凍蝶13/葬斂


「正直な話……俺は紫龍に会いたくない」

彼らしくもない苦々しげな顔で星矢が言った。その場にいた沙織、氷河、瞬も、明確に同意するわけではなかったが、どう言葉にすればよいのか分からないといった面持ちで顔を伏せていた。
病院内の待合室で、4人は椅子に座ったままだった。紫龍の病室に入るのはいつでもできたが、どうしても腰を上げられずにいたのだ。
「日々弱っていく小宇宙を感じるだけでもつらいのに、その姿まで見てしまったら、僕は……」
その先の言葉を言うより先に瞬が声を詰まらせた。数週前に面会した時の、紫龍の痛ましい姿を思い出してしまったからだ。時が経過した分、彼の衰弱も比例しているはず。その残酷さに耐え切れる自信はなかった。

「もう俺たちがあいつに会っても意味は無いんじゃないか」
氷河の声は力強さの欠片も感じられず、ひどく弱々しかった。すっかり落ち込んだ様子で、今にも泣き出してしまいそうに瞳を潤ませている。
数週前の面会の後、一番ショックを受けていたのは氷河だった。氷河は紫龍と何を話したのかを決して皆に明かそうとはしなかった。ぼろぼろと滝のような涙を流しては紫龍の名を叫び続け、いつまでたっても泣き止まなかった。普段冷静さを心がけている分、溜まりに溜まった感情が涙と共に決壊したのだろう。沙織と瞬が2人がかりで宥めて、数時間かけてやっと落ち着いたほどだった。
あれ以来、氷河は情緒不安定だった。皆は紫龍についての話題を極力避けようとしていたが、「死」を連想させるような出来事に遭遇すると、すぐに押し黙ってしまう。それほどに、氷河にとって衝撃が大きかったということだ。

「けれど」
沙織が言う。
「わたしには……紫龍がまだ、あの日のままだとは思えないわ」
今の彼女は、“アテナ”と“沙織”の境界線に立っていた。聖闘士の死をも大きな愛で包み込む女神とも、ひとりの少年の死を嘆き涙を流す少女とも違う。
「……感じるの。紫龍の小宇宙は、ただ死に向かって弱まっていくだけではなくて、何か……とても穏やかに凪いだ感覚へと……」
「そうだ。紫龍は変わった」
言いよどむ沙織の代わりに、彼女のオクターブ下の声が言葉を引き継いだ。
「兄さん」
顔を上げた瞬がその声の主を呼ぶ。一輝は軽く片手を上げて応えた。待合室の椅子に座る4人の前へと歩み寄り、暗い顔をした兄弟たちを見下ろした。
「どうした、病室に行かないのか。……言っておくが、あいつはお前たちが思うほど弱い奴じゃない」
一輝は瞬を見、星矢、氷河、沙織、そして最後に紫龍の待つ病室へと視線を移した。

「信じてやれ、紫龍を」

4人は一輝を見上げた。そこには「兄」の姿があった。
信じることを、忘れてはいないか。この先の死という未来を嘆くばかりで、諦めてはいなかったか。
「……そうね、紫龍を信じなくては」
沙織は大きく頷き、星矢が勢いよく立ち上がる。他の2人もそれに続いた。
「一輝の言うとおりだ。オレたちが紫龍を信じてやらなくてどうするんだよ」
「紫龍に会う前から、僕たちが全部諦めていては意味がないものね」
「ああ。……紫龍は、俺たちの大切な兄弟なのだから」
そうして、その場にいた全員が立ち上がっていた。今まであれほど躊躇していたのが嘘のようだった。

皆が廊下の向こう、紫龍の病室へ目を向けると、病室からひとりの少女が出てきて、こちらへと近付いてきた。長い間紫龍に連れ添ってきた少女―――春麗だった。
「わたしからも、お願いします」
深々と頭を下げる。
「紫龍も、皆さんと話がしたいと言っていました。どうか……彼を信じて、会ってあげてください」
春麗は涙を流していなかったし、悲しみに沈んでいる様子もなかった。しかし星矢には、その姿がまるで、葬式の会場において「死んだ息子の死に顔と対面してあげて欲しい」と頼む母親のように思えてしまったのだった。



病室の扉を開けると、あたたかな春の光が来訪者たちを出迎えた。開け放たれた窓から吹く風は、カーテンだけではなく彼の長い黒髪を揺らす。
「沙織さん、星矢、氷河、瞬、それに一輝……久しぶり」
窓の向こうの景色に顔を向けていた彼が振り向いた。
「紫龍……」
沙織は彼の名を呼んで、けれどもそれに続く言葉を言う前に、はっと息を呑んだ。彼女の後に続く少年たちも同じように絶句していた。

日に当たらない者特有の、抜けるような白皙の肌。胃が食物を受け付けなくなって、痩身を通り越し折れてしまいそうな身体。そして、光を失い閉じられたままの眼。
それは少年たちが覚悟していた「最悪の場合」の姿そのものだった。痛ましさに思わず顔を背けてしまいたくなるほど、存在自体が儚すぎて、今にも消えてしまいそうで。
なのに、それなのに。――彼は、笑っていた。やさしくやさしく、微笑んでいた。
けれどもそれは、以前のように全てを諦めた者のそれではなかった。死がいつ訪れてもおかしくはないのに、それでもなお生きようとする者の穏やかな微笑みだった。
どうして、こんなにも、美しいのか。胸が詰まる。目尻が熱い。
「こちらに来てくれ……もっと近くで話がしたい」
彼の言葉に引き寄せられるように、5人はゆっくりと寝台の方へと歩いていった。ああ、彼の命が、消えてゆく。

「昔語りを、してくれないか。目蓋の裏に刻まれた記憶を、最後にもう一度見たいんだ――」

星矢は息を吸って、吐いて、それからまた吸って、大きな声で叫んでいた。
「……っもちろん、いくらでも、聞かせて、やるぜ!オレとお前が、初めて会った時のことから、全部、なにもかも……!」
言葉は途切れ途切れだった。思いばかりが先走ってうまく声にできず、喉がひくりと震えた。
星矢は笑っていた。そして泣いていた。
紫龍の眼が見えていなくて良かったと思う。こんな泣き笑いの酷い顔、見せられるわけがない。



グラード財団の元で過ごした幼少期の思い出、修行地から戻って7年ぶりに再会した銀河戦争でのこと、そして仲間として共に戦ってきた今までの記憶。何一つ取りこぼすまいと、星矢は必死に思い出して語った。隣で瞬や氷河が記憶の曖昧な部分を補足して語る。一輝は病室の壁にもたれて腕を組み沈黙を保っていたが、たまに一言二言、短い言葉で記憶の手助けをしてやった。
語ることで、覚えていようと思った。紫龍との記憶、すべてを。
紫龍は彼らの語る記憶に静かに耳を傾けていた。閉じられた目蓋の裏には、在りし日の記憶が鮮明に甦っているのだろう。時折相槌を打つ声は、とても懐かしげだった。

「ほら、そこでオレが一輝の胸倉掴んでさ――」
それまで休みなく喋り続けていた星矢の声が不意に途切れた。
「どうしたの星矢、」
不思議に思って声をかけた瞬も、それきり声を失った。沙織は「あっ」と一言発して硬直した。数秒もしないうちに彼女の頬が涙で濡れる。氷河と一輝は瞠目したまま動かない。
……相槌が無くなったのは、一体いつからだっただろう。あまりにも自然すぎて、5人の誰も「その瞬間」に気づくことは出来なかった。

紫龍の小宇宙が、どこにも感じられなかった。
彼の命は、とてもとても緩やかに、とてもとても穏やかに、世界に溶けて消えていた。
春の風が、彼を攫っていってしまったのだ。苛烈に生きた少年の、穏やかな最期だった。

5人はそれぞれに、紫龍の時間が止まったことを知った。それぞれに、彼の死を受け止めた。
星矢は泣きながら紫龍の名を呼んだ。沙織は静かに泣き崩れ、瞬がその肩を支えた。氷河は何も言わず、紫龍の抜け殻を見つめて涙を流した。一輝は腕を組んだ状態のまま顔を伏せた。彼の瞳がどのように揺らいでいたのかを知る者はいなかった。

どこからともなく響いた「ありがとう」という紫龍の声は、幻聴だったのかもしれない。
一羽の鳥が弧を描いていく。
皆が嘆き、悲しみ、泣く中で。ただ紫龍だけが、微笑みながら消えていった。



(この日が最後であるということを、わたしたちはどこかで知っていた)





2009/08/30

葬斂(そうれん):死者を葬ること。また、その儀式。


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