君の隣で笑いたい


聖戦が終わり、聖闘士たちが再び命を与えられてから約半年が経つ。戦闘によって荒廃した聖域の復興作業や、三界の平和条約締結のための準備などで、教皇任命の儀式が延び延びになってしまっていた。そして二週間前、アイオロスは13年の時を経て正式に教皇に任ぜられた。
教皇の座に就くにあたり、アイオロスは膨大な量の事務処理を行わなければならなかった。それらをやっと片付けて、今日やっとロドリオ村へ視察に行くことができた。

白い教皇服を着て聖域を出る。煩わしいマスクも置いてきた。本当は裾の長い法衣も脱ぎたいくらいだったのだが、さすがに私服のままでは教皇だと気付かれなさそうだったのでやめた。今回はあくまで「教皇として」視察をしなければならないのだから。従者が付くのは嫌だったので、初回からもう既に「お忍び」だった。
風を切って歩く度、地面につきそうなくらい長い法衣が揺れた。

「あらあ、随分と久しぶりじゃないのさ聖闘士さん!」
村に下りたアイオロスを真っ先に出迎えたのは、聖域の内乱以前からアイオロスがよく通っていた果物店の女店主だった。この果物店にはかなりお世話になっていた。よく林檎などの果物をここで買っていっては、幼いアイオリアに持っていってやったものだ。
「こちらこそお久しぶりです、おかみさん。長い間ご無沙汰していました」
「本当だよまったく……!もう10年以上来てくれなかったじゃないか!大事な任務に就いてたって話だけど、まさか聖域に戻ってくるなり教皇様になるとはねえ」
感心したようにアイオロスの教皇服を眺める。

ロドリオ村の住人は、聖域の内乱を知らない。アイオロスがついこの間まで反逆者の汚名を着せられていたという事実も。アイオロスが聖域から姿を消していた13年間は、ずっと聖闘士としての任務で国外にいたと信じ込まされている。それでいい、とアイオロスは思った。双子座の『彼』が起こした事件を知る者は、聖域内の人間だけで充分だ。
そんなアイオロスの心の内など知る由もなく、女店主は大らかに笑った。
「晴れて教皇になった記念だ、うちの商品いくらでも持っていきな!」
言ったそばから、果物が大量に詰まった紙袋を渡された。
その後も新教皇アイオロスの人気には目を見張るものがあった。彼が3歩進むごとに道の両側から住民が顔を出し、アイオロスに挨拶や激励の言葉を投げかけ、花やら野菜やらよくわからない置物やらをくれる。13年経っても皆アイオロスのことを覚えており、懐かしげに声をかけていく。いつしかアイオロスの両腕は、住民からの贈り物で一杯になっていた。





お忍びで行った第一回目のロドリオ村視察は大成功だったといえる。アイオロスは大量の贈り物を抱えながら、聖域へ戻る道を鼻歌交じりに上っていった。
やがて双児宮の前まで辿り着いたところで足が止まった。そこには双子座の弟カノンが待ち伏せていた。宮の柱に背を寄りかからせ、腕組みをしてアイオロスを睨んでいる。
カノンがアイオロスに対してあまり良い印象を抱いていない――有り体に言えば、敵意を抱いているということをアイオロスは知っていた。攻撃的な目を向けられるのはしょっちゅうだ。それは単に好き嫌いの問題ではなく、『彼』が関係しているからなのだろう。

剣呑な視線を浴びてもアイオロスは笑顔を絶やさない。
「そこ、通してもらえるかい」
「断る」
ばっさりと切り捨てられた。カノンは口をへの字に歪めたままだ。さてこの弟をどう攻略するか、と考えを巡らせ始めようとしたところで、カノンが重々しく言った。
「俺の問いに答えるまでは通さない」
「問い?」
「しらばっくれんな。――サガのことだ」

サガ、という名が出た瞬間にアイオロスの顔から笑みが抜け落ちた。穏やかな光を宿していた瞳にすっと影が落ちる。カノンはその変化に気付いていたが構わず続けた。
「あいつ、あんたが教皇に選ばれてからの二週間、何していたか知ってるか?……仕事するか暗い顔で落ち込んでいるかのどちらかだ。まともに眠っているかどうかも怪しい。あいつが追い詰められてる理由、あんたなら分かるだろう」
「……」
「今のサガは教皇の座なんてこれっぽっちも望んじゃいない。必要なのはあんたの言葉だ。たった一言、サガに言ってくれるだけでいい」
「……」
「なのにあんたはこの二週間何もしなかった。……何故だ」
「……さあ?」
カノンの追求にもアイオロスは動じない。先程の影は掻き消え、すぐにいつもの表情を取り戻した。口元だけで笑って首をかしげるだけだ。言わなきゃ殴ると脅しても、「村の人からの貰い物が駄目になるのは困るなぁ」などと言ってみせ、まるで効果がない。カノンは忌々しげに舌打ちした。

