黎明のクロト


花街と呼ばれる場所で少年は育ちました。親が死んで引き取られてきたのか、それとも親に売られてきたのかも分かりません。物心ついたときから、きらびやかな世界だけが彼の全てでした。
少年はたいそう美しい顔立ちをしていたので、美の女神の名をとって「アフロディーテ」と呼ばれました。そう呼ばれるうちに、親が付けた元の名は記憶の隅で薄れていきました。しかし、女の名で呼ばれながらも、少年は自分が男であるということは決して忘れませんでした。

裕福な人間の中には、特殊な趣向――稚児趣味を持つものが少なくはありませんでした。少年は幼い頃から客をとるようになりました。女用の着物を着せられた彼は少女にしか見えません。客は彼を見るなり、注文と違うじゃないかと怒りましたが、彼の着物を剥くと途端に上機嫌になりました。そこには紛れもなく少年の美しい肢体があったからです。
そうやって少年は毎夜、太い指に身体を弄ばれ続けました。けれども少年はそれを何の感慨もなく受け入れていました。悲しいとも、苦しいとも思いませんでした。物心ついたときから花街で生活していた彼にとって、身体を売ることは当たり前の日常だったのです。同じような境遇に置かれた子供たちが泣きながら家族を恋しがるのが、彼には不思議でなりませんでした。

少年は、部屋の窓から星を眺めるのが好きでした。「仕事」にも自分自身にも無関心だった彼が唯一心惹かれるもの、それが星空だったのです。きらりきらりと瞬く星に比べると、花街の人工的で無機質なきらびやかさが虚しく思えました。
星空を見ていると、自分には帰る場所があるような気がしてなりませんでした。花街ではなく、もっともっと、尊い場所。そこは星空の中にあるのか、それとも別な世界にあるのか、少年には分かりません。

少年がとる客の中には、稚児趣味だけでなく更に危うい趣向を持つ者もいます。
身体に目立つ傷がつくこと以外なら少年は大抵受け入れましたが、事の最中に首を絞めてくる客には困りました。最初のうちはまだ発作的な衝動だったため数秒で済みました。しかし回を増すごとに首を絞める時間は長くなり、意識を失くすこともしばしばありました。

その日の夜も、少年は寝台の上で首を絞められていました。ぎりぎりと容赦なく締め付けられ、白くて細い喉が酸素を求めて痙攣しました。瞳は次第に虚ろになっていきます。このまま抵抗せずにいれば、きっと死ぬでしょう。
霞みゆく視界の中に、寝台の脇に生けられた白薔薇の花瓶がありました。自分もあの薔薇のように、手折られてそのまま枯れてしまうのです。美しい顔に生まれてきたことを呪いました。もっと自分が醜ければ、客を取ることもなく下働きで一生を終えていたはずです。このようにあっけない最期を迎えることもなかったでしょう。

朦朧とする意識の中で、彼は死について考えました。
――こんなところで、しぬのだろうか。
嫌だ、と彼は頭の中で反芻します。帰らなくてはならない場所がある。出会うべき人がいる。
――こんなところで、しにたくない。

どさり、と音がしました。肺が新鮮な空気を取り込んでいました。全身で呼吸しながら、たった今何が起こったのかを確認しようと辺りを見回します。
今の今まで首を絞めていた男が倒れていました。ぴくりとも動きません。呼吸も止まっていましたから、死んでいるのは容易に分かりました。けれど、なぜ。寝台に横たわる男の死体を呆然と見つめた少年は、死体の胸に真っ白な薔薇が突き立っていることに気付きました。それは寝台の脇にあった花瓶に生けてあったものです。無意識のうちに薔薇を手に取って突き刺していたに違いありません。男を殺したのは少年自身でした。

白薔薇はゆっくりと客の血を吸い上げ、白を真紅へと変えてゆきます。ただの薔薇がそんなふうに血を吸い上げるなど聞いたことがありません。もしかしたらこれは自分の力なのかもしれないと思い始めました。なぜなら、身体の中で不思議な力が滔々と湧き出すのを感じていたからです。
不意に少年は顔を上げました。……誰か来る。その直感は当たっていました。部屋の空間がぐにゃりと歪み、そこから人が現れたのです。

「……やはり、ここにいた」

その人は、優しく微笑んで言いました。男の死体になど目もくれず、まっすぐに少年の前に跪きました。少年は口を開けたまま言葉を発せずにいました。その人がとても美しくて声が出なかったのです。
今までたくさんの人々から口癖のように「おまえは美しい」ともてはやされてきましたが、少年は自分が美しいなどと思ったことは一度もありませんでした。何を理由に「美しい」と呼ぶのかを知らなかったのです。目鼻立ちが整っていれば美なのでしょうか。桃色の唇をしていれば美なのでしょうか。けれども今、やっと分かったような気がしました。この人こそ「美しい」と呼ぶに相応しい。美しさとは、この人そのものを言うのだ。少年にとっては、自分よりも何倍も何十倍も、それこそ天と地ほどに、目の前にいるそのひとが美しく思えたのです。

「私の名はサガ。君は?」
「……アフロディーテ」
「アフロディーテ? 美の女神の名だ……よく似合っているね。君はとても美しいから」

少年の本当の名はとっくに忘れていましたから、とっさに口をついて出たのは通り名でした。偽名であることにそのひとが気付いたのかは分かりません。しかしそのひとは「美しい」と言いました。アフロディーテという名を、そして少年自身を。
差し出された手に恐る恐る触れると、その人はよりいっそう柔らかく微笑みました。つられて少年も微笑みます。それは、客に見せる作り物めいた笑みなどではなく、心の底から溢れ出す優しい表情でした。

――その出会いは、神との邂逅に近いものがありました。何よりも強い輝きを放つ絶対的な存在。少年にとっての「神」とはその人ただひとりでした。その人が信じるものだけが真実であり正義なのです。
彼は、最後の砦として十二番目の宮を守護します。教皇の間へ続く道に咲き乱れる薔薇は忠誠の証です。……すべては、からっぽな命に意味を与えてくれた人の為に。



(揺るぎない、鮮やかな証明がそこにある)





2010/03/20

クロト:運命の三女神モイライの一柱。紡ぐ者クロト、割り当てる者ラケシス、断ち切る者アトロポス。


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