切りました。

「別れよう」

女には、その言葉の意味がまったく分かりませんでした。

「君以外に大切な人ができたんだ」
「彼女とはもう既に婚約していて……お腹に子供もいる」
「君が妊娠していたなんて知らなかった」
「残念だけど、君のお腹の子供を、僕の子供として認知することはできない」
「生活費だけは出すから、どうか別れてくれ」

男は彼女に反論を許さないように早口でまくし立てました。女はただ呆然と男の顔を見ていました。
お腹の中の子供たちは、たった今、父親を失ったのです。





少年の記憶にある母親は、とても美しい人でした。父親の顔は知りません。
少年には双子の弟がいました。肌の色はすこし違うけれど、顔や声はそっくりでした。瓜二つのふたりを見るたび、母は嬉しそうな、それでいて悲しそうな顔をしました。

少年は「白」を意味する名前を貰いました。いつも真っ白な心でいてほしいと思って名付けたのよ、と母は微笑んで少年に言いました。弟は「二番目」を意味する名前を貰いました。どちらも母が名付けたものです。
少年には弟が「二番目」と名付けられたことが不思議でなりませんでした。弟だから「二番目」なのでしょうか。それなら兄は「一番目」とするのが普通ではないかと思ったのです。「白」と「二番目」。双子の名前にしてはなんだか収まりが悪いような気がしました。けれど母は、弟の名前については一切話してくれませんでした。

女と幼い子供が三人で暮らしていくのは、その時代の風潮からするとたいへん難しいことだったのですが、何故か母はお金に困っているようではありませんでした。親子三人の生活は、豊かではないにしても貧しいわけではなかったのです。どこからかお金を貰っているのだろうかと疑問に思いましたが、そのことを問えばやはり母は情緒不安定になってしまうので止めておきました。

双子の兄弟が成長していくにつれ、母の顔には焦燥が滲んできました。
情緒不安定とでもいうのでしょうか、穏やかに微笑んだかと思えば、次の瞬間には激しく怒り狂って椅子を投げつけてきたり、大声で泣き喚いて少年に縋り付いてきたりするのです。母はもともと心の強い人ではありませんでしたが、最近は特に心の変調が激しいようでした。物を投げつけられて兄弟が怪我をすることが度々ありましたが、そうなると母はすぐさま正気に戻って少年を強く抱き締め、ごめんねごめんねと泣きながら謝るのでした。母が抱き締めるのはいつだって少年の方です。弟にはまったく目もくれず、兄である少年にばかり謝り続けました。

そのうち、兄弟それぞれに対する母の行動の変化が大きくなってきました。たとえば食事の時。少年の膳には山盛りのサラダがあるのに、弟の方にはほんの少ししかなかったりしました。時には弟の分だけパンを抜かれていたりします。少年が何度そのことを母に訴えても、母は「アスプロスは優しいのねえ」と微笑むだけで、その差別はなくなりませんでした。




ある日のことです。
溜息をついて物憂げに窓の外を眺めている母を元気付けるため、兄弟はそれぞれ母の似顔絵を描いてプレゼントすることにしました。
「かあさんは、よろこんでくれるかな」
弟が小さく呟きました。弟は、自分が母に嫌われているのではないかと不安に思っているのです。
「だいじょうぶだよデフテロス」
少年は笑って弟を励ましました。弟に対して冷たい振る舞いをする母も、この絵を見たらきっと喜んでくれるに違いありません。弟が描いた似顔絵はとてもよく描けていたからです。少年の描いた絵と比べてみても、弟の方が上手なのは明らかでした。これなら、いつも少年ばかり褒める母も、今回は弟のことを褒めてくれるでしょう。

「みて!かあさんの絵、ふたりでかいたんだよ」
少年は満面の笑みで、自分が描いた似顔絵を母に差し出しました。すると母は驚いたように「まあ」と呟き、それからとても優しく微笑みました。
「とっても上手ねえアスプロス。嬉しいわ、本当にありがとう」
少年は飛び上がるほど喜びました。ああよかった、ちゃんと受け取ってくれた。デフテロスのこともこうやって褒めてくれるんだろうな。少年には、自分が褒められたことよりも、これから弟が褒められることの方が嬉しかったのです。
自分の後ろに隠れてもじもじしている弟の手を引っ張って、母の前へ出しました。