「しいて言うなら、『間に合わなかったから』かな」

ふと思い出したようにアイオロスが言う。……『間に合わなかった』?いったい何が?
「開花が」
まったくもって意味が分からない。更に説明を求めようとするがそれ以上の言葉は望めなかった。アイオロスは荷物を抱え直し、さっさとカノンの横を通りすぎて行ってしまう。
「おい、待てよ!」
呼びかけも歩みを制するには至らなかった。何も答えを得られぬまま置いてきぼりにされたカノンは口を開けてアイオロスの背中を見送った。底の見えない微笑を思い出して、苦虫を噛み潰したような渋面になる。そうやって、何もかも知ってるくせに明かそうとしないあんたが嫌いなんだ。心の中で悪態を吐いた。
「……サガを泣かせたら、許さんからな」
自分に言い聞かせるように呟いて、カノンは踵を返した。





教皇の間から少し離れた別棟には十二の部屋がある。教皇や教皇補佐の執務室とは別の、黄金聖闘士専用の執務室だ。アイオロスはその中の一室、双子座の彼がいる部屋の扉を足で蹴った。両手が荷物で塞がっているのだから、多少行儀が悪いのは仕方がない。すると一拍置いて、「はい」と返事が来た。
「アイオロスだ。開けてくれないか」
扉の向こう側の気配が強張った。数秒間の沈黙の後に扉が開かれた。ギィ、と重い音がして、扉の隙間からサガが恐る恐る顔を覗かせる。
「……アイオロス?」
その目の下にはくっきりと濃い隈が浮かんでいたが、それには敢えて触れなかった。開いた隙間に脚を捻じ込ませると強引に扉を押し広げた。両手一杯に抱えた荷物をすかさずサガに押し付ける。

「はい、貰い物」
「えっ?」
サガはそれらが何なのかもわらない内に慌てて受け取った。抱えきれなかった荷物の一部がばらばらと床に落ちる。
「な、なんだこれは」
予想外の重みによろよろとよろめきながら、サガは空いている机の上にそれらを乗せた。その衝撃で今度はレモンが五つ転がっていった。
「今日は教皇として初めてロドリオ村の視察に行ってきたんだ。その時、村の人たちから貰った」
サガはぎこちない仕草で「そうか」と笑った。教皇という単語が出た瞬間にその肩が震えたのをアイオロスは見逃さなかった。教皇絡みの話題になるとサガは不自然すぎるほど動揺する。
必要なのはあんたの言葉だ――カノンの言葉が頭の中で反響した。……分かっているとも。それを言うために今日まで待ったのだから。

「サガ」
名を呼ぶと、サガが躊躇う素振りを見せてから目を合わせてきた。
「連れて行きたい場所がある。付いてきてくれ」
そう言うや否や、半ば無理矢理サガの手を引いて執務室の外に出た。焦ったのは当然サガだ。「いきなりは困る」だとか「まだ未決済の書類が」とか口々に呟いてアイオロスを引きとめようとするものの、アイオロスは聞く見耳持たずというようにずんずんと進んでいく。アイオロスに話を聞く意志がないことが分かると、サガは観念して大人しく手を引かれるがままに付いていった。





歩いている間、サガの困惑ぶりは繋いだ手越しに感じていたが、敢えて振り向こうとはしなかった。疲れきって頼りないサガを見ると、理性より先に本能で抱き締めてしまいそうだったからだ。だめだ、まだ「そこ」に至ってはいけない。自分自身を制するので精一杯だった。
教皇の間を抜け、双魚宮脇の薔薇園を横切る。二人は森の中の茂みへと入っていった。ほとんど人が通らないような荒れ道だ。法衣の長い裾が草木に絡まってしまうのにも構わず進んだ。最高級の生地で作られた仕立ての良い法衣は容赦なく破け、汚れた。もしこの惨状を見たら、女官たちは一斉に青ざめるに違いない。サガも法衣を着ていたので、左手で裾を押さえて枝に引っかからないように努力しているようだったが、ほとんど徒労に終わっていた。

茂みに入ってからしばらくして、アイオロスは速度を落とした。確かこのあたりのはずだ。
周りを見回しながら歩いていくと、不意に視界が開けた。それまでの鬱蒼とした茂みが嘘のように、広い空間が現れる。
「これは……」
黙っていたサガが驚嘆の声を上げた。
一面に広がる、白、白、白。まるで白い絨毯のように、その空間は小さな花の群れで埋め尽くされていた。
「綺麗だろう?」
アイオロスはそこでやっとサガを振り返った。戸惑いと驚き、そして花々の美しさに、サガは見とれていた。
「半年以上前……俺たちが死の眠りから目覚めてすぐのことだ。俺は真っ先に、この場所に花の種を植えたんだ」

花屋の少女から渡された花の種。「白くて綺麗な花がたくさん咲くのよ!」少女はそう言って笑った。はじめはせっかく貰った種が勿体ないという理由で何気なく蒔いたにすぎなかった。種が芽吹き、茎を伸ばし花をつけるようになるまで長い時間がかかった。そうやって花の成長を見届けるうち、開花を待ち遠しく思うようになったのだ。
この花が一面に咲き誇る光景を、サガに見てほしい――アイオロスは、いつしかその純白をサガに重ね合わせていた。

「この花の名前すら知らないのにな」
するとサガはアイオロスの方へ顔を向けた。そっと囁く。
「……カスミソウだ」
カスミソウ?と聞き返すと、ゆっくり頷いた。
「どこにでも咲く、ありふれた花だ。――だが、美しい」
サガは雪解けのように微笑んだ。カスミソウよりも遥かに美しいと思った。ああ、そうだ、この微笑みを見るために、俺は半年も待ったのだ。
「サガ」
そして今、この言葉を言うために。

「俺は、お前が欲しい」

風が通り過ぎていった。サガは驚いた素振りも見せず、ごくごく自然にアイオロスの言葉を受け入れた。凪いだ湖面のように穏やかで深い蒼を宿した瞳が、まっすぐにアイオロスを見つめている。
「……お前が俺に対して負い目を感じているのは知っている。そして、教皇という座に対しても」
瞳の中の湖面がほんの一瞬、ゆらりと揺れた。サガは何も言わずアイオロスの言葉の続きを待っている。
「だが俺は……お前以外の人間が俺の隣に立つのを、どうしても想像できない」
その隣に在るべきは、美しい青銀の髪を波打たせた美しい人。人一倍寂しがりのくせに強がりで、いつも全てを一人で背負い込もうとする不器用な人。もとより、たった一人しかいないのだ。
だから、とアイオロスは続ける。呪文のようにもう一度。
「俺は、お前が欲しい」
そして右手を差し出す。カスミソウの花々は、息を潜めて成り行きを見守っていた。

二人は互いに見つめ合ったまま動かない。永遠にも感じられる長い沈黙が流れる。言葉はない。この静寂を壊したくはなかった。
やがてサガが微笑んだ。少し首をかしげて笑う。
そうして、それがまるで最初から運命付けられていたことであるかのように、差し出されたアイオロスの手を取った。





「……で?」
今夜の夕食である手製のカルパッチョをつつきながら、カノンが憮然とした表情で尋ねた。テーブルに向かい合わせに座るサガは、カノンとは対照的にこれ以上ないほど幸せそうな顔をしている。
「だから言っただろう、私は『教皇補佐になってほしい』というアイオロスの申し入れを受け入れた、と」
「それはさっきから嫌になるほど聞いてる。問題はその後だ」
「その後?……ああ、明日には正式に教皇補佐の任命式を行って、執務室が移動になる。これからはアイオロスと隣同士の部屋だから連絡も取りやすく、」
「そういう話じゃない!」

カノンは椅子から腰を浮かせてテーブルに手をついた。生ぬるくて甘ったるい惚気話に対する苛立ちも含まれていたが、それ以上に我慢ならないことがあった。
「なぁサガ、『お前が欲しい』って、確かにそう言われたんだろう?」
「ああ」
「……もしかして、『それだけ』なのか?」
カノンの言葉の意味が汲み取れず、サガはフォークを持つ手を止めて首をかしげた。
「私が教皇補佐になるという事実以外に、何があるというのだ?」
心の底から不思議そうにそう言うものだから、カノンは思い切り脱力してしまった。……駄目だ、この兄は何も分かっちゃいない。

アイオロスが「お前が欲しい」という言葉にどれだけの意味を込めたのか定かではない。少なくともカノンには、「サガの体も心もその人生も全て欲しい」という意味に取れた。だが、当のサガが「教皇補佐として力を貸して欲しい」という表面的な部分の意味しか受け取っていないらしいことは明らかだ。もともと兄が「こういうこと」に関して壊滅的に疎いとは分かっていたが、ここまで天然ぶりを発揮されると説明する気も失せてしまった。
進展しない二人の関係にあれこれやきもきして、お節介を焼いていたのが急に阿呆らしく思えてきた。
カノンはグラスの中に残ったワインを一気にあおる。そして飲み干したグラスを勢いよくテーブルに置くと、フン、と鼻を鳴らした。

……せいぜい、この天然相手に生ぬるい関係を続けていけばいいさ。そして理性が堪えきれなくなった時になってやっと、「あの時」に事に及んでいればよかったと後悔するんだな。
脳裏に浮かぶあの男の爽やかすぎる笑顔に悪態を吐きながら、カノンは未だ首をかしげている兄の額を指で弾いた。
「うりゃ」
「痛っ!……い、いきなり何をするのだカノン!」
「景気づけだ」
「は?いったい何の?」
「教えてやらん」
カノンは意地悪げにニヤリと笑う。……あんたがその気なら、当分の間兄を渡してやるものか。そう心の中で宣言すると、再び空のグラスに並々とワインを注ぐのだった。






2009/11/17

カスミソウの花言葉は「清い心」


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