「好き」の反対は


「やあサガ、まだ終わらないのか?」
そう言いながら執務室に入ってきたのはアイオロスだ。見るからに健康そうな笑顔が、私の顔を見ると少しだけ曇る。
「また目の下に隈ができてるじゃないか……仕事熱心なのはいいが身体だって大事にしないと」
「だからといって休むわけにはいかない。少なくとも机の上にある書類は今日中に片付けなくては」
アイオロスは目を見開いて、机上に積みあがった書類の山をまじまじと見つめる。
「これを?一日で?」
「勿論だ」
口から漏れた溜息は驚きというより感嘆だ。
「すごいなぁサガは」
お前にだけは言われたくない、と私は思った。教皇補佐の私でさえこれだけの仕事量のなのだから、教皇であるアイオロスはなおさらだ。代わりがきく仕事はできるだけ私が請け負っているが、それでも教皇自身が目を通さなければならない書類はかなりある。しかしアイオロスはその全てをあっさりと片付けた上で私の元を訪ねてきた。

いつもは「デスクワークは得意じゃないんだけど」とぼやいてなかなか手をつけようとしないだけで、いざ机に向かうと驚くべき速さで仕事をこなす。だからといっていい加減にやっているわけではない。渡された書類に隅から隅まで目を通し、少しでも疑問に感じたことがあればすぐさま担当の者を呼んで質問し、説明を受けても足りないと判断した場合にはもう一度案を練り直すようにと書類を差し戻す。問題解消のための的確なアドバイス付きでだ。そのやり取りはアイオロスが完全に納得するまで繰り返され、最終的に実現可能かつもっとも理想的な形で案件が成立する。
私と同じ手順を踏んでいるはずなのだが、アイオロスの場合は一連の流れが何故か私よりも遥かに速く済んでしまう。十三年間聖域内の政務を担ってきた私にとってその差には悔しいものを感じるが、これはアイオロスの一種の才能なのかもしれないと思って諦めていた。

「サガ」
「何だ」
「手伝おうか」
「いや、遠慮しておく」
「そうか」

私が、自分に任された仕事を最後まで自力でやり通さずにはいられない性格であることを、長い付き合いのアイオロスは知っている。今のやり取りは社交辞令のようなものだ。だからアイオロスの方もあっさりと引き下がった。
用がないのなら出て行ってもらったほうがこちらとしては助かるのだが、どうやら立ち去る気はないらしい。それなら何のためにここへ来た?手を動かしながらちらりとアイオロスを見ても、この場所に留まるのに大した目的はないようだ。
アイオロスは椅子に腰掛けた状態でしばらくの間所在無げに視線を彷徨わせていたが、不意に顔を上げた。

「――『好き』の反対は何だと思う?」
「は?」

思わずペンを握っていた手の動きが止まる。……時々、本当に時々ではあるが、アイオロスは突拍子もない発言をする。しかも何の脈絡もなしに。果たして今回は何がしたいのだろう。
「なあサガ、分かるか?」
にこにこと満面の笑みで問われると私もつい乗せられてしまう。仕事を続けようという気力はアイオロスによって奪われた。数分程度なら戯れの謎掛けにも付き合ってやってもいいかもしれないと思い直して、ペンを机に置いた。代わりに右手で頬杖をつき考える仕草をする。
「そうだな……順当に考えれば『好き』の反対は『嫌い』だろうが……それはお前の期待する答えとは違うのだろう?」
「ああ。……でも、そうだなぁ、サガには分からないかもしれない」
私には分からないだって?何を根拠にそんなことを言えるのか。私は少しむっとした。

『好き』の反対が『嫌い』ではないのなら、これは辞書的な意味とは違った答えを要求する問題であるはずだ。……『憎む』ではないだろう。『愛する』というのも、思いの方向性が異なるという点では当てはまりそうな気もするがいまいちしっくりこない。思いつく限りの反対語を紙に書き連ねてみても、納得するような解答はなかなか得られなかった。
机の向こう側では、思案する私をアイオロスが楽しそうに見ている。表情は時に言葉よりも雄弁だ。あの顔は「お前には絶対分からない」と言っているに違いない。アイオロスは私がこういった類の謎掛けが苦手であることを知っていて、敢えて私に尋ねているのだ。笑顔ゆえになおさら腹立たしかった。こうなったら何が何でも当ててやろうではないか。

