久遠











「彼は遠い場所へ行ってしまいました。わたしたちの身近に存在していながら、今のわたしたちでは決して辿り着けない場所へ。それを単に『死』と表現することは簡単ですが、彼の行く先は『死』とは違うような気がします。……もっともっと、尊いもの。触れることも見ることもできないけれど、わたしたちが感じる普遍なもの。
――この感覚を、何と呼ぶのかしら?」

「良い奴だったよなぁ。そりゃ最初のうちは、自分から聖衣脱いだりして頭おかしいんじゃねぇのって思ったぜ? でも、オレが馬鹿なことするとたしなめてくれたし、よく世話になった。ずっと支えられてた。オレが命を助けた以上に、あいつはオレのことを何度も助けてくれたんだ」

「とても優しい人だったよ。彼はいつも僕に対して『おまえは優しすぎる』と言っていたけれど、彼のほうが僕なんかよりずっと……ずっと、優しい。けれど彼は、自分が優しいなんてこれっぽっちも思っていなくて。自覚のない優しさこそが本当の優しさだってこと、今ではそれがよく分かるよ」

「信頼に足る男だったと思う。……以前、俺が敵の術中に陥ってあいつと戦うことになった時も、あいつは俺が絶対に耐えられると信じて、全力で技を放ってくれた。相手があいつじゃなかったら、きっとどちらかが死んでいただろう。俺はあいつを信じていたし、あいつも俺を信じてくれていた」

「最後まで解せん奴だったな。顔を合わせれば毎度のように、協調性を持てやら何やらと口うるさく言ってきた。あいつのほうこそ、俺たちを置いてすぐに命を投げ出すような真似をするのにな。自分より他人を優先するくせに、一番重要なことに限って人の意見を聞き入れない。それがあいつらしい所でもあった」

「まっすぐに生きた子じゃった。己の中に一本通った芯が揺らぐことは決してなかった。素直でありながら頑固。あの子の師になれてよかったと思っておる。……今までもこれからも、あの子はわしの自慢の弟子じゃ」

「莫迦な餓鬼だったな。青銅の連中の中では誰よりも大人びてると思わせておいて、奴が掲げるのは陳腐で青臭い正義だ。しかもその正義のためなら喜んで自分を犠牲にするときてる。本当に莫迦で、どうしようもない……なぁ、そうだろう?」

「美しい瞳をしていた。人が人である限り、死は超えられぬものであるはずだが……彼の瞳には、そういったものとは異なる光があった。この世界に存在する美しさの中では、最も光り輝くもののひとつであるように思う」

「彼はもっと自分の身体を大切にするべきでした。そうであれば、こんな結末には――いえ、やめましょう。彼が自ら決めた生き方だったのですから、私が今更口を挟む権利はありません。ただ、惜しむらくは……私が聖衣修復の技術しか持ちえていなかったということです」

「強くて、優しくて、おいらをいつも守ってくれて、おいらはずっとその背中ばっかり見てたんだ。いつか必ずその隣に並んで歩きたいって思ってたけど……おいら、もっと早く生まれてきたかった。でも、遅く生まれてきたおいらだからこそ出来ることがあるって信じてるから、だから……生きて生きて、生き抜くよ。おいらとあの人、2人分の命を」

「傷つくことを恐れないということは、彼にとって強さであり弱さでした。そして、幸福であり不幸でもあった。7年間ずっと彼の傍にいたのに、わたしは不幸の面ばかりを見ていました。こうして……こんな形ではあったけれど……彼の、心からの幸福に触れることができてよかった。本当に……本当に、よかった……」



季節は巡り、記憶も時の流れと共に移ろいゆく。
彼の不在は取り残された人々の心にひとときの空漠と寂寥をもたらしたけれども、世界は何事もなかったかのようにいつもどおり動いていた。嘆きの涙はいつしか乾き、次第に日常へと回帰する。
その日常の中に彼の姿は無い。春の風が、季節を彼の命ごと運び去ってしまった。




今は夏、この時期のギリシャは暑い。空気が乾いているため湿気による蒸し暑さは無いものの、直射日光が容赦なく照りつける。生命が鮮やかに浮き上がる季節だ。沙織はアテナ神殿から出て、突き刺す日差しにも構わず空を見上げた。青い。雲ひとつない青空が広がっていた。この土地で夏を迎えるのも既に二度目だった。

