凍蝶07/凋落


「全身びしょ濡れになったじゃねえか、くそ」

突然の来訪者は、とても「病人の見舞いに来た」とは思えない態度でのっけから悪態をついた。
数時間前までの小雨が嘘のように、外は強い雨が轟々と降りしきっていた。窓を叩く雨粒は時間を追うごとに激しさを増していく。
この空模様では誰も来ないだろうと思っていたところに現れたのが、目の前にいるこの男だ。豪雨の中を傘もささずに来たのか、全身から水が滴り落ちている。男が一歩進む度に、病室の床は靴から染み出た雨水で濡れた。

「俺様がわざわざ見舞いに来てやったのにその顔かよ」
そもそも見舞いに来いなどとこちらから頼んだ覚えはないし、雨が降っていると承知した上で来たのはおまえの方だろう。紫龍がそう反論しようとする前に、男は寝台にかけられていたシーツを乱暴に掴んで、濡れた体を拭いていた。病人に対する気遣い以前の ものが欠けている。この男にそれを要求するほうが無駄だ。

「……一体何の用だデスマスク。のたれ死のうとしている俺を嘲りにでも来たか」
「まあそんなところだ」
冷やかしだよ冷やかし、どれだけおまえが絶望的な顔をしてるのか一目見てやろうと思ってな。
何の気兼ねも無くあっけらかんと言い放たれた台詞に、紫龍は怒りを通り越して呆れた。
慰めの言葉を求めていたわけでは決して無かったが、相手が死に瀕しているというのに、あまりにも常日頃と変わらない振る舞いをする男。この男とは決定的に馬が合わなかった。たとえ何があろうと、皮肉と悪態をぶつけ合う関係は微塵も揺らがない。
不快を露わにして睨みつけると、男は小さく溜息をついた。

「青銅の餓鬼どもが泣き喚いてんのが耳障りだったが……死ぬんだってな」
紫龍は答えない。おまえに教えてやる義理は無いというように、睨みつける鋭さを増すばかりだ。
「黄泉比良坂に何度放り込んでやっても還ってきた人間が病死か。……身体の構造おかしいんじゃねえの、おまえ」
そんなことはこちらの方が知りたいくらいだと言おうとして、口を開きかけたところで紫龍は止まった。

「身体に付いた傷なら、薬なり包帯なり、いくらでも手当てはしてやれるんだ」
吐き捨てるような声音も、人を見下したような表情も。常日頃から衝突を繰り返していた時のものと、なんら変わりは無い。だが、男の目だけが違っていた。
皮肉に光る目ではなく、別の色を宿した瞳。その『色』に紫龍は見覚えがあった。死の宣告を受けてから幾度となく見てきた、『残される』こととなる人達―ー星矢や瞬、氷河たち――の目の色に似ていた。
あからさまな悲しみを露わにしているわけではない。だが確かに、男の目は静かな悲哀で揺れていた。

「……なのに、おまえってやつは、目に見えない内側から壊れていきやがる」

紫龍の胸が、ちくりと痛んだ。
なぜ、そんな目をする? デスマスクという名が表すように、おまえは数え切れないほどの死と向かい合ってきたのではなかったか。ましてや俺とおまえは相容れぬ者同士で、相手の為に悲しむことなどあるはずがない。……そのはずだ。互いを疎ましく思い合うことこそが、 俺たちの間にあるべき繋がり。
そうやって築いてきた関係を崩したのは、他でもない。紫龍という少年の『死』だった。

ぽたり、ぽたり。
濡れた髪から滴る水滴が、小さな音と共に落ちていく。男の頬を伝う透明な雫が、雨粒の名残なのか、それとも悲しみによって引き起こされる『涙』であるのかは分からなかった。
「餓鬼の癖に無理するからだ。この、莫迦が」
それきり男は口を開かなかった。その場に立ち尽くしたまま動かない。代わりに、震える肩から嗚咽が漏れた。
……数え切れないほどの死を、見届けてきたからこそ。紫龍という、たったひとりの人間の死が。たとえようもなく、重い。

この男が涙を流す理由が自分にあると気付いて、紫龍はいてもたってもいられなくなった。何か言わなければならないと思っても、言葉が口をついて出てきてくれない。
だから、手を伸ばした。男の顔に手が届く位置まで、その長身を引き寄せる。始めて触れた彼の頬は、雨に打たれたこともあって酷く冷たかった。涙の流れる筋だけが、まるで別の生き物のように熱を持っていた。男は嫌がるそぶりも見せず、紫龍のなすがままに任せていた。
紫龍の指が頬から髪へと滑る。しっとりと濡れて水分を含んだ髪は、病室の蛍光灯から落ちる光を反射して、きらきらと輝いていた。毛の一本一本が細いせいで、その銀色はするすると指の間を通り抜けていく。

ふと、男が顔を上げた。ごく自然に両者の視線が重なる。
こんなに近くで向き合うことを、今までしてこなかった。それゆえに、初めて触れた銀の髪、涙を湛えた赤い瞳の美しさを、とても尊いもののように感じた。
「デスマスク」
耐え切れず、紫龍は男の背中に腕を回した。『抱き締める』や『抱き寄せる』と言うよりは、『掻き抱く』という表現の方が相応しい。そうしなければならないと本能が告げたのだ。その行為に理由は必要ない。ただただ、抱いて、抱いて、抱いて。

男はしばらくの間動かないでいたが、やがて紫龍の抱擁に応えるようにして、その腕を紫龍の背に回した。少年の腕は、広く大きい背中へ。男の腕は、痩せた薄い背中へ。
――こうして、何の感情も挟まず、一心に抱き締め合いたかったのだ。
言葉による上辺だけの理解ではなく、掻き抱くという行為によって。分かり合えずにいた過去の分をも全て掬い上げるように。
その願いを叶えるまでに、たくさんたくさん傷つけ合って、長い長い時間がかかってしまったけれど。

窓の外で、雨は変わらずに降り続ける。
『涙の雨』と呼ぶにはあまりにも、激しすぎる雨だった。



(俺も、おまえを壊せない)





2009/03/08

凋落(ちょうらく)
@花や葉がしぼんで落ちること。
Aおちぶれること。落魄。
B容色などが衰えること。
C人間が衰えて死ぬこと。


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