「あの、これ……」
弟は顔を真っ赤にして、蚊の鳴くような声で言いました。そして震える手で似顔絵を母に差し出しました。
「あのねかあさん、デフテロスはすごいんだよ、ぼくなんかよりずっとずっと上手で、」
少年の言葉を遮るように、母が言いました。

「ほんとうに上手ねえ、『アスプロス』」

びり、びり、びり

母は弟の描いた似顔絵を受け取ると、それに目を通すことなく破り始めました。

「『アスプロス』、あなたはきっと将来偉い画家になれるわ」

一枚の紙は二枚に、二枚の紙は四枚に。紙はどんどん小さくなっていって、とうとうパズルのピースくらいの小ささになり、はらはらと母の掌から零れ落ちていきました。

「『アスプロス』、あなたが描いたこの絵は額に入れて飾っておきましょうね」

弟の描いた絵はもはや影も形もありません。ばらばらになって床に散らばりました。

「『アスプロス』、あなたみたいな優しい息子を持つことができて、わたしは幸せよ」

母は相変わらず優しく微笑んでいますが、弟に目を合わせることはありませんでした。母は最初から兄である少年のことしか見ていなかったのです。

「あなたさえいてくれれば他にはなんにもいらないわ、ねえ『アスプロス』」

少年はただそこに立ち尽くして、床に散らばった紙片を見ていました。ふと視線を部屋の隅に向けると、画用紙がたくさん積み上げられていました。紙には同じような絵が描かれています。
――あれは、かあさんの絵だ。
弟は、少年の知らない間に、何度も何度も母の似顔絵を練習して、何枚も何枚も描き直していたのです。弟の絵が上手に描けていたのは当たり前でした。納得がいくまであんなに描き直したのですから。
少年が弟の十分の一にも満たない労力で描いた絵があれほど褒められ、弟が少年の十倍以上の労力をかけて描いた絵があれほど無残に扱われる。
何がふたつの絵を隔てたのでしょうか。何がふたりを隔てたのでしょうか。

少年が顔を上げると、弟が泣いていました。声もなく、涙だけが頬を伝っています。どれだけ母に冷たくされても唇を引き結んで耐えていた弟が、泣いているのです。少年は生まれて初めて弟の涙を目にしました。





「お前に母と呼ばれる筋合いは無い!」

鋭く、激しく、憎しみに満ちた怒声が響き渡りました。兄弟は呆然と母の顔を見つめました。
弟は何も悪いことはしませんでした。ただ「母さん」と呼んだだけなのです。息子として当然の言動を、しかしこの母は許しませんでした。
「何が『母さん』だ!別の女が産んだ子の癖に!わたしの息子はアスプロスだけよ!」
母は少年の手を強く引いて、まるで穢れたものから守るように抱き締めました。
「そんな眼でわたしとこの子を見ないで頂戴!ああ、なんて醜い……!」
今まで見向きもされなかった弟が、初めて母の視線を一身に注がれました。けれどもそれは母が子に向ける自愛に溢れたものではなく、憎悪ばかりが支配する視線でした。母の胸の中で、少年は震えました。頭が真っ白になりました。もう何も考えることができません。

母は乱暴に弟の髪を掴むと、そのまま部屋の外へと無理矢理引きずっていきました。弟は悲鳴を上げることすらできず、母の為すがままにされています。弟が隣の部屋へ消えた後になって、やっと少年は茫然自失の状態から脱して母の後を追いかけました。
少年が隣の部屋に足を踏み入れると、ちょうど母がクローゼットに鍵をかけているところに遭遇しました。弟の姿は見当たりません。がたん、とクローゼットの中から物音がしました。あの中に誰かがいます。いったい誰が?――考えるまでもありません。弟はクローゼットの中に閉じ込められたのです。狭くて息苦しい空間に、たったひとりで。
「やめて母さん!ねえ、やめてよ!」
少年は必死で母の足にしがみつき、母を止めようとしました。しかし母は狂気に取り付かれたかのように笑いながら、ぶつぶつと呟いています。

