拝啓あの日のわたしたち、ふたりは今とても幸せです。


・聖戦後復活設定です
・先に「カタストロフィーはまだ早い」を読んでおくと分かりやすいかも



2年ぶりに訪れた双児宮は静寂と共に俺を出迎えた。大理石の柱と床で構成された殺風景な空間は温度を持たない。俺の足は自然と、双児宮の離れへと向いていた。そこには俺たちが幼い頃から生活してきた小さな部屋がある。窮屈な聖域の中における数少ない心安らげる場所だった。
部屋へと繋がる扉の前まで来たところで、不意に服の裾を引かれた。俺の背後で影のようにぴったりと付いてきていたデフテロスが、遠慮がちに俺を引きとめようとしたのだ。
「デフテロス?」
首を少しだけ後ろにやって声をかけると、デフテロスは俯いて不安そうに視線をさまよわせた。何か気になることでもあるのだろうか。
「あ、あの、兄さん。やはり……この部屋に入るのは、止めないか」
搾り出されるように呟かれた声は、悲しげな響きを含んでいた。デフテロスは俺に対してあまりはっきりと自分の意思を主張しない性格だから言葉自体は控えめなのだが、服の裾をぎゅっと掴む指は微かに震えている。扉の前まで来たというのに、どうしてもその先には行きたくないらしい。

「今になって一体どうしたんだ?」
振り返りデフテロスと真正面から向き合う。和解後の俺たちはなるべく互いの目を見て話すことを心がけていた。長年の習慣から今でも時々弟の視線に恐怖を感じてしまうことはあっても、その視線から逃げないよう自分に言い聞かせて。ちゃんと目を見てこなかったから相手の気持ちに気付けず誤解が生じ、あの時のようなことが起こってしまったのだ。
俺は精一杯の優しさを込めてデフテロスを見つめる。いつもならすぐさま俺の視線に応えてくれるはずなのだが、あろうことか今日はデフテロスの方から視線を外された。……まさか。そんなはずはない。

「デフテロス」
「……」
「……」
「……デフテロス、」

デフテロスからの返答と促すためにもう一度名を呼ぶ。明確な理由が得られなければ納得できない。弟の頬に両手を添えて顔をまっすぐ俺に向かせる。数秒間の逡巡の後、デフテロスはやっとためらいがちに目を合わせた。
「……この部屋の中を見たら、兄さんは悲しむかもしれない」
ごくごく小さな声で呟かれた言葉は俺に驚きをもたらした。
「悲しむ?俺が?」
デフテロスは苦しげにゆっくりと首を縦に振る。
「何故?」
「……それは」

後に続く言葉を言いかけてデフテロスの唇は再び強く引き結ばれてしまった。言いたくない、という意思の表れだ。
もしデフテロスの言ったことが本当ならば、この部屋の中には俺が悲しむような何かがあるというのだろうか。

頭の中に沈んでいる2年前までの記憶を辿る。小さな天窓から零れ落ちる月の光を唯一の明かりとしたあの夏の日も、身を寄せ合って互いの体温を感じたあの冬の日も。俺はこの部屋の中にだけは、決して弟への疑いの心を持ち込まないようにしてきたはずだった。デフテロスが目を閉じて眠りにつくこの場所は何よりも心が落ち着く場所だった。ここに纏わる記憶には悲しみの感情など見当たらなかった。

「俺は大丈夫だデフテロス。お前が心配するようなことなんて何もない」
安心させるために優しく笑って見せるが、デフテロスは未だ不安を打ち消せない目で見つめてくる。俺は構わず扉に手をかけた。ギィィ、と軋んだ音を立てて開け放たれた扉の向こう側の景色が目の前に広がる。天窓から差し込む昼の光の眩しさに目を細め、そして。

「――!」
俺は呼吸を止めた。
それほどに衝撃が大きかったのだ。扉の先に何があったとしても動じないように覚悟していたつもりだった。だが、「何かがある」と覚悟することに意味はなかったのだ。むしろ逆効果だった。
……なぜなら、その部屋には「何も無かった」からだ。ベッドも、本棚も、クローゼットも、文机も、花瓶も、何もかも。かつてそこにあったはずのものは全て取り払われ、空虚な空間がそこにあった。
まるで別の部屋に来たような感覚だった。これは俺の知っている場所ではない。2人がかつて過ごしていた、あの狭くて広いあたたかな部屋はどこへ行ってしまった?何故こんなふうに変わってしまった?俺は呆然とその場に立ち竦んだまま動けなかった。「何も無い」という空虚さがこれほど大きな喪失感をもたらすとは思いもしなかったのだ。

「すまない、兄さん」
背後でデフテロスが悲しげに呟いた。
「これは俺がやったのだ。2年前、あの事件が起こってから……俺はカノン島へ行くと決めて、聖域を出る時に、すべて……すべて、燃やしてしまった」
俺は勢いよく振り返ってデフテロスを見た。デフテロスは泣いていなかった。ただ、静かに空っぽの部屋を見つめるその瞳は深い悲しみに沈んでいた。

