凍蝶06/淵源


「泣けたのだな、紫龍」

見舞いの品である林檎を寝台の脇に置いて童虎が言った。
窓の向こうに広がる空には厚い雲が立ち込め、わずかながら雨が降り始めていた。細かい雨粒が、病室の窓を叩く音が聞こえる。
空と紫龍を交互に見やって、笑う。弟子を慈しむ笑みだった。
「はい」
紫龍が素直に答えた。
「けれど何故、俺が泣いていると分かったのですか?」
「そんなもの、おぬしの顔を見れば一発で分かる」
どうやら、師には何もかもお見通しのようだった。『泣けた』と表現したのも、紫龍が涙を押し込め続けていた事実を知った上での言葉だろう。やはりこの人には敵わない。
童虎は椅子に腰掛け、器用な手つきで果物ナイフを操り林檎を剥いていく。固いものを咀嚼するのが難しくなってきた紫龍のため、普通に食べる大きさよりも少し小さめに切り分けてくれていた。些細な気遣いではあったが、それが今の紫龍にはとても嬉しかった。

「一輝はな、あの五人の中では最もおぬしの事を理解していたように思うぞ」
林檎の皮を剥きながら童虎は言う。その節くれ立った指が動くたびに、林檎は兎の形へと変わり、白い皿の上に乗せられていく。
「二時間ほど前のことだったか。ロビーで待っていたあやつは、氷河が病室から出てきた時、真っ先にわしの方を見たのじゃ」
一輝の眼は、まだ行くな――と無言のうちに語っていた。

彼は、紫龍が泣けずにいるのを知っていたのだ。師である童虎に、無様な姿を見られたくないと思っていることも。そして、紫龍の涙を受け止めてやれるのは、兄である自分だけだということを確信していた。
「だからこそ、一輝はおぬしの涙を引き出せたのであろうな」
「…………」
紫龍は顔を伏せて、兎をかたどった林檎を見つめていた。
『泣きたいなら泣け』、そう言って自分を抱き締めてきた兄を思い返す。あの時の自分に何よりも必要だった言葉を、一輝はくれた。あの言葉が、あの腕の強さがあったから、自分は泣けたのだ。

「……俺は、諦めることをやめました」
童虎の手によって、兎の最後の一匹が完成するのを見届けてから紫龍が口を開いた。
童虎は視線を紫龍に移す。そこには、鮮やかな微笑みが花開いていた。
「死ぬと分かっているからこそ、生きようと思います。皆が俺の生きる道を願ってくれるからではなく、自分自身の意志で。この命が燃え尽きる最期の瞬間まで、一刹那でも今を生きる――そう決めたんです」

口癖のように「死は覚悟の上」とあれほど言っていた紫龍。その彼が、死ぬ覚悟ではなく「生きる覚悟」を決めた。なんと清々しい顔なのだろう。
死という現実に打ちのめされ、諦観を知った悲しい微笑みとは違う。生も死も全て悟りきった者のそれとも違う。今を生きようとする人間の顔だった。
残りわずかの寿命を抱えているとは思えないほどに晴れやかで、鮮やかで、美しい。微かに残る泣き腫らした涙の後さえも、彼を美しく彩っていた。

童虎は目を細める。
……眩しい。紫龍の微笑みが、眩しい。

「実はな、紫龍」
今の紫龍になら言っても大丈夫だと思えた。童虎は言葉を続ける。
「わしは、後悔しておったのじゃ」
「後悔?」
「ああ。おぬしを弟子に取り、聖闘士に育てるべきではなかった、とな」
紫龍がはっと息を呑んだ。
「おぬしが病に侵されていると女神から聞いて、とっさに思い当たることがあっての」

紫龍が始めて五老峰へやってきた時のことだ。童虎は、小さな少年の中に、凡人とは違う特別な『何か』を見出した。それは聖闘士の素質だとばかり思っていた。だが、紫龍の命が潰えようとする時になって初めて、決定的な疑問が湧いたのだ。ともすればそれは、内に潜む死の影だったのではないか、と。
そして後悔が童虎を襲った。あの時、『何か』の存在をはっきりと分かっていさえすれば。紫龍がこれほどまでに戦い傷つき、病という絶望的な死の淵に立つこともなかったはずだ。もっと穏やかな死を迎えられたはずだ。
悔いは尽きなかった。我が子のように愛してきたからこそ、後悔は大きかった。

「……だが、違った」
童虎は立ち上がり、紫龍の肩に手を置いた。強張っていた紫龍の身体から、ふっと力が抜ける。
「今、おぬしに会って話したことでやっと分かった。わしは要らぬ後悔をしていた。あの時わしが感じた『特別』は、死の影などではない。おぬしの持つ『生きる力』だったのじゃ」

とても自然に、童虎は紫龍を抱き締めた。呼吸をするよりも自然な抱擁だった。
大きな二本の腕が背中へと回され、優しく撫でられた。あたたかな体温が紫龍の身体の中へと流れ込み、命を分け与えてくれているように感じた。
紫龍は父も母も知らなかったが、こんな優しいぬくもりをくれる人を、父と呼ぶのだろうと思った。
血の繋がりだけが『家族』の資格ではないのだ。血が水よりも濃いというのなら、その血よりも濃く深い、確かなものが此処に在る。
『絆』という言葉では表しきれない繋がりの存在を、紫龍はあたたかな優しさと共に感じていた。



(わしは、おぬしの源になれただろうか)





2009/02/24

淵源(えんげん):物事の起こり基づくところ。根源。みなもと。


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