宵闇のアトロポス


少年はとても幸せな家庭で育ちました。彼の住む村はピレネーの堅牢な山々に囲まれ、農業を生業とする村民がほとんどでした。村長としての人望も厚い父と優しい母、おせっかいな姉と内気な妹。これ以上ない理想の家族です。
父と母は熱心な基督教の信者だったので、少年も幼い頃から毎日神に祈りを捧げていました。神はみな平等に我らを愛し救ってくださる――その教えを胸に日々を生きていました。
少年は何不自由なく暮らしていましたが、その幸せはある日を境に永遠に失われることとなりました。

その日、少年は母の言いつけで山ひとつ向こうの街へお遣いに行っていました。街には、村ではなかなか手に入らない珍しい布が売られています。その布を買ってくるようにと言付かっていたのです。
用事を済ませた少年は、母の喜ぶ顔を早く見たくて家路を急ぎました。買った布で新しい服を作ってくれると聞いていたので、とても楽しみでした。きっと母だけでなく姉や妹も喜んでくれることでしょう。

山を越え、村を見下ろせる高台に出た時、少年は我が目を疑いました。
村が燃えています。ごうごうと恐ろしい音を立てて、畑が、家屋が、命が、消えてゆきます。少年の家も燃えていました。人々の悲鳴が聞こえます。そしてその人々の命を狩り取る者たちの怒号が聞こえます。
嘘だと思いました。こんなことがあってたまるかと。けれども村は蹂躙され続けました。家の玄関の前に倒れる村人が見えました。逃げようとして背中から切り殺されたのでしょう。悲鳴が少しずつ小さくなっていきました。村の人々の命が根こそぎ奪われていくのを、少年はただ呆然と見ているしかありません。

おい、あそこにまだ子供がいるぞ!――その声に少年ははっと我に返りました。村を襲った賊が少年の姿を見つけたのです。……このままでは、殺される。逃げなければ。少年は瞬時にそう判断すると、持っていた布を捨てて駆け出していました。
もしかしたら、村にはまだ生き残っていた人がいたかもしれません。少年の家族の中にも運よく逃げ出せた者がいたかもしれません。しかし少年は振り向きませんでした。
振り返れば、殺される。戻れば、殺される。逃げなければ、殺される。
死にたくないという一心でした。本能に突き動かされるように、ただただ走りました。息継ぎもできないほど必死に走りながら、少年は絶望にも似た思いを抱えていました。
彼はやっと気付いたのです。この世界に神などいないということを。



それからの少年を待ち受けていたのは、絶対的な孤独と憎悪でした。
殺してやる、殺してやる、殺してやる。村を襲い、少年の人生を変えてしまった人間全てを殺してやる、と心に誓いました。少年一人の力では到底叶うはずのない誓いです。しかし憎悪に支配された少年を止める者はいませんでした。
ひたすら己を痛めつける日々が始まりました。戦うための手段を得るためには強くなるしかない、強くなるためには自分を痛めつけなければならない。根拠もなくそう思い込んでいました。

世話してくれる人間はいません。食べるものも着るものもありません。少年はひとりきりで生きなければなりませんでした。山野を駆け、獣を狩り、飢えをしのぎました。時には人里に出て衣類や食料を盗むこともありました。そうしなければ生き延びることはできなかったのです。少年の心は獣と同じでした。
少年は銃もナイフも持っていませんでしたから、武器となるのは自身の身体だけです。獣のように生きる日々を重ねるうちに、少年は身体そのものを研ぎ澄ませて刃にすることを覚えました。その刃に斬れぬ物はありません。いつしか少年の刃は、岩をも両断するほどに鋭くなっていました。



あの地獄のような日から一年ほど経ったころ、少年は山深い場所にぽつんと建つ一軒の小さな家を見つけました。少年にとって人家は搾取の対象です。なんの躊躇いもなく家の中へ忍び込みました。人の気配はありません。どうやら住民は出かけているようです。
少年は一目散に、蓄えてあった食糧にかぶりつきました。ここしばらく生肉と木の実しか食べていなかったので、久しぶりの「まともな」食事だったのです。がつがつと食料を貪るのに夢中で、その家の住人が帰ってきたことに気付くのが遅れてしまいました。

