テロメアの悪夢


弟は優しい兄が大好きでした。兄も自分を慕ってくれる弟が大好きでした。二人の立場には天と地ほどの差がありましたが、兄弟の絆には何の隔たりもありませんでした。兄は光で弟は影。互いに互いがなくてはならない存在であり、彼らは二人でひとつだったのです。

ある日のことです。弟が兄のもとへ、白くて丸くてふわふわした生き物を抱えてやってきました。
「にいさん、このこ」
そう言って差し出されたのは、赤い目をしたうさぎでした。そのうさぎは足に傷を負っていました。きっと他の動物にやられてしまったのでしょう。
弟が怪我をした生き物を連れてくるのは一度や二度ではありませんでした。双児宮に動物のいない日はなかったくらいです。弟は必ず拾った動物をどうするべきか兄に伺いを立てます。自分ひとりで勝手に動物の世話をしようとはしませんでした。兄弟の間に秘密は作らないと、互いに決めていたからです。

むやみに動物を拾ってきては駄目だろう、という叱りの言葉を兄は飲み込みました。うさぎの潤んだ目が、どこか弟に似ていると思ってしまったからです。弟がなぜいつも動物を拾ってくるのか、その理由をなんとなく理解しました。怪我をして動くことができず、仲間からはぐれてしまった動物の孤独な姿に自分と同じものを感じて、つい拾ってきてしまったのかもしれない、と。

「……いいよ。俺たちで世話をしよう」
兄は反対することができませんでした。すると仮面をつけた弟の顔は途端に嬉しそうな表情へ変化して、ぱぁっと花が開いたような微笑みが広がりました。弟はいつも悲しそうな顔をすることが多いのですが、こういう時はとてもとても幸せそうに笑います。兄はその笑顔が大好きでした。
「ほんとうに?」
「うん、ほんとうだ」
大切な弟がいつまでも笑っていられるような世界を作るために、ひたすら前へ前へ進んでいく。それが兄の存在理由でした。



うさぎは双児宮で兄弟がふたり一緒に面倒を見ることになりました。怪我をしていたうさぎは、最初のうちこそびくびくと震えていましたが、兄弟たちの素直な優しさを受け取って、次第に懐いてゆきました。ふわふわなうさぎを腕の中で抱き締めると、弟は決まって幸せそうに笑います。弟が笑ってくれるので、兄もうさぎが大好きになりました。たくさん一緒に遊んで、たくさん餌をあげました。うさぎは兄弟たちにとって家族も同然の存在でした。

うさぎを飼い始めてからひと月ほどが経った日のことです。
弟はいつものように、餌のにんじんを両手に抱えて双児宮に向かっていました。餌やり当番は一週間ごとに交代するようにしていて、今日からは弟の当番になる予定だったからです。
双児宮には兄がいるはずでしたが、なぜか水を打ったように静まり返っていました。不思議に思って辺りを見回すと、宮の隅に兄が気配を殺して立ち尽くしているのを見つけました。
「にいさん」
どうしたの、と声をかけようとした弟は、それきり言葉を失いました。大きく目を見開いたまま、手にしていたにんじんを取り落としてしまいます。にんじんは冷たい床の上に転がって空しい音を立てました。

「うさぎ……死んじゃった」

兄がぽつりと乾いた声で呟きました。その声に温度は感じられませんでした。今まで見たこともないような兄の姿に、弟は少しだけ怯えてしまいました。
兄は無表情でした。世界から色彩が消えて、白と黒だけしか映らなくなりました。……なにかが違う。そう思った瞬間、弟の体に震えが走りました。
床に視線を落とします。黒ずんだ丸い塊が、兄の足元に転がっていました。動かない兄の横を通り過ぎて、弟は無意識のうちに床にしゃがみこんでその塊に手を伸ばしていました。ほんとうはいつものように抱き上げるつもりでしたが、その塊に指先が触れるやいなや、反射的に手を引いてしまいました。……とても、とても、冷たかったのです。
うさぎに触れた指の先から全身に、たちまちその冷たさが染み渡ってゆきました。
昨日まで、白くてふわふわで触ると気持ちよかった「うさぎ」だったそれは、すっかり冷たくなって、黒ずんで、かちこちに固まって、あのうさぎの面影なんてどこにもありませんでした。確かに見知ったものであったはずなのに、まるで別のモノになってしまったかのようでした。

「……どうして」

震える声で弟が言いました。兄は答えません。どうしてなどと問わずとも、分かりきった事実でした。死んだうさぎの腹は、ぱんぱんに膨れていたのですから。
餌やり当番だったこの一週間、兄が何をしたのかが分かってしまいました。きっと、兄はうさぎをとてもとても可愛がって、とてもとても大事にして、とてもとても甘やかしたのでしょう。餌をたくさんあげればうさぎは喜んでたくさん食べる。兄は嬉しくなってもっと餌をあげて、うさぎは更に喜んでもっともっと食べる。それを何度も繰り返して、やがて。
――――うさぎは、胃袋が破裂して死んだのです。
愛は与えすぎると時に暴力となります。うさぎは、兄の過剰な愛を受け止めきることができませんでした。そしてうさぎの小さな体から溢れ出た愛の残滓は、そこらじゅうに死をばらまきました。
死。うさぎは、死にました。死にました。……死にました。

「死んじゃった」

兄は先程と同じ言葉を繰り返しました。感情のこもらない声でした。死んだうさぎの体よりもなお冷たい空気を、背中に受けて、弟はその場から動けませんでした。振り向いて兄の顔を見ることは叶いません。弟はその日、生まれて初めて兄を怖いと感じました。
「死んじゃった」
まるで壊れた人形のように、兄は一定の調子で、死んじゃった、と言い続けます。その声と共に、世界の崩れゆく音が耳の奥で反響するのを、弟は震えながら聞いていました。



(優しさも、愛も、そして憎しみも、お前が与えるものはいつだって大きすぎる)





2009/10/25

【テロメア(telomere)】
染色体の末端部にある構造。
細胞分裂が起こるたびに末端から短くなり、一定の長さまで短くなると分裂しなくなる。
クローンを作成するとき、テロメアは対象の年齢分だけ短くなっているため、その分クローンの寿命は短くなる。


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