ミニチュアガーデン


「紫龍」
俺が名を呼び、
「はい」
おまえが応える。
何度このやり取りを繰り返したことだろう。飽きるほどに呼び合って、それでもまだ足りずに。どうやら俺たちは、平和に慣れすぎたあまり貪欲になってしまったらしい。

読書中だったおまえは本から視線を外して俺を見上げた。黒色の瞳に翠の光が差している。この色に見つめられるのが好きだった。最初に出会ったあの日は険しさだけを映していた瞳は、今こうして穏やかな愛しさを湛えて俺をとらえる。
「シュラ?」
いつまでたっても応答しない俺を不思議に思ったおまえが首を傾げて呼んだので、俺ははっと我に返った。
最近、思考の海を漂ったまま現実に戻ってこれなくなることが多い。幸せな時ほどそうやって無駄なことばかり考えてしまう。

「コーヒー、おまえも飲むか?」
左手に持ったカップを渡す。おまえは持っていた本を膝に置き、差し出されたそれを両手で受け取った。
「……ありがとう」
キリマンジャロの香りを胸に吸い込んで笑う。一緒に暮らし始めて最初の数週間は、断固として緑茶以外飲もうとしなかったのに。俺が毎朝自分用に淹れるコーヒーは、いつのまにか2人分に増えていた。
なんだコーヒーも飲めるんじゃないかとからかえば、「シュラが淹れてくれるコーヒーが特別なだけです」と、さも当たり前のことのように口を尖らせながら呟くので、ますます愛おしい。
コーヒーの香りを愉しめるようになった、それもまた、平和に慣れすぎた故の結果。だからといって平和を享受することを恐ろしいとは思わない。戦いに備えるのは「今」が終わった後で十分だ。





聖戦を終え、束の間の自由を与えられた俺は家を買った。
故郷の地から程近い、海の見える丘にその白い家は建っていた。どこかの海洋学者が研究の為に一人暮らしをしていたらしい。その割に部屋はとても広かったので2人で住む分には何の不自由もなかった。
前の持ち主は余程シンプルな暮らしをしていたのか、家の中に残されていた家具はごくごく少なく、広い部屋はがらんとしていた。

――2人の箱庭にはちょうどいい。
俺は口元だけで笑い、これからどう箱庭を作り変えていくかを考えた。
まずリビング。テレビや電話は要らない。外部の情報が入ってきてはならなかった。外の世界から完全に切り離された空間を形成することが第一だった。その為に、丘を丸ごと買い取ったのだから。
次にキッチン。客は来ない――というより「来させない」――から、食器は2人分あればいい。食料の買い溜めができるように大きめの冷蔵庫を買っておかなければ。
それとベッドルーム。備え付けのベッドは2人で寝るには小さすぎるから撤去して新しいものを置こう。リビングのソファーもひとつだけ。
荒れ放題の庭は後で草刈をする必要がありそうだ。ああ、洗濯物を干すスペースも確保しなければな。
庭の手入れが終わったら花の種でも植えようか。あまり大きい花をつけるものよりは、小花が咲き乱れる種類のほうが綺麗だろう。

俺はそれらの作業を、家具の購入と運搬、庭の整備に至るまで、全てを自分ひとりでやった。別の誰かの手が入っては箱庭の意味がない。やっとのことで理想の箱庭が完成した際の喜びは格別だった。
逸る気持ちを胸におまえを箱庭に招待したのは、家を買ってから一箇月後。
『この家で2人一緒に暮らさないか、紫龍』
おまえはとても驚いたような顔で俺を凝視していたものの、俺が本気だと分かると、顔を赤らめて『……はい』と小さく嬉しそうに頷いた。
おまえの返答を聞いた瞬間、内心踊りだしたいくらいだった。その衝動をなんとか押し留めて、余裕の笑みを形作る。
『では、ひとつだけ約束しておきたいことがある』
それは2人がいつまでも共にいる為の絶対条件。