「あらぁ」
戸口には、年を取った老婆が杖をついて立っていました。少年は素手で果物を掴んだまま硬直しました。人家へ忍び込んでも、今までは決して見つからなかったのです。初めての事態に狼狽しました。
目が合い、老婆は少しばかり驚いたように首を傾げました。
「……お腹が空いてるのかい?」
約一年間、人との会話をしてこなかった少年は咄嗟に言葉が出ませんでした。ただ、こくりと首を縦に振るだけでした。老婆はそれだけで何かを察したようで、うんうんと深く頷きました。
「なら、もっとましなものを食べるべきだよ。あたしが料理してあげるからね、ちょっと手伝っておくれ」
そう言って少年に背を向け、厨へと向かいました。少年は目を見開いたまま動けません。
「何をやってるんだい、さっさとこっちにいらっしゃい」
その言葉に引き寄せられるように、無意識のうちに少年は「はい」と返事をしていました。

老婆は少年の眼光の異常さに動揺するそぶりは見せませんでした。住む場所がないのならここを家にすると良い、と優しく言いました。
しかし少年は容易く気を許しませんでした。この老婆も、村を襲った賊の仲間かもしれないと疑いを持っていたのです。しかし、ここには食料とあたたかな寝床があります。仮に老婆が賊の仲間だったとしても、「その時」が来るまでは利用できるだけ利用することに決めました。
老婆はそんな少年の思惑などお見通しでしたが、何も問わずに微笑んでいました。

少年は最初のうちこそ警戒心を剥き出しにしていたものの、老婆との生活の中で次第に「人間」としての優しさを取り戻していきました。この優しい老婆を信じ始めていました。
老婆は「語り部」と呼ばれる類の人間でした。神話や歴史、伝承などを口誦で語り伝えることを職掌とする者です。老婆は少年に多くの話を聞かせてやりました。その話の中には、地方に伝わるものだけではなく、世界中のありとあらゆる伝承がありました。どれも心が惹かれる話ばかりでしたが、少年が特に気に入ったのは、聖剣を携えて国を治めた王の話と、仏法の守護神とされる阿修羅の話です。目を輝かせながら話に聞き入る少年を見ながら、老婆はいっそう微笑みました。



しかし、少年には束の間の平穏すらも許されませんでした。
老婆との生活を始めて数箇月が経った日のことです。老婆のために獣を狩りに出かけていた少年は、近くの集落で火の燃える臭いを嗅ぎ付けました。耳を澄ませると、微かに悲鳴のようなものが聞こえます。

――騙された。

少年は怒りに駆り立てられました。やはりあの老婆は、少年の村を襲った賊と密通していたに違いありません。逃げ出してきた少年の居場所を教え、ついでに近くの集落を襲わせようとしたのです。あの時に抱いた疑いを消さなければ、こんなことにはならなかったでしょう。
ぎり、と唇を噛んで少年は走りました。老婆に真実を問いただすために。

老婆の家に着いた時、家の中には誰の気配もありませんでした。怒りを隠そうともせず庭へ足を踏み入れると、そこには今にも虫の息の老婆が倒れていました。背中から斬られたようでした。老婆はとうの昔に逃げ出していたと思っていた少年は狼狽しました。もしや賊どもと仲間割れでもしたのだろうかと疑念を抱きながらも、老婆の体を抱き上げます。老婆は息も絶え絶えに少年を見上げました。ひゅうひゅうと空気が肺から漏れます。掠れた声で言いました。

「あんたが、無事で、よかった」

そうして老婆は死にました。微笑みながら死にました。その微笑みには、少年への慈愛がありました。
……老婆は、少年を騙してなどいなかったのです。心の底から少年を慈しみ、幸せに生きるようにと願ってくれていたのです。
少年は今の今まで老婆を疑っていました。賊どもと密通していたのではないか、と。それはあまりにも浅はかな疑念でした。本当は、信じていたかったのです。絶対的な孤独と憎悪ばかりの日々を捨てて、人を信じて生きる道を選びたかったのです。けれども少年は最後まで老婆を信じぬくことができませんでした。
頬に一粒の涙が流れました。ぽたり、と雫が地面に落ちます。どこまでも無表情に涙を流していました。自分には人を信じる資格はないのだと悟りました。少年の心はからっぽでした。

