凍蝶08/空華


「病室に薔薇は似合わなかったかな」

ばさ、と派手な音を立てて、寝台の上に真紅の薔薇の花束が放られた。
白一色で埋め尽くされた病室の中で、その真紅は毒々しいまでに鮮やかだった。
「殺風景な病室には丁度良いアクセントになると思ったのだが」
「……これでは、良くも悪くも目立ちすぎですね」
「そのようだ」
花束の贈り主――アフロディーテは、苦笑しては見せたが反省する気はないようだった。薔薇の香気を吸って満足げに唇を吊り上げると、優雅な身のこなしで椅子に腰掛ける。

きれいなひとだ、と思う。
女性的な美しさとは違う、凛とした芯の強さを内包した美しさだった。かつて十二宮で敵対した時も、己の信念を決して曲げなかったという。その生き方の美しさが目に見えて現れるようになった姿が、アフロディーテという人なのかもしれない。

横顔に見惚れていると、不意に彼がこちらに目を向けた。突然のことに紫龍は狼狽したが、アフロディーテはそれにも構わず紫龍を凝視する。美貌に見つめられて赤面した紫龍が居心地悪そうに身じろぎしても、彼の視線は一向に外れようとしない。向こうが黙ったままなので、紫龍の方も何も言えなかった。紫龍にとって気まずい沈黙が流れる。

……そもそも、なぜアフロディーテは紫龍に面会しようと思ったのだろうか。
アフロディーテと紫龍、両者の繋がりはあまり濃いとはいえない。二人が初めて顔を合わせたのはシュラの紹介があったからだった。シュラとデスマスク、そしてアフロディーテの三人がよく一緒に行動していることは知っていたが、紫龍がアフロディーテと個人的な用事で会うのはほとんど無かった。仮にあったとしても、必ずシュラかデスマスクが二人の間に入って仲介しただろう。そのくらい、今こうしてアフロディーテが一人きりで紫龍に面会を求めるというのは珍しいことだった。

横目でアフロディーテをちらりと見ると、未だ視線を外そうとしない彼と再び目が合ってしまい、慌てて俯く。見たところ悪い気を起こしているような風ではなかったが、こうも凝視されると、自分は何か気に触るようなことでもしたのではないかと嫌でも疑ってしまう。
紫龍が沈黙に息苦しさを感じ始めたころになって、ようやくアフロディーテが口を開いた。

「――なんだ、大丈夫そうじゃないか」

あまりにも爽やかにそう言うものだから、紫龍は思わず聞き流してしまいそうになった。
だが言われた言葉を頭の中で反芻して、「え?」と声に出す。
「だから、大丈夫そうだ、と」
「……大丈夫そう、って」
前後の脈絡がまったくないせいで、紫龍にはアフロディーテの言葉の真意が掴めない。
彼のほうは全て自分の中で納得した上での発言だったようで、紫龍が困惑の表情を浮かべているのを見て、不思議そうに首をかしげた。
アフロディーテはしばらく考え込んだ後、「ああ」と頷いた。
「少し、言葉足らずだったか」
紫龍にとっては言葉足らずという問題だけは無かったが、アフロディーテは気にせず続ける。

「私が薔薇の花束を持ってきた理由から話すことにしよう」
彼の言葉は謎掛けのようだった。
花束を持ってきた理由と先程の「大丈夫そうだ」という発言がどこで一致するのか、紫龍には皆目見当も付かない。自分で考えても無駄な労力だろうと思ったので、おとなしくアフロディーテの説明を待つことにした。

「……私は、デスマスクがあんなふうに情けない顔をしているのを初めて見たのだ」

デスマスク。
その名が出た瞬間に、紫龍の方が少しだけ跳ねた。アフロディーテは紫龍から視線を外して窓の外を眺める。激しく降っていた雨の面影はなく、雨の後の澄んだ空が広がっていた。

「あの男の落ち込みようは酷かったぞ。濡鼠で帰ってきたと思ったら、目を真っ赤に充血させて。常に飄々とした態度を崩さない奴を、そうまで変えたのは何であったのか、私の興味はそこにあった。……そして出てきたのが君の名だ、紫龍」
アフロディーテは再び紫龍を見つめた。何もかも見抜かれてしまいそうな、アフロディーテの聡明な瞳。紫龍は今度こそ真正面からその視線を受け止めることができた。
「私は考えた。デスマスクや他の聖闘士たちが君の生を望むがゆえに、君は死ねずにいるのではないかと。もし君が、生きることも死ぬことも全て諦めた顔をしているようだったら……皆に代わって、この私が君を殺してやろうと思ったのだ」

アフロディーテは寝台に放られた花束から、薔薇を一輪取り上げる。
真紅の薔薇。今この状態であれば無害な美しい薔薇に過ぎないが、彼がひとたび小宇宙を込めれば、それはたちまち人を死へといざなう凶器と化す。双魚宮から教皇の間に続く魔宮薔薇は、香気をかいだ者を陶酔のうちに死なせることができた。病による苦しみと比べれば、遥かに穏やかで美しい死に方だ。
かつて偽教皇に荷担し、意に背く人間を悉く抹殺してきた自分は、何の躊躇いも無く少年の息の根を止めることができる。皆が、愛しさと憐れみによって少年を殺せないというのなら、その役目を代行しよう。そう思ったのは、アフロディーテなりの慈悲であるつもりだった。

「――しかし。どうやらそれも、私の思い過ごしであったようだ」
艶やかに、笑う。
「今の君は、とても良い顔をしている」
だから大丈夫だ、と彼は続けた。彼の手にした薔薇も、寝台の上に広がる花束も、もはや凶器に変わることはない。そこに在るのは、芳しい香りを放つ薔薇だけだ。

ありがとう、と紫龍が小さく答えた。
アフロディーテは、紫龍に面会した後のデスマスクの顔を見ただけで、全てを悟っていたのだ。数日前、一輝と話す前の状態だったなら、きっと殺されていただろう。そして死を歓迎していただろう。あの時までの紫龍は、アフロディーテが言ったように『全てを諦めた顔』をしていた。皆の悲しむ顔を見たくない一心で、早く死んでしまえたらいいのにと思っていた。
けれど今は違う。限りある命を生きたいと願う。瞳を見つめることで、アフロディーテは紫龍の意志の変化を知った。残酷すぎる真実は、時に人を強くする。

「私の思った通りだ」



(やはり君は、生きている方が美しい)





2009/03/09

空華(くうげ)
煩悩にとらわれた人が、本来実在しないものをあるかのように思ってそれにとらわれること。
病みかすんだ目で虚空を見ると花があるように見えることにたとえたもの。


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