凍蝶14/流転


「俺のせいだ」
2人きりの病室で、不意に耐え切れないように呟いたのは男の方だった。少年は僅かに首をかしげて男を見る。

「あなたのせい?」
「そうだ」
「なぜ」
「……心臓の病気、なのだろう?」
「はい」
「だから」
「だから?」
「あの戦いで、俺が、おまえの心臓を貫いたから」
少年はゆっくりと瞬きを繰り返す。
「……それが直接の原因だとしたら、俺はとっくに絶命していたはずです。あなたのせいなんかじゃ、」
「でも、きっかけにはなったかもしれない」
「……」
「だから、俺のせいだ」

男は全ての責を背負おうとしていた。
磨羯宮での戦い。男には、たとえ相手が14歳の子供であろうと容赦なく斬り殺すだけの冷酷さがあった。悔いを覚えたのは、己の過ちに気付いた時だった。
遅かった。何もかも遅かった。少年はその時既に身体じゅうに傷を負い、心臓には大きな負荷がかけられていた。それらはすべて男が与えた傷だった。

……「もしも」という言葉は、決して使わずにいようと思っていた。何を考えたところで無駄なのだ。反実仮想は絶対的な事実の前に打ち消される。過去を顧みても虚しいだけだった。だが、どうしても考えてしまう。「もしもあの時」、と。
「もしもあの時、この刃がおまえの心臓へと達していなかったならば」
それは、「後悔」という単語に言い換えることも出来た。散々に痛めつけた相手を守りたいと願ったのはあの時が初めてだった。それでも、起こってしまった事実は、負ってしまった傷は、消えることはない。

少年は黙ったまま、項垂れる男を見つめていたが、やがてはっきりと言い切った。
「あれは、避けられない戦いでした。来るべくしてやって来た戦い、負うべくして負った傷であると俺は思っています。あの戦いがあったからこそ、こうして今を生きていられる。過去を否定することは、今を否定することと同じです。……俺は、幸せな今を否定なんてしたくない」
意志の宿った声だった。罪科を全て洗い流す力が込められていた。男は弾かれたように顔を上げる。

『幸せ』と言ったのか、この少年は。死とは命の終わり。『幸せ』とは遠くかけ離れているはずではなかったか。ならばなぜ、この少年は笑っていられる?
驚きが男を支配する。死を幸せと呼ぶ人間を初めて見たからだった。彼自身、決して幸福とは呼べない人生を送ってきたせいで、『幸せ』がどういったものであるかをうまく言い表すことは出来ない。しかし、親に捨てられ孤児として生きてきた幼年期も、聖闘士となり過酷な戦いに明け暮れた日々も、幸福とは程遠い場所にあるはずだ。少なくとも男はそう思っていた。
だが、少年の微笑みは限りなく澄んでいた。嘘偽りはどこにも見えなかった。

「しあわせ、なのか」
「ええ、幸せです」

何の衒いもなく少年は答えた。幸せというのはこの微笑みのことを言うのだ。
すう、と2人の間に春の風が流れていった。
光を失った少年の目は、開け放たれた窓の外に広がる春の景色をとらえることはできなかったが、その風が微かに桜の香りを含んでいることは感じ取れた。
戦いこそが己の生きる道であると考えていた頃、花の芳香に気を留めることがいったい何度あっただろう。ただ目の前の敵を倒すことに夢中で、落ち着いて季節の変化に身を委ねたりしてこなかった。

――世界は美しさで溢れている。

ただ気付こうとしなかっただけだ。たとえ美しさを愛でる人間が誰一人として存在しなかったとしても、世界は変わらずに美しさという輝きを放ち続けるのだ。
穏やかさを身につけることができなければ、少年はきっと一生その美しさを感じられずにいただろう。戦いから離れ、行き急ぐ日々に別れを告げ、ゆるやかな死への途を歩き始めてからやっと、世界の美しさを受け止めるだけの心になれた。
死によって失われるものがあればまた得るものもあるということを、ごく最近知った。桜の花の香りがこんなにも優しいということを、今日初めて知った。
少年はこれ以上ないほど満たされていた。今日の為に生き、今日を経て死ねるのなら幸せだとさえ思った。

男は、少年が見えない目で何を見、何を感じ、何を思い、そうやって笑っていられるかを知らない。だがその微笑みの中で、少年が死を越えた場所に立っていることをおぼろげながらに理解した。
唇を噛み、腕に爪を食い込ませ、身の内より溢れ出る感情を抑えようとした。それでも肩は震え、目元はじわりと熱を持った。
……この少年は、夏を待たずに死ぬのだ。はっきりとそれが分かった。皆がどれほど願ったところで、春の風は少年を手放そうとはしないだろう。時がたてばたつほど、春はゆるやかに穏やかに、風に乗せて命を運ぶ。
ならばせめて、滲んだ目蓋の裏に見えるその微笑みだけは憶えていたい。
瞬きを数度繰り返し、男は少年を真っ直ぐ見た。光を失った少年と視線を交わすことはもうできない。男はむしろ少年の魂と対峙していた。

「紫龍」
少年の名を呼ぶのもこれが最後だ。
「何か俺にできることはないだろうか」
桜色の風が吹きぬける。少年は虚をつかれたように身を引いた。長い沈黙が場を支配する。俯いて、それから顔を上げた。
「……それなら、ひとつだけ」
掠れた声だった。
「ひとつだけお願いしたいことがあります」
遺言のようにも聞こえた。何もかもが最後へと繋がっていく。少年は終わりのその先を見ていた。見えない目で遠くを見つめながら、掌の中にある「今」を慈しんでいた。
男は深く頷いた。肯定の意だった。

「おまえの願いなら、いくらでも」





風のない夜だった。気配を殺して病室に入った男は、ゆっくりと少年に近づいていった。
月の淡い光が病室に降りて、動かない少年の青白い貌を照らしていた。その頬を指でなぞる。恐ろしいほど冷たかった。無機質な冷たさは体温を分け合うことすらも拒んでいた。虚しい戯れだった。かつては美しく映えていた黒髪も色褪せてしまっている。抜け殻は所詮抜け殻に過ぎない。そこに魂がなければ、何の意味も価値もないのだ。……これが死だ。

ここにあるのは、作り物めいた美しさで横たわる抜け殻と、全てを覆いつくそうとする闇だけだった。
闇が暗いというのは間違いだ。闇は深くなればなるほど明るさを増す。こちら側は何も真っ暗で何も見えないが、向こう側は眩しいくらいに明るい。
生あるものは闇の明るさに抱きすくめられながらも、決して光に溶けることはない。死とは暗闇から開放され、光になることだと思った。身体は暗く冷たい土の底へ、魂は遠い空の果てへ。生と死の決定的な距離の差がそこにはあった。

「…………、」
男は口を開きかけて、やめた。言おうとした言葉、言わなくてはならない言葉はもっとずっと多くあったはずなのに、それらは全て闇へと消えていった。
きっと何年かかっても、この死は忘れられるようなものではないのだろう。少しずつ、少しずつ、長い時間をかけて受け入れるしかない。

男は無言で立ち上がり、腕を少年の背中と膝に回してその身体を抱き上げる。そして寝台に背を向け歩き出した。
月の光が舞い落ちる夜。少年の亡骸を抱きかかえながら、一人の男が闇の中へと消えていった。



(何かを始めるには、同時に何かを捨てなければならないのだ)





2009/09/08

流転(るてん):移り変わってやむことがないこと。


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