老婆の家を出て、少年はふらふらと、賊に襲われている最中の集落に向かって歩いてゆきました。燃える炎が皮膚を焦がしますが、眉ひとつ動かしません。
おい、このガキ、もしかしてあの時の生き残りか――頑強な男が4人ほど少年の前に立ち塞がりました。賊の一味でしょう。薄汚い魂がそのまま現れたような醜い容貌でした。体格はゆうに少年の何倍もあります。
生かしておくな、殺せ――そんな叫び声と共に、男たちが一斉に少年へと襲い掛かります。少年は自分の掌をじっと見つめ、やがて緩慢な動作で右腕を振り上げました。ぼとぼと、ぼとり。4人分の肉の塊が地面に転がりました。血しぶきが頬を汚しましたが、少年は相変わらず無表情のままでした。

肉塊を踏み付けて前に進みます。村人を虐殺していた賊どもが、たったひとりの子供に恐怖していました。悲鳴を上げながら逃げようとしても、少年の振り下ろす刃が獲物をとらえれば終わりです。
無造作に人間を屠る少年を見て、何者かが恐怖の叫びを上げました。あれは人間じゃない、ばけものだ、と。

――少年が、真の意味で「修羅」となった瞬間でした。





「賊の討伐……ですか」

教皇シオンが地図で指し示した場所は、スペインの山奥にある田舎の村でした。射手座の黄金聖闘士アイオロスは、その命令に首を傾げました。いくら賊の悪さが過ぎるといっても、わざわざ黄金聖闘士である自分が行かずとも事足りる件であるように思われたのです。
アイオロスの疑問を察した教皇が言葉を重ねました。

「それだけではない。本命の仕事はまた別だ」

教皇の説明はこうでした。星が、新たな黄金聖闘士の誕生を告げている。宿命を背負ったその者はまだ幼く、ひどく不安定な小宇宙である。もし小宇宙が暴走すれば、白銀以下では返り討ちにあってしまうだろう。それゆえに、同じ実力を持った黄金聖闘士が迎えにいかなければならない……説明を受けてアイオロスは頷きました。

「分かりました。我らの同胞、必ずやお連れして参ります」

目的地への道中、アイオロスは、ひときわ大きな小宇宙が弾けては消えることを繰り返しているのを感じていました。シオン教皇の言う「小宇宙の暴走」がこれに当たるのかもしれません。
ざわつく胸を抑えて目的地へと辿り着いた時、彼は言葉を失いました。小さな集落があるはずのそこは焼け野原と化し、おびただしい量の死体が転がっていたのです。

そして、アイオロスはひとりの少年を見つけました。全身血まみれです。その姿を見るや、アイオロスはこの場所で何が起こったのかを瞬時に理解しました。予期していた最悪の事態でした。血はすべて、少年が殺めた人間の血なのでしょう。
不意に少年と目が合い、アイオロスは戦慄しました。徹底的な無表情でした。殺気も敵意もない代わりに、生きた人間の気配すらも感じられません。少年は生きながらに死んでいました。

「俺の名はアイオロス。……君は」

果たしてこの少年に自己紹介が通じるのか定かではありませんでしたが、アイオロスは敢えて問い掛けました。少年は無表情で彼をじっと見つめ、しばらく何か考えるそぶりを見せた後で、「シュラ」と答えました。
「シュラ?」
問い返すと、小さく頷きました。アイオロスはそれが偽名であることに気付いていましたが、あえて何も問わずにいました。アイオロスの知る聖闘士の中には偽名を名乗る者が多くいましたが、これほど幼いのに名を捨てなければならなくなった少年の境遇に眉を顰めました。
シュラ――それは遥か遠くの国に伝わる鬼神の名でした。少年はたった今、本当の名を捨てて鬼になることを決めたのです。

「ならばシュラ、俺と共に聖域へ行く気はないか」

アイオロスは右手を差し出して返答を待ちます。少年は差し出された右手に目をやり、それから自分の血まみれの手に視線を落としました。こんな醜い手で、彼の手を取ることが躊躇われたのです。すると、アイオロスは「大丈夫だ」と笑いました。そのまぶしい笑顔は少年にとって未知のものでしたが、どうしようもなく惹かれてしまいました。このひとなら、今度こそ信じられるかもしれないと思ったのです。
太陽のような笑顔のまぶしさに目を細めながら、少年はアイオロスの手を取りました。



(そして少年は、その太陽をも手に掛ける)





2010/05/03

アトロポス:運命の三女神モイライの一柱。(紡ぐ者クロト、割り当てる者ラケシス、断ち切る者アトロポス。

【BGM】 phantom/福山雅治


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