『……決して、俺以外の誰とも連絡を取り合わないこと』

街へ下りて食料や生活必需品を買うのは俺だけの仕事。おまえは外部との交流の一切を断ち切り、家の周囲100mからは決して出てはならない。
無理な条件だとは思っていた。これではまるで、籠の中の鳥ではないかと。
しかし俺はそのとき既に卑怯な大人に成り下がっていた。おまえが俺を慕っていることを知り、おまえは俺の隣にいる為ならばどのようなことも受け入れると分かった上で――あえて俺は「選択」させた。強要ではなく、同意を求めただけだ。一度そうなることを選んだ以上、この真面目な子供は自分から約束を反古にはできまい。俺はそこまで周到に考えていた。
おまえはそんな思惑にすら気づかないで、「分かりました」と素直に俺の提示した条件を呑んだのだった。



事が動いたのは、一緒に暮らし始めてから三箇月が経った頃だった。
三箇月間俺たちは幸せな生活を送っていた。求めていた平穏はそこにあった。
聖域での仕事を終えて家へ帰ってくる俺を、おまえはいつも嬉しそうに出迎えてくれる。
『シュラ、おかえりなさ……、』
だがしかし、その夜だけは違っていた。玄関に立つ俺の姿を見止めて駆け寄ろうとした足は不意に止まり、おまえの瞳は大きく見開かれていた。
『シュラ……?』
ああ、気づかれてしまったか。
おまえはとても聡い子供だった。長く続く平穏に身を浸していても、培ってきた聖闘士としての感覚が鈍ることもなかった。

身体中に浴びた返り血をどれほど洗い流しても。
絡みついた死者の小宇宙までは、消し去れない。

『シュラ』
尚も俺を呼ぶ。
『まさか、また戦いが』
真実を問おうとする前に、俺はその痩身を抱き締めた。何も言うな、何も聞くな、何も見るな。
おまえを外界から隔離したのは、2人で暮らす為だけでは無い。全ては戦いを忘れさせる為。血も内臓も生首も、戦場に関するありとあらゆるものをおまえから遠ざけなければならなかった。おまえの瞳に映るのは、選び抜かれた綺麗な景色だけでいい。
我ながら子供じみた独善的な考えだと思う。聖闘士として生きようとするおまえの意志を無視していた。
それでも俺は、おまえを箱庭から出したくはなかったのだ。

『……あの時』
腕の中に閉じ込めたおまえが語りかけてくる。
『誰とも連絡を取り合うなと言ったのは、このためですか。俺に、戦いの存在を悟らせないようにと。今、俺以外の誰かが戦っているのですか。今、俺以外の誰かが傷ついているのですか。……俺の、代わりに』
三箇月間溜め込まれていた疑問があふれ出す。
そうだ、俺は知っていた。箱庭の外では新たな戦いが起こり、幾多の命が消えている最中だという事実を。そしてその「命」とは、おまえの兄弟たちとて例外ではないということを。
ずっと隠してきた。ずっと嘘をついてきた。
戦いも死も、おまえの目を曇らせるような出来事などどこにも存在しないかのように振る舞い、箱庭の平穏を保ってきた。

俺はおまえを抱き締める。
『……このまま、気づかないふりをしてくれ』
血を吐くような声だった。おそらくそれは懇願だった。
おまえは何も言わなかった。代わりに、俺の背に腕を回して抱き締め返してきた。まるで、母親が幼子をあやすように。それは暗に受容の意を表していた。俺を抱き締める腕は震えていた。
どんな表情で俺の言葉を聞いていたのかは分からなかったが、きっと俺はおまえに酷い顔をさせているのだろう。

それでも、受け入れてくれた。うわべだけの平穏を取り繕った箱庭の中で生きていく未来を。
知らず涙が零れた。おまえへの愛しさからではない。俺自身に対する失望ゆえの涙だ。
俺はとてもとても卑怯な大人だった。全部全部知りながら、真実を隠蔽してきた。
『……あなたになら、騙されてもいい』
俺にしか聞こえない声で囁かれた言葉。騙され続ければ偽りもやがて真実となる。おまえが、真の意味で盲目になった瞬間だった。


