凍蝶10/玉塵


「……心臓、ですか」

ムウが尋ねると、少年は静かに頷いたようだった。肩の上下運動でそれを確認する。
ムウは終始顔を伏せ、少年の胸元に視線を落としていた。病で衰弱した少年の顔をどうしても直視したくなかったからだ。しかしその分、彼の身体がいかに痩せ細ってしまったかを知ってしまった。胸板が薄い。肉の削げ落ちた肩が弱々しい。理不尽なほどに、病は少年から生きる力を奪っていた。

「……あ……っ!」
不意に少年が身を折った。その右手は心臓を強く押さえている。……発作だ。
とっさに肩を抱いて身体を支える。少年は苦しみに耐えるように震えていたが、しばらくして発作が治まると、力無くムウの腕へ身を預けてきた。こんな頼りない姿を見るのはムウも初めてだった。
「紫龍、」
「大丈夫……今日はまだ、楽な方だから……」
額に薄く汗を滲ませて、少年はムウに心配をかけまいと言葉を繕う。けれども彼は、気付いてしまった。紫龍の目が、固く閉ざされていることに。ずっと顔を見ないようにしていたから分からなかった。

「紫龍……まさか、心臓だけでなく、目まで――」

それきりムウは言葉を発しなかった。もとより慰めなど無意味なのだ。同情や憐みではなく、ただただその理不尽さを呪った。
人を傷つけ殺めたことが、神に抗ったことが、罪になるというのなら。何故罪は我らに等しく与えられない。何故この少年にばかり罪を負わせようとする。神ですら不可侵の断罪に、成す術はどこにも無かった。
少年は自分自身を痛めつけることで強くなってきた。身体中についた傷は、14の子供には不釣合いすぎるほどだった。そうして今、積み重ねられてきた数々の代償が「死」として与えられようとしている。
こんな死が、こんな結末が、代償なのか。少年はただ、仲間を守ろうとしただけだというのに。目の光は失われ、心臓ももうすぐ止まる。何故……何故。

ムウは紫龍の肩を支えていた腕を放し、再び椅子に腰掛けた。目の見えない紫龍には分かるはずはないのに、それでもムウは視線から逃れるように俯いた。
「あなたが、」
情動に突き動かされたムウが、常の彼らしからぬ弱々しい声で呟く。
すべてを悟ったような、しかしそれでいて何も諦めきれていないようにも聞こえた。

「あなたが、聖衣であればよかったのに」

もしそうであったなら、自分はこの血をいくらでも捧げよう。
聖衣は、どのような状態であろうと修復が可能だ。オリハルコン、ガマニオン、銀星砂……そして、聖闘士の血。それさえあれば、たとえ死んだ聖衣でも甦らせることができた。傷一つない状態に至るまで、完璧に修復してみせる。
しかし人間は違う。人間というものは、ひどく脆い。
「紫龍、あなたは人間です」
ムウは静かに告げる。言外で、彼が助からないことを暗示していた。紫龍は何も言わず、ムウの言葉に耳を傾けていた。その表情は穏やかですらあった。

長い時をかけて師から受け継いだ修復の技。ムウは自分だけが持つその技術に誇りを持っていた。
だが、今になって思う。自分に出来るのは、戦士を守るための鎧を修復するだけで、直接的に彼らを守ることなどできはしない。修復技術など、結局は何の意味も持たないのだと。……なんて無力な。
「私があなたにしてやれることは、なにひとつとしてありません」
紫龍はおもむろにムウの頬へ手を伸ばす。掌に熱を持った雫が触れるのを感じた。それは涙と呼ぶものだった。

彼の瞳から溢れる涙を掬って紫龍は言った。
「その気持ちだけで、充分です」
ムウがどのような顔をして泣いているのかを見ることができない。けれどもきっと、彼は眉一つ動かさず、瞳を一切揺らがせないで涙を流しているのだろうと思った。彼は何の音も立てず泣いていたから。そうやって泣くのが、ムウという人だから。
ムウは紫龍の手に自らの手を重ねる。

「……あなたは強い人だ、紫龍」
「いいえ。俺がこうしていられるのは、皆が――そしてムウ、あなたが、俺の生きる道を望んで、俺の命を惜しんで、俺の死を悲しんで、俺のために泣いてくれている。だから俺は、笑っていられるんです」

……つらいだろうに。苦しいだろうに。
毎日、断続的に襲う発作の恐怖。光を失くした目。いつ訪れるかも分からない死。
どれひとつ取っても、簡単に乗り越えられるものではない。ともすれば、耐え切れず自分で自分の命を絶ってしまいかねないほどの重圧と苦痛。
きっと、人知れず苦しんでいるのだ。いっそ死んでしまいたいと思うこともあったはずだ。

けれども少年は笑う。虚栄ではなく心の底から。
死の恐怖に震える己を自覚しているからこそ。皆に支えられていると知っているからこそ。
それが少年の強さだった。優しさのような、強さだった。



(それすらも、いつかは雪のように消えてゆく)





2009/05/03

玉塵(ぎょくじん):雪の異名。


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