「おい、お嬢!」
階段の下から聞き慣れた声がする。沙織に対してその呼び方を使うのは一人だけだ。
「ごきげんよう一輝、随分と久しぶりね」
にこりと笑って来訪者を出迎える。一輝は軽く手を挙げることで返事の代わりとし、階段を上って沙織と肩を並べた。
一輝とはここ数箇月ずっと会っていなかった。彼が聖域を訪れるのさえ稀なのだから、日本とギリシャを行き来する沙織と遭遇できないのも無理はない。
「こんな日差しの中で何を突っ立っている。日射病で倒れたりしたらサガが泣くぞ」
「あら、女神を見くびらないでもらえる? わたしは夏という季節を全身で感じ取っているだけよ」
一輝は信じられんといった顔で沙織を凝視する。なるほど確かに沙織は汗ひとつかかず、涼しげに髪を風に揺らしている。小宇宙で外気を遮断するという高度なことをやってのけているのかどうかは分からない。どちらにしろ、この女神が夏バテする姿は想像がつかなかった。

「珍しいわね、あなたの方から聖域に来るなんて」
「……大したことじゃない。ただ、何かが起こるような気がした」
「直感ですか」
「かもな」
顔を上げ、沙織と同じように空を仰いだ。どこまでも青く透きとおる空の色に溶け込んでしまいそうだった。夏の熱気が視界を揺らす。
空の青さに眩暈がして不意に下を向いた。見下ろした先には、神殿と十二宮を繋ぐ白い階段がある。そして、その階段を上がる人影も。目を凝らすと、その人影が何者であるのかが分かった。デスマスクとアフロディーテだ。
その姿を見とめた一輝は、あぁ、と心の中で溜息をついた。聖域に来る前から感じていた「何かが来る」という予感、その「何か」の正体を理解できたような気がしたからだ。
2人は神殿に続く階段を上ってくる。それと共に近づいてくるのは――消えたはずの「彼」の気配だった。

「アテナ」
階段を上りきり、一輝たちと同じ高さの場所に立ったアフロディーテが沙織の前に膝をついた。デスマスクは無言でその場に立っている。
「……待っていました」
沙織は空を見上げたままそう言って、それからゆっくりとアフロディーテに視線を落とした。彼女も一輝と同じように、この時を待っていたのだ。
「これを」
アフロディーテは頷いて、手に持っていた小さな箱のようなものを差し出した。
「昨日の夜、あいつが俺らの所に来て、それを置いていった。あんたに渡してほしい、ってな」
デスマスクの言う「あいつ」とは誰なのか問うまでもなかった。数箇月前、「彼」の死と共に姿を消した人物だ。なぜ沙織に直接渡そうとしなかったのか、その夜にどのような会話をしたのか、デスマスクはそれらを多く語らなかった。用件だけ伝えれば充分だと判断したのだろう。沙織や一輝にとっても、この箱の中にある真実だけに意味があった。

掌にすっぽりと収まる黒い小箱を受け取り、開ける。沙織はじっと箱の中を見つめて呟いた。
「ありがとう、届けてくれて」
壊れ物を扱うようにそっと取り出して太陽に翳す。
光を反射してきらりと輝くそれは、指輪だった。ほのかに青みを帯びた小さなダイヤモンドが中心に嵌め込まれている。
一輝は指輪の輝きに目を細めながら、「手元供養」と呼ばれる葬送の方法を思い出していた。故人の身体の一部をペンダントや指輪などに収納して身に付けるのだと聞いた。最近では遺灰から人工のダイヤモンドを精製することもできるらしい。おそらくこれもそういった類のものなのだろう。
この指輪から、ひどく朧ではあるが「彼」の気配が感じられた。澄んだ水に包まれているかのような感覚。……「彼」は確かに、ここにいる。

沙織は静かに語りだした。
「『彼』がいないという事実は、たとえようのない重さでわたしたちの中に沈殿しました。けれど、その重さを『死』という言葉で片付けてしまうことに抵抗を覚えていたのです。死ではなく、もっともっと尊いもの。その感覚を何と呼ぶのか――今やっと、分かったような気がします」
沙織は指輪越しに空を見た。空越しに世界を見た。
「『彼』……紫龍は」
地平の遥か彼方に広がる海の深さの中に、どこまでも清く澄み渡る空の青さの中に、見果てぬ夜空に輝く宇宙の星々の中に、その人は確かに存在している。
世界を愛おしく思うのは、彼が守りたいと願った景色がそこにあるから。彼との記憶が残っているから。
この目に映らなくなっても。声は聞こえなくても。

「永遠に、なったのね」

(……そうでしょう、シュラ?)