――知って、いたのだ。
おまえは、『大切な誰か』の言葉を否定するくらいなら、自らの心を押し殺す方を選ぶ子供だということも。





そうして、俺たちの箱庭は今でも理想のままに美しい形をしている。その中で生きるのは2人きり。俺とおまえ以外はいらない。
あの後も戦いは幾度となく起こり、俺はそのたびに嘘をつき続け、おまえも騙されたふりを繰り返している。傍から見ればとんだ茶番だ。だが俺たちはごくごく真剣に茶番を演じていた。箱庭の秩序を保つためには、その茶番こそが重要だったからだ。

俺はソファに腰掛け、おまえと同じようにコーヒーを飲み始めた。読書を続けるおまえの首筋を見ながら、また新しい本を買ってこなければならないな、と思う。本棚にあった本はあらかた読破してしまったからだ。箱庭の中では、読書だけが唯一許された娯楽だった。
「本、どんなジャンルを読みたい?」
おまえを外に連れ出すことはできないから、こうして訊くしかない。おまえは少しだけ考え込んで、「……恋愛小説、とか」と答えた。

「レンアイショウセツ? 男と女が愛し合うアレか? ……読書家だとは思っていたが、そんなものまで読むのか。意外だな」
「意外で結構です」
「別にからかってるわけじゃない。拗ねるな」
「拗ねてません」
「いや、拗ねてる」
「拗ねてない」
「拗ねてる」
「………………」

ああ、また怒らせた。箱庭での生活を始めてから早半年、おまえはよく感情を表に出すようになった。よく笑うしよく泣く。それが俺だけに見せる表情かと思うと、ひどく満ち足りた気分になる。箱庭という特殊な環境は、俺の独占欲を充分に満たしてくれていた。
「恋愛小説にも色々あるだろう。好きなストーリーはあるか?」
面白半分に訊くと、おまえはぱちぱちと目をしばたかせた。視線を落として手元のコーヒーカップを見つめる。やがて、一言ぽつりと呟いた。

「男が女を攫って閉じ込めて、でも女は男を深く愛していたからそれを咎めたりせずに、2人きりで幸せに生きて、やがて静かに死ぬ話」
それはまるで、今の俺たちの境遇そのものだった。虚を突かれて何も返答できない俺を、おまえは微笑みながら見る。
「俺は、あなたの共犯だから」
そしてまた、花が綻ぶように笑った。
「――そうか、共犯か」

心地よい響きだった。『知る』ことが罪ならば、『知らない』こともまた罪に成り得るのだ。
俺はいつだって誰かの共犯だった。修行時代はデスマスクとアフロディーテとつるんでよく些細な悪戯をしていたものだ。13年間サガの陰謀に加担したこともあれば、シオン教皇の共犯として聖域に乗り込んだこともあった。
そして今、愛しいおまえと共に、無限の罪を犯しそうとしている最中だ。

「なら、このまま堕ちる所まで堕ちていくか、紫龍」
「シュラとならどこまでも」
戯れに持ち掛けた誘いにすらおまえは真面目に応えるから、たまらなくなってその肩を引き寄せた。


俺は何も知らない少年を軟禁する悪い大人で、おまえは箱庭に閉じ込められた可哀想な子供。箱庭の外からは、俺たちはそんな風に見えているのだろう。事実だけを見ればその通りだし、俺もおまえも、とうの昔に『罪』は自覚済みだ。
だが、箱庭の中の世界がいかなるものかを、外の人間が知るはずはない。箱庭の住人にしか理解し得ない真実がある。
――俺たちは、こんなにも幸せだということ。
閉鎖的な空間の中を2人きりで生きるという幸福は、何物にも代えがたい。
世界への愛を捨て、これからはおまえだけを愛そう。それが聖闘士として許されざる想いだとしても。


ふわりふわり、風が吹く。
ふわりふわり、庭に干した2人分の白いシーツが風に揺れる。
ふわりふわり、それはまるで俺たちの心情をあるがままに投影しているようでいて。
ふわりふわり、同時に2人の行く末を暗示しているようにも見えた。



(箱庭は柩に似ている)





<2009.08.03>

BGM 箱庭〜ミニチュアガーデン〜/天野月子

「嘘を吐いてこのまま騙していてね」


[ index > top > menu ]
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -