はつ恋 1


何か特別なきっかけがあったわけではないし、急な心変わりが生じたわけでもない。おそらくその別れはずっと前から決められていたことであり、そう遠くはない未来に必ずやって来る運命であると互いに分かっていたことだった。
二人はいつものように戯れに触れ合い、戯れに口付けを交わした。何気ない、そして何ひとつ変わらない日常であるはずだった。けれどもその日常はサガによって幕が下ろされることとなった。

肩を引き寄せようとして伸ばしたアイオロスの手が空を掻いた。サガが咄嗟に身を引いたのだ。
「サガ?」
どうしたんだ、と尋ねても返答は得られなかった。近寄ろうとしてもその分だけ後ずさることで距離は縮まらなかった。
「……もう、やめよう」
俯いて、震える声で、彼は言った。とても小さな声だったために耳を澄まさなければ聞き取れないほどだった。しかしアイオロスにははっきりと届いた。明確な拒絶だった。
「やめよう、アイオロス」
サガの顔は髪に隠れてよく見えなかったが、握り締めたその手が小刻みに震えていたために、彼が今どのような表情をしているのかは容易に想像がついた。……きっと、泣きそうな顔をしているに違いない。サガが泣く時はいつもこうして俯くのだ。
「やめるって、何を」
言おうとしていることは痛いほど分かっていたが、それでも聞き返さずにはいられなかった。サガは俯いたまま、か細い声で言う。

「――私とお前の関係を」

息を呑んだ。世界の時間が止まったと思ったからだ。だがすぐに錯覚だと気付く。止まったのは世界ではなく、アイオロスの時間であると同時にサガの時間であり、また二人の関係でもあった。アイオロスはサガの震える身体を抱き締めたい衝動に駆られた。今ここで、声も出ないほど強く抱き締めてしまえば、その言葉を取り消せるかもしれないと思ったからだった。しかし、できなかった。――何もかもを拒絶して「なかったこと」にするには、二人の思い出は多すぎたのだ。たった今、サガを抱き締める権利はアイオロスの中から消失した。

「サガ」
もう一度名を呼ぶ。サガとは対照的にアイオロスの声は酷く落ち着いていた。……ずっと前から分かっていたことだった。遅かれ早かれ二人は別れなければならないと。そしてその別れを切り出す役目はアイオロス自身にあるはずだった。サガが負うには重過ぎる。だから自分が早く別れを告げるべきだ――そう思い続けながら、一体どれだけの時間が過ぎてしまっただろう。結局、自分はサガの隣にいるということの心地よさに甘えていた。自分を騙し続け、いつまでもいつまでもこの関係が続くことを信じようとしていた。その甘さがサガをここまで追い詰めた。言わせてはならないはずの言葉を、別れを、言わせてしまった。

「すまない」
アイオロスは謝ることしかできなかった。かけるべき言葉ならいくらでもあっただろうに、まるで霧がかかったように肝心の言葉が浮かんでこない。サガは一度大きく肩を震わせて、それから頭を上げた。今度は瞳を逸らさなかった。視線が交差する。
「……すまない」
無駄だと分かっていながら言葉を重ねる、己の無力さを呪った。これが自分だ。英雄と呼ばれた男の姿だ。大切な人間を追い詰めて傷つけることしかできない卑怯さの塊だ。
サガは一歩、二歩と後ずさっていった。二人の距離が遠くなる。やがて五歩離れたところでサガの後退は止まった。背中が壁についたのだ。もうサガの方から離れることはできない。この距離が変わるとすれば、それはアイオロスが動いた時だけだ。

天窓から一条の陽光が降りてきて、薄暗い部屋に明るさを広げた。光に照らされたサガは微笑んだ。先ほどまでの怯えた表情とは裏腹に、笑みが形作られていく。そして同時に、泣いていた。泣きながら笑っていた。涙がとめどなく流れるのにも構わず泣く。瞳には悲しみや痛みといったありとあらゆる負の要素で満ち溢れているというのに、涙は驚くほど澄んでいた。ぽたりぽたりと雫が頬を伝い落ちるたびに、サガの中から優しい感情が欠落していくようだった。

「……私は、お前が怖かった」
呟かれた言葉は温度を持っていなかった。
「お前はとても強くて、優しくて、眩しくて、その眩しさは私を追い詰めるだけだった。お前が笑えば笑うほど、自分自身の弱さを見せ付けられて私は死にたくなった」
サガにとってアイオロスは太陽だった。眩しすぎる光は見る者の目を容赦なく灼いてゆく。だが太陽は、自分の光が他者を苦しめていることなど思いもしなのだい。笑って周りに光を惜しみなく降り注げば、須らく皆が幸せになれると思っている、思い込んでいる。悪気はなく、そして無自覚だからこそ余計に苦しい。
太陽の光を受けることでしか輝くことのできない月。あまりに脆く儚く、弱い存在。それがサガだった。

「――いっそ出会わなければよかった」

涙を流して笑いながら、その言葉はアイオロスの鼓膜へと届けられた。決定的な別れが二人の間に横たわっていた。たった歩いて五歩の距離をこれほど遠く感じられたことはなかった。伸ばしかけた手がサガに触れることは永遠になかった。……終わっていく、何もかも。
アイオロスはそれ以上サガの涙を直視するのに耐えられなかった。ぐっと手を握り締める。そして背中を向けて部屋を去った。取り残されたサガが泣き崩れるのを気配で感じ取っていたが振り向きはしない。前だけを見て歩き続ける。
あぁ、自分はまた十三年前の「あの時」と同じように、サガの元から離れていくことしかできないのか。どうしてだと問い詰めようとしても手遅れで、残っているのは別離という道だけだ。

互いに理解し合えていると思っていた。この愛情は確かに相手に届いているのだと思っていた。すべては独りよがりだった。
「あの時」の傷跡に触れないことが優しさだと誰が決めた? 自分が愛した分、相手も同じような幸福を享受できているなどと考えたのは誰だった? ぬるま湯のような幸せに浸って自分だけが満足していたのは?……全部全部、俺自身じゃないか。
不意に立ち止まり、冷たい石の壁に右手を叩きつけた。その衝撃で壁が無残に崩れた。
惨めだった。今の今までずっと勘違いしてきた自分が。

二人は未だ互いに深く想い合っていた。そして、想い合いすぎたゆえに壊れた。このまま関係を続けていけば、互いに寄りかからずにはいられないようになってしまう。繋いだ手がいつか離れてしまうのではないかという恐怖にとらわれてしまう。それでは駄目なのだ。互いが互いに「サガ」と「アイオロス」として生きねばならなくなった時、二人に未来はない。
その苦しみを味わうくらいなら、今ここで分かれた方が痛みは少なくて済む。こうすることが最上の選択であるはずだった。けれどもサガの涙は乾かない。アイオロスの胸は張り裂けそうなほどに痛み続ける。



好きでした。
はつ恋でした。
今ではもう、遠く離れた愛しい人。






2009/12/24

【BGM】はつ恋/福山雅治


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