凍蝶05/落涙


「瞬から聞いた。……死ぬのか、お前」

いつのまにか、一輝が病室の隅に佇んでいた。彼はいつも気配を消している。それでも、以前なら気付けたはずだった。声をかけられるまで気配を感じ取れなかったのは、自分の小宇宙が衰えている証拠だと思った。
自嘲気味な思考をしている間にも、一輝は紫龍をじっと見つめて動かない。返答を待っているのだ。

「そうだ」
なんでもないことのように、答えた。
「俺は死ぬ」
「死ぬしかないのか」
「ああ。手遅れらしい」
紫龍の声は冷静だった。やけに事務的なのは、今までに何回も同じ返答を繰り返してきたからだ。
死亡宣告を本人から聞いたにもかかわらず、一輝は少しも動揺する素振りを見せなかった。そもそも一輝が瞬以外の人物に関心を向けたりするのを紫龍は知らない。幾度となく死線を彷徨ったことのある紫龍が今更「本当に」死ぬと分かった所で、取り乱す一輝ではなかった。

「自分が死ぬというのに、随分と他人事のような口調だな」
「他人事だからさ」
紫龍は笑ってみせた。
そう、他人事。実感が伴わずにいる。死の存在を知らされてから数週間が経とうとしていたが、未だに自分のことだとは思えなかった。筋肉の落ちた体がげっそりと痩せ細り、食事も喉を通らなくなって、死への準備は着実に進んでいるはずなのに。
「……どうしてかな」
唇を歪めた。一輝に対して明確な答えを求めての問い掛けではない。自分に向けた自嘲だった。
一輝は黙ったままだ。しばらくの間、沈黙が突き刺さる。だからといって場を繋ぐための会話を持ち出そうとはしなかった。無音の時間が、侵しがたい沈黙であるように思われたからだ。
その沈黙を破ったのは、意外にも普段無口な一輝の方だった。

「簡単なことだ。死にたくないからだろう」

白いシーツに視線を落としていた紫龍が、虚を突かれたように顔を上げた。
一輝は紫龍を見つめ続けている。目が合った。

「……誰が?」
「お前が」
「……俺が?」
「そうだ。お前は何もかも諦めたふりをして、死の恐怖を感じないようにしている。死を認めたくないから、他人事に思える。……本当は、怖くて仕方がないくせに。いつもの痩せ我慢は止めろ」

あくまで淡々と一輝は言う。核心を言い当てられたような気がして、紫龍の肩が微かに震えた。
そうだ、この男は自分の兄なのだ。見抜かれないわけがない。
「死にたくないんだろう。生きていたいんだろう。自分に嘘をつくな。無理に笑うな。見ているこちらが苦しくなるだけだ」
語られる言葉は、重かった。言葉が重ねられていくごとに、張り詰めていた糸が、ふつりふつりと切れていく。

泣かぬように、弱さを見せぬように。笑顔だけが、皆の記憶に残るように。泣いては皆を困らせる。だから諦めてしまえ。
もとより生きようなどとは思うな。多くの命を奪ってきたお前が「死にたくない」などと願うのは許されない。死は最初から定められた運命だと思え。死はすべての命に与えられるものだ。その時が人よりも早く訪れてしまうだけの話、何を恐れる必要がある。諦めろ、諦めろ。
――そう言い聞かせながら、ずっと自分を騙していた。
けれど一輝は、あっけなくそれを見抜いてしまった。
強い力で紫龍を引き寄せる。紫龍の顔を見ないようにしながら、耳元で小さく囁いて。

「泣きたいなら、泣け。ここには俺しかいない」

落涙。

はらり、はらり、涙が溢れる。
溜め込んでいた涙はようやく、流れる場所を見つけた。そこは、『兄』の腕の中だった。
声に出さず、紫龍は叫んだ。

あきらめることなんて、できない。
ほんとうは、しにたくない。ほんとうは、いきていたい。
またみんなとわらって、しあわせをかんじて、わらって、わらって。

肩口で響く小さな嗚咽を、一輝は黙って聞いていた。



(叶わない願いであるなら、今はただ泣けばいい)





2009/02/09

落涙(らくるい):涙をこぼすこと。泣くこと。また、その涙。


[ index > top > menu ]
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -