ゆめのまにまに


デフテロスは森の中を足早に歩いていた。目指すのはいつものあの場所だ。最近心的な疲労が溜まっていたため、少しでも休息をとりたかった。目的地である森の中の水辺に着くと、デフテロスは大きく深呼吸した。新鮮な空気が肺を満たす。それと共にささくれ立った心も溶かされていくようだった。やはりここは良い。人は滅多に来なくて静かだし、何より空気が澄んでいる。

大きく伸びをしたデフテロスの視界の隅に、何か黄色いものが映りこんだ。黄色……いや、金色だ。目線を左下のほうへと移したデフテロスは思わず叫び声を上げた。
「うわ……っ!?」
飛び出た声が予想外に大きくて、慌てて手で口を塞ぐ。金色の「何か」は、人だった。しかもデフテロスのかなり近くにいた。小宇宙も気配もまったく感じなかったのはどういうことだろう。今の今までこれほど近くにいながら存在に気付けなかったことに衝撃を受けた。

恐る恐る、その「人」に近寄ってみる。見たことの無い異国の服を着た少年だった。デフテロスよりも年下と思われる。さっき見た金色は少年の長い髪だった。
座禅を組んだままぴくりとも動かない。流石に死んでいるとは考えにくかった。もしかしたら眠っているのかもしれないと思い顔を近づける。……綺麗な顔をした子供だ。睫毛は長く肌も白くて、

「人の瞑想の邪魔をしたかと思えば、不躾に何の用かね」

――驚きすぎて悲鳴すら出なかった。
人形のように動かなかった「それ」がいきなり声を発したのだ、デフテロスの心臓は瞬時に早鐘のように鼓動を速めていた。
「お、起きていたのか」
「私の目は生来閉じられているのでね。……それより君は何者だ?声を聞く限りでは双子座の聖闘士によく似ているようだが、小宇宙が微妙に違う」
デフテロスはこの謎の人物に名乗ってもいいものかと逡巡した。他人との会話は原則禁じられている。だが見たところ、この少年はそういった規則には関心が無いように見える。それに不躾な行動を出たのは自分だ。名乗らぬ方がかえって不自然だと思われるだろう。

「……俺はアスプロスの双子の弟、デフテロスだ」
すると少年は意外そうに眉を持ち上げた。
「なるほど、弟か。……私は乙女座のアスミタだ」
乙女座という単語を聞いて、成程なと思った。噂で小耳に挟んだことがある。今代の乙女座は、アテナの聖闘士でありながら異国の神を信仰していると。どうりで泰然としている。アスミタが身に付けている見慣れない服も、おそらくはその宗教での修行者が着るものであるようだ。

デフテロスはこの少年に興味が沸いた。自分が双子座の弟、つまり「影」であることを知っても態度が変わらなかったというのも印象がよかった。単に知識が無いだけかもしれないが、先入観なしに自分を見てくれる人間に久しぶりに出会えたことが嬉しかった。
対するアスミタも、デフテロスに対して関心を抱いていた。双子座の影についてはある程度知識として知っている。実際に会うのはこれが初めてだ。なるほど「災いをもたらす凶兆」などというのはやはり愚者の妄言らしい。
何よりアスミタが惹かれたのは「影」としてのデフテロスよりも、彼の抱える心の迷いだった。他の人間とは違う深い闇のようなものを感じる。その迷いを生み出す闇とは何なのかを知りたくなった。

かくして、まるで性格の違う2人の接点が出来た。
しばらくの間互いの出方を見るために沈黙が流れたが、やがてどちらともなく語り出した。気候についての他愛無いやり取りから始まり、思想や宗教の話に至るまで。




話し始めてから3時間ほどが経った頃になっても、会話は途切れる気配を見せなかった。今まで他人と長話をする機会に恵まれなかったデフテロスはここぞとばかりに滝のように喋り倒し、アスミタはそれを聞きながら一言二言相槌を打ち、時折持論を展開する。2人の考えはばらばらにもかかわらず、会話は驚くほど弾んだ。
影として生きる者と、異国の神を信じる者という、聖域の理から外れたもの同士で引き合うものがあるのかもしれない。
「お前が変人でよかった」
「それは褒め言葉として受け取っておくべきかな」
時にはこんな軽口まで叩けるほどに打ち解けていた。

会話が不意に途切れる。アスミタとデフテロスは同時に顔を上げた。
「この小宇宙は……」
デフテロスが感じたことの無い、しかしそれでいて懐かしさのようなものを感じる小宇宙が近づいてくる。誰だ、と思うやいなや、木陰から小さな影が飛び出してきた。
「あ、やっぱりここにいたのねアスミタ!」
幼い少女が満面の笑みを湛えながら、アスミタに駆け寄っていく。あの小宇宙の持ち主がこんな少女だったことにデフテロスは驚きを隠せない。

「アテナ、またお一人で散歩ですか。こんな森の奥まで来るとは感心しませんね」
「だ、だって、アスミタの小宇宙を感じて嬉しくなっちゃったんだもの……!」
「……この小娘がアテナ!?」
「きゃあっ!?」
驚愕のあまり鋭い叫び声を上げてしまった。少女は小さく悲鳴を上げて飛び上がる。デフテロスがいたことに気付かなかったようだ。デフテロスを「怖い人」と思ったのか、肩を竦めてアスミタの陰に隠れてしまった。そこでデフテロスはやっと我に返り、慌てて少女に向かって膝をついた。
未だにこの少女がアテナだということが信じられなかったが、感じられる小宇宙は確かに人のものとは違う。それに少女はアテナの象徴である黄金の杖を手にしていた。疑う余地は無い。

「失礼しました。まさか貴女様がアテナだとは思わず、無礼を働いてしまったことお詫び申し上げます」
そして深々と礼をする。少女の怯えた表情が幾分弱まり、恐る恐るアスミタの背後から顔を出した。
「……あなたは誰?」
「デフテロスと申します」
デフテロス、と少女は独り言のように呟いた。じっとこちらを見つめて視線を外さない。
「どうして仮面をつけているの?」
きっと訊かれるだろうと思っていた問いだ。これだけはいくらアテナでも教えられない。
「……申し訳ありませんが、それは込み入った事情ゆえ、お答えできないのです」
「……そっか。ごめんね」

少女の瞳から怯えが消え、代わりに好奇心が宿った。膝をつくデフテロスの元へゆっくりと歩み寄り、その場にしゃがみこむ。少女は首を傾げながらデフテロスを見上げた。
「……あなたの素顔、見せてもらっちゃだめ?」
何のてらいも無い素朴な願いだった。デフテロスは面食らう。ただでさえ人と接触するのは禁じられているというのに、更に素顔まで見せるというのは如何したものか。相手はよりによってアテナだ。うまい言い逃れを求めてアスミタに視線を向けても、相手は我関せずといった風に、面白そうにこちらのやり取りに耳を傾けているだけだ。ついには「いいのではないかね?他でもないアテナの頼みなのだ、願いを聞き入れるのが筋というものであろう」などと茶化してくる始末だ。
期待して待つ少女の視線に、とうとうデフテロスは折れた。もうこの際どうにでもなれと自棄になったといってもいい。
仮面を外したデフテロスの素顔を見た少女は歓声を上げた。満面の笑みだった。

「やっぱり私、素顔のままのあなたが好きよ!」

その言葉を聞いた瞬間に、心の底で淀む暗い闇がふっと消えたような気がした。
デフテロスは大きく目を見開いて少女を凝視する。身動きが取れなかった。価値観も考え方も、何もかもが覆されてしまうのではないかと思った。少女の、アテナの一言が。
「あ」
デフテロスの変化に気付かない少女は不意に声を上げる。
「そうだわ、早く帰らないとみんなが心配しちゃう!……それじゃあ、アスミタ、デフテロス、またね!」
軽やかな足取りで少女は今来た道を戻っていった。賑やかだったその場に再び静寂が訪れる。デフテロスはまだ固まったままだ。アスミタは溜息を一つつき、両手を上げてパン!と手を鳴らす。その音でやっとデフテロスの硬直状態が解除された。

「……あ、ああ、もう行ったのか、アテナは」
「随分と衝撃を受けているようだったが、それほどにあの少女がアテナだということが驚きだったかね?」
「……そうかもしれん」
デフテロスは大きく伸びをして、それからアスミタの隣の芝生に寝転がった。草の匂いを吸い込んで何とか心を落ち着かせようと試みる。
穏やかな沈黙の後、デフテロスが静かに口を開いた。

「――……俺は、かつてアテナを恨んだことがあった」
「恨む、か。これまた俗な響きだな」
「そう言うな。昔は恨まずにはいられないほどの辛酸を舐めていたのだ。双子座の影という虚像を作り出した聖域も、そいつらが奉る女神も、何もかも恨んでいた。自分にこんな仕打ちを与えるものは全て滅んでしまえばいい、と」
よく子供が陥る思考回路だった。今でこそ達観して自分の立場を全うできているが、当時の苦痛は忘れない。アテナを含めた世界全てを恨んでも恨みきれなかった。
「だが、今日初めて会ったアテナは、まだほんの子供だった……そこでやっと気付けたのだ。掟だの何だのと騒ぎ立てているのは、女神でも教皇でもなく、その下にいる神官どもにすぎんことをな」
「君はとっくの昔に気付いているものだとばかり思っていたが」
「皆が皆、お前ほど悟りきれているわけじゃない」

空を仰ぐ。青々とした美しい空だった。空の色は、それを見る者の心一つでこんなにも違う。
「なぁアスミタ。お前、この場所にまた来る予定はあるか?」
「あるとも。処女宮は人通りが多くてかなわんからな。ここなら静かで空気も澄んでいる。瞑想するには最適だ」
「そうか」
デフテロスは笑った。この場所を知る人間がまた2人増えたわけだが、気になりはしなかった。ひとりよりも隣に誰かがいる方が心地よいと感じるようになったのはアテナのおかげだろうか。女神というのは時に無意識に人の心を救ってくれるらしい。
「……おや。今、君の心から迷いが一つ消えたようだ」
「それはよかった」

心の重荷からの開放と共に。
デフテロスは今日、新たな友人をひとり得た。



(たまには現の夢を楽しむのも、良いものだ)





2009/10/22


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