「アスプロス、教えてあげるわ。この子は、『あの人』が別な女に産ませた子供なの。わたしの息子ではないの。わたしの息子はあなただけなの。この子はとっても汚らわしくて、浅ましくて、醜いの。
だって、あなたも見たでしょう?この子の眼を。わたしたちのことを恨むような眼だったわ。本当は実の親の元で育てられたいとでも思ってるんだわ。見下してるのよわたしを、『あの人』に選ばれなかったわたしを!
わたしは別な女の子供を押し付けられて!死ぬほど嫌だったのに今まで耐えてきた!でも、もう我慢できない!」

頭を抱えながら甲高い声で叫ぶ母の目は赤く充血していて、少年は母に恐怖を抱きました。そんな少年の恐怖を察したのか、母は急に猫なで声になって少年を優しく抱き締めました。
「……あぁ、ごめんなさいねえアスプロス。あなたを怖い目に遭わせるつもりは無かったの。でもこれで邪魔なものはなくなったから安心してね。今日の夕ご飯はあなたの好きなものにしましょうね」
「母さん……母さん!デフテロスはどうするの!?閉じ込めて、それでどうするの!?出さなかったら死んじゃう!出してあげてよ!デフテロスはぼくの弟なのに!」
「……弟?」
ふ、と母は抱き締める力を緩めて、必死に訴える少年の顔を覗き込みました。とてもとても不思議そうに。

「変ねえアスプロス、あなたに弟なんていないわよ?」

たった今クローゼットに押し込んだ“モノ”が何であるかを、母はよく分かっていました。あれは人ではなく、ただの廃棄物。呼吸をして動くというだけの、ただの廃棄物。
少年は力なくその場に座り込みました。母の言葉が遠く聞こえます。
「あぁ、そうだわ、この部屋は危ないから、しばらく鍵をかけて入れないようにしておきましょうね。あと一週間もすれば静かになるから、ちゃんと言いつけを守ってね」


――ねえ、母さん。ぼくたちは……デフテロスとぼくは、双子なんだよ。
同じ日の同じ時間に、同じ母親のお腹から生まれてきた双子なんだよ。
母親は、あなたひとりしかいないんだよ。



少年の声は、狂気に支配された母には届きませんでした。





弟がクローゼットの中に閉じ込められてから三日目の夜、少年は物置小屋に隠されていた鍵を盗み出し、弟の元へと駆け出しました。三日間ずっと、弟を救い出すために奔走していたのです。鍵を壊すことは簡単でしたが、その際に生じる音で母に気付かれてしまう可能性があったので実行に移すことはできませんでした。母への恐怖で何もできなかった最初の一日、鍵のありかを突き止めた二日目、そして三日目の今日。弟の体力も三日が限界でしょう。一刻も早く弟を救い出し、母の手が届かないどこかへ逃がさなければなりません。
少年にとって、母親よりも弟の方が遥かに大事でした。

「デフテロス……!」
クローゼットの扉を開けると、そこにはぐったりとした弟が横たわっていました。三日もの間飲まず食わずだったのですから、相当衰弱していることは確かです。
「……にい……さ……」
弟の唇が微かに動き、「にいさん」という形をとりました。少年のことを兄だと認識できているようです。まだ手遅れではないことに安心しそうになる心を抑え、少年はゆっくりと弟に語りかけます。
「逃げよう、デフテロス。このままじゃお前が死んでしまう」
「で、も……かあさん、は」
「母さんはもう……駄目だ。心が完全に壊れてしまったんだ。ぼくたちにはどうすることもできない」
弟の目が悲しげに細められました。弟はあれだけ虐げられておきながら、まだあの女のことを母と慕っているようでした。少年はそれをもどかしく思いながらも、弟の心を否定するようなことは言いませんでした。
「とりあえず外に出よう。これからどうするかはその後で――」


「おまえたち、なにをしているの?」


ぞっとするような冷たい声が背後から突き刺さりました。少年が声を上げる間もなく、闇の中から手が伸びてきて、弟の体を壁に強く叩きつけました。弟の声にならない悲鳴が空気を震わせました。
「『二番目』……優しいアスプロスを騙して逃げようとするなんて!やはり、餓死させるのではなくて、あの時すぐにでも殺してやるべきだった!あぁ、殺してやる!殺してやる!今ここで殺してやる!」
母の手が、弟の首にかけられました。強く強く強く強く絞めて、早く早く早く早く殺そうと躍起になりました。弟の体は何度も痙攣して酸素を求めます。

窒息よりも先に首の骨が折れて死ぬのではないかと思われたその刹那、不意に首に掛かっていた力が緩みました。母の手が首を離れ、体ごとずるりと凭れ掛かってきます。弟は何が起こったのか分かりませんでした。
霞む視界の中で最後に捉えた映像は、床に散らばる花々と水、そして血の付いた空の花瓶を抱えながら肩で荒く息をする『兄』の姿でした。





目覚めた弟は、隣に兄の気配を感じました。視線だけを動かして兄の背中を見つめます。
「あ、デフテロス、起きたか?」
視線に気付いた兄がこちらへ振り返って微笑みかけました。まるで何もなかったかのような笑顔でした。
「兄さん……ここは」
「ここか?……俺もよく分からない。でも、あの家じゃないことは確かだ」
だから安心するといい。そう言って、兄は弟の頭を優しく撫でました。母さんはどうしたの、とは訊けませんでした。そのことを尋ねたら、もうこの優しさには出会えないような気がしたからです。

あの時自分のほうへ崩れ落ちてきた母の体がぴくりとも動かず、頭から赤い血が流れ出ていたことは忘れようと思いました。そして、そのことだけでなく、自分に母がいたということも忘れたほうがいいのかもしれない、と思いました。
自分はあれほど母の愛を求めていたはずだったのに、今は母に対して何の感慨もありませんでした。弟には兄がいてくれさえすればそれで充分だったのです。

朝陽がふたりの顔を照らしました。辺りを見回して初めて、自分たちが大きな木の下にいることに気がつきました。こんな場所は記憶にありません。そもそも、弟はあの家から出たことが無かったので、外にいること自体が初めての経験でした。清潔で広々としているはずなのに何故か落ち着かない、窮屈に感じたあの家の中とはまるで正反対です。青い空は窓枠に遮られることなくどこまでも遠く広がっています。大きく息を吸うと、澄んだ空気で肺がいっぱいに満たされました。
これが外の世界なのです。

「デフテロス、俺たちはこれから、聖域に向かおうと思う」
「聖域?」
「そう、聖域。俺も話に聞いたことしかないんだけど……そこにはアテナの聖闘士が集まっていて、地上の平和を守っているらしい」
「アテナの、聖闘士」
「『地上の愛と平和のために』……その志を同じくしている限り、きっと差別なんて存在しないんだ。俺たちは一人の戦士として認められ、誰もが平等に星の加護を受けることができる」
「兄さんとずっと一緒に……?」
「いられるさ。聖域なら」

弟の顔がみるみるうちに輝きました。それを見て兄も笑います。
綺麗な空気を吸えるだけで満足なのに、それ以上の場所があるとは考えもしなかったのです。兄さんとずっと一緒にいられる。あぁ、なんて素晴らしい場所だろう。弟の胸は期待で膨らみました。
「目的地も決まったことだし、まずは腹ごしらえしないとな」
兄の言葉を聞いて、弟はやっと自分が三日間何も食べていないことに思い至りました。聖域への憧れに比べたら、この空腹など問題ではありません。
立ち上がって大きく伸びをした兄は、弟へ手を伸ばします。弟もまたその手を取り、まだ見ぬ世界に足を踏み出すために立ち上がるのでした。


――彼等の行く先に、何が待ち構えているのかも知らずに。



(始まりの時から既に狂っていたなんて信じたくない)





2010/07/11

エリニュス:復讐を司る三女神。親殺しや偽誓の罪に対して罰を下す。
「止まない者」アレクト、「復讐する者」ティシポネ、「嫉妬する者」メガイラから成る。


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