男は山の頂上に立っていた。ピレネーの山々は険しいが懐が深い。やっとのことで山頂に辿り着いた男を歓迎するように、冷たく心地よい風が頬をなでた。標高の高い場所であるために酸素が薄く、過酷な山道を休みなく登ってきた身体には疲労が溜まっていた。
男はこれから訪れる夜明けの一瞬を待っていた。空はまだ朝というには暗いままだった。じっと山の稜線を見つめる。待って待って待ち続ける。次第に、黒で塗り込められていた山の輪郭が橙色に滲んできた。やがて橙は山だけでなく空へとその色を映し出し、世界を一色に染め上げていく。――日の出だ。

この山には幼い頃、何度か修行で登ったことがあった。ここから見る朝陽以上に美しい景色を男は知らない。まず何よりも先に、この美しさを目蓋に刻み付けておきたかったのだ。
男は首から提げていたペンダントを外して掌に乗せた。銀の鎖には、ダイヤモンドのついた小さな指輪が通されている。目映い朝陽が指輪を照らした。
「見えるか、紫龍。美しいだろう」
男は2つの指輪を作っていた。ひとつは『彼』を愛する者たちに、そしてもうひとつは男の手の中に。

男には、少年と交わした約束があった。
そして今、彼はその約束を果たす為にここにいる。

『俺は、俺が守りたいと願った世界の美しさを、もう一度この目蓋の裏に刻み付けたいんです』
『だからどうか』
『俺に、世界を見せてくれませんか』

春の景色の中で、少年は願った。目の光はとうに失われたというのに。命は今にも消えようとしているのに。それでも少年は願った。終わりのその先にある未来を見据えて。
おそらく男は、少年との約束どおりこれから世界中を旅するのだろう。命尽きる時まで、数限りない美しさの欠片を集めていくのだろう。
朝陽の眩しさに目を細め、それからゆっくりと瞳を閉じた。一瞬一瞬の美しさを目蓋の裏に焼き付ける。そうやって記憶は感覚に染み渡り、やがて世界に溶けていくのだ。



時は人の記憶をさらってゆく。死者と過ごした日々もいつかは忘却の淵に沈み、跡形もなく消えてしまう。しかしそれらの記憶の中に、決して忘れ得ないものがある。覚えていようと努力せずとも、無意識に、ごく自然に、目蓋の裏に刻まれた記憶はいつまでも残り続ける。
忘れない。忘れられるわけがない。その姿、その笑顔。
――それが、『永遠』になるということ。
感傷などではなく、ただありのままの実感として、彼は朝陽の中で『永遠』に触れていた。



(だいじなものは、まぶたのうら)





2010/01/11

久遠(くおん):永遠


あとがき

すべては、KOKIAさんの「大事なものは目蓋の裏」という曲から始まりました。この曲を聴いた瞬間に、あるひとつの情景が、一枚の絵として頭の中を駆け巡りました。
扉を開けた先には真っ白な病室。開け放たれた窓からは柔らかな日差しが惜しみなく降り注ぎ、穏やかな風がカーテンを揺らしている。窓のすぐそばに寝台がひとつ。ひとりの少年が痩せた身体をゆっくりと起こして、窓の向こうに広がる美しい春の世界を眺めている。こちらからは少年の表情を見ることは出来ないけれど、きっと彼は微笑んでいるのだという確信がある。
その情景の中にいたひとりの少年、それが紫龍でした。

最初に受け取ったそのイメージを大切にしようと思いました。そして、本編において死ぬはずのない人に死を与えてしまうということの重さを忘れないようにと。
主な舞台は病室です。命の終わりを迎えようとしている少年と、彼に会いに来た人物が語り合う。苛烈な人生を歩んできた少年の、最も静かな時間を描きたいという思いがありました。紫龍は生前関わりのあった人々と対話しながら、同時に「生」と「死」に向き合います。途絶える命に対して諦めを覚えていた彼が、涙を介して生きることの意味を知り、人々の優しさと世界の美しさに触れ、ほんとうの幸せを得る……死の中にも救いがあってほしいです。
「大事なものは目蓋の裏」の中に、「結局 全ては信じること 離れることで近くなった」という歌詞があります。わたしはこの歌詞を、「生」から離れる=「死」に近づくことで、逆に「命」の本来の在り方を見つけることができた、と解釈しました。

美しい景色を見て、ふと泣きたくなったりする瞬間が訪れるのは、世界に散りばめられた美しさの中に、たくさんの人の命の記憶が残っているからなのかもしれません。「永遠」はとても身近にあるものだと思います。
完結まで長い時間がかかってしまいましたが、読んでくださってありがとうございました。



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