それから五分ほど眉間に皺を寄せて考えていたところ、唐突に天啓のようなものが頭の中に降ってきた。確信を伴ったひらめきだ。
「……そうか!分かったぞアイオロス!」
してやったり、という思いを込めてアイオロスと視線を合わせたら、相変わらずの笑顔で「本当に?」と問われた。フッ、あまり私を見くびってもらっては困る。
「いいか――『好き』の反対は『無関心』だ」

まさしく最適解だろう。これは集合論で考えてみればいいのだ。
「好きならば関心がある」という命題に対する裏は「好きでなければ関心がない」だが、これは偽だ。関心を持っていなければ嫌いにはなりえない。一方で命題の裏は「関心があれば好き」、これも偽だ。関心があるからといってそれが好意の感情に結びつくとは限らない。そして正の命題に対する対偶もまた必ず正であることを考えれば、命題の対偶――「関心がなければ好きではない」は正、つまり「『好き』の反対は『無関心』」ということになる。

どうだアイオロスよ、これ以上の答えはあるまい。私は誇らしげに胸を張るが、当のアイオロスは苦笑している。
「自信満々なところに水を差すようで悪いけど」
その笑顔には「やっぱり分からなかったか」と書いてある。
「……残念ながら、その答えも違う」
「何……!?」
ここまで考えて違うというのか。人間の感情的な部分を数論に置き換えるのは確かに無理があるかもしれないが、そう大きく破綻しているわけではないはずだ。私はどうしても納得がいかず、アイオロスに答えを問いただそうとした。……しかし、その瞬間。

ちゅっ

――甘やかな口付けの音が、私の鼓膜を震わせた。
アイオロスはいつの間にか椅子から離れ、机越しに私の唇へ彼のそれを重ね合わせていた。

「もっとシンプルに考えればいい。……『スキ』の反対は『キス』だよ、サガ」

超至近距離でアイオロスが茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせる。……ああそうか、だからお前は、私には分からないと言ったのだな。ひとつの物事について考えて考えて考え抜いてしまうせいで単純な言葉の綾にすら気付けない私には、と。お前はそう言いたいのだな?
理不尽というか、まんまと引っかかってしまった自分が馬鹿らしくて泣きたくなった。なんて恥ずかしい。顔から湯気が出ているのではないかと疑うくらい自分が赤面しているのがよく分かる。耳が熱くて仕方がない。今にも蒸発しそうだ。

「はは、サガは可愛いなぁ」
しかもよりもよってこの男は私を可愛いと言う。アイオロスよ、知っているとは思うが私は28歳だぞ?お前よりも年上だ。身長188cm体重87kgで神が作り上げた最高の芸術レベルの肉体美を誇る男だ。それを「美しい」ではなくよりによって「可愛い」と評するのかお前は。一体何をもって可愛いなどと言えるのだ。
「何って、全てにおいて可愛いに決まってるだろう」
「いちいち私の思考を呼んで返答しなくてもいい!」
思わず声が出た。しかもかなり大きい叫び声だ。自分がどうしようもないくらい舞い上がっていることは自覚している。……自覚しているのに、止められない。それもこれも全部お前のせいだ。お前が私に、解けもしない謎掛けを持ちかけたりするから。不意打ちで口付けなどするから。何度も私を可愛いと言うから。

アイオロスは先ほどからずっと笑っている。その笑顔が語るところは――「サガ好き好き大好き超愛してる」――言われずとも私がお前に死ぬほど愛されていることくらい最初から分かっている!
私は耐え切れなくなって、机越しに力いっぱいアイオロスを抱きしめた。正確には「抱きつく」なのだが、そう表現するのは私自身の自尊心が許さないのであくまで「抱きしめる」だ。もはや意地の域に達していることは重々承知だった。
ほてる顔をアイオロスの肩口に押し付けて声を絞り出す。

「……ずるいぞ、アイオロス……」

精一杯の講義の言葉だったはずだがアイオロスにはまったく効果がないようだった。どうせ今この状態で私が何を言おうともアイオロスを喜ばせることにしかならないのだ。
必要とあらば神を殺すことすら厭わない私が、なぜこの男にはどうやっても勝てる気がしないのだろう。このことをカノンあたりに相談してみたところで「惚れた弱みだろ」と言い捨てられるのが関の山だ。事実そのとおりなのだが、やはり認めたくない。
優しく背中を撫でられて安堵しそうになる心を必死で抑えて、私は少なくともあと1時間はアイオロスを羽交い絞めにしたまま離さないでおこうと思った。



(ああもう!頭の中がお前一色ではないか!)





2010/02/05


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