――あぁ、悲しいのは俺なんかじゃない。誰よりも何よりも、一番悲しみを受け取っているのはお前の方だろう、デフテロス。
弟は凶星の者として忌み嫌われながらも、俺と過ごす日々を幸せだと言ってくれていた。優しいなアスプロス、と微笑んで。今なら分かる、あの微笑みは紛れもなくデフテロスの本心から生じるものだった。弟は心から俺を信じ、慕ってくれていた。
……そして、その信頼を裏切ったのは俺なのだ。俺は「あの時」、スターヒルから落ちる弟の瞳に涙が浮かんでいたのを見た。だがその涙に対して俺は何の後悔も憐れみも感じなかったのだ。潰えた夢への絶望が感情を麻痺させた。弟などただの道具、計画を成功させるための駒にすぎないと、愚かな野望を成就させようとする心に支配されていた。

信じていた兄からの裏切りを受けて、その瞳はどれほどの涙を溢れさせただろう。
共に生きてきた半身を殺し、思い出のすべてを自らの手で葬り去ると決断したその心は、どれほどの痛みと悲しみと孤独を抱えなければならなかったのだろう。
言葉が出てこなかった。俺はきっと今すぐにでも泣き出してもおかしくないような情けない顔をしているに違いない。だが今、本当に泣きたいのはデフテロスのはずだ。空っぽの部屋の中に過去の記憶を見出すことで最も傷つくのは、他でもないこの弟なのだから。
俺はデフテロスに何をしてやれる?そもそも、弟からすべてを奪い取った俺が何かを「与えてやる」なんておこがましい話じゃないか?

……ふと、いつだったか読んだ「家族との正しい付き合い方」とかいうタイトルの本に書かれていた一文が頭をよぎった。たしか……「家族とのコミュニケーションにおいて一番大切なのは」、

――まず、自分から歩み寄ることです。

「デフテロス!」
次の瞬間、俺はデフテロスの両手をぎゅううっと握って叫んでいた。「自分から歩み寄る」ために。
「行こう、デフテロス!」
「に……兄さん?」
案の定、デフテロスは俺の剣幕に驚いているようだった。今の今まで泣きそうな顔で押し黙っていた兄がいきなり、どこへ何をしに行くのかを一切語らずに「行こう」とだけ言うのだから戸惑うのも無理はない。だが俺には迷っている暇などないのだ。
「いいから行こう!」
問答無用でデフテロスの手を取ったまま走り出し、空っぽの部屋の背を向けた。



デフテロスを連れてたどり着いた先は花畑だった。地肌がむき出しになっている荒涼とした風景が多い聖域で、こういった緑の多い場所は珍しい。
花畑に着くや否や、俺は繋いでいた手を離して一人で芝生を踏みしめ歩いた。デフテロスはどうしたらいいのか分からないらしくその場に突っ立ったままだ。戸惑いの視線を背中に感じながら一帯を歩いて花を探す。桃、黄、青、色とりどりの花が一面に咲き乱れる中で、俺は真っ白な花を見つけた。周りの鮮やかな色彩たちに埋もれてしまいそうになりながらも可憐さを失わない小さな花だ。たぶんそれは名も無いただの雑草のひとつなのだろう。だが俺はあえてその花を選び、一輪だけ摘み取った。

「デフテロス。これを、お前に」
差し出された小さな花を前にして、デフテロスは何度もまばたきを繰り返した。
「……俺に?」
「ああ」
「……いいのか?」
「勿論だ」
デフテロスは野の花に過ぎないそれがあたかもこの世にひとつしかない宝物であるかのように、震える指で花を受け取った。花を一心に見つめる瞳はきらきらと輝いているようにも見えた。俺は静かに言葉を紡いだ。

「……一度空っぽになってしまったあの部屋は、もう元には戻らない。過去は過去だ。俺たちが過ごした日々の痕跡は永久に失われてしまった」
デフテロスが顔を上げた。視線が重なる。
「その原因を作った俺が言っても何の説得力もないかもしれない。だが聞いてほしい、信じてほしい……これからは、俺たち2人で、新しい『思い出』を作っていかないか」
思い出という響きの中には、確かな実感と温かみがある。分かり合うことのできなかった過去の全てを「これから」に詰め込んで、デフテロスと共に思い出を作りたい。

「この花は、始まりの花だ。これからの俺とお前にとって、一番最初の思い出だ」
デフテロスは俺を見、それから掌の中の白い花を見、そしてまた俺を見た。確かめるように、刻み付けるように。その動作を経てやっと俺の言葉を真実として受け取ったようだった。デフテロスの瞳から透明な雫がぽろぽろと零れた。悲しいから泣いているのではない。それは、悲しみも苦しみも痛みもすべて受け止めた先にある、幸せの涙だった。
そう、今なら分かるのだ。デフテロスは心から俺を愛し、俺と共に生きてゆけることを幸せに思ってくれていると。
「……ありがとう、にいさん」
微笑みと共に呟かれた感謝の言葉。思わず目頭が熱くなった。

――これほどまでに愛されている俺が、どうして弟を愛さずにいられよう?

返事の代わりにデフテロスの頭を撫でた。デフテロスの手に握られた白い花は幸せの涙を吸い上げて、更にその美しさを増した。
今まで散々間違いを重ねてきた俺たちは、きっとこれからも嫌になるほど間違い続けていくだろう。けれども俺たちはやり直すことを許されている。何度も何度も間違って、何度も何度もやり直して、2人で同じ道を生きていくと決めた。
世界はそれを「幸せ」と呼ぶのだと知った時、俺の頬に涙が伝った。



(世界で一番近くにいながら世界で一番遠くに心を置き忘れてしまっていたふたりは、これからやっと、少しずつ心の距離を埋めてゆく)





2010/02/11


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