愛に埋もれて死ねるなら


「アイオロス、私はお前の隣で眠りたくない」

教皇サイズの巨大な寝台の前で立ち尽くすサガはそう言った。アイオロスは思わず「え?」と間の抜けた声を出す。つい昨日までは毎夜のように寄り添いながら寝ていたというのに、これはどうしたことだろう。眠る準備をしていたアイオロスは身体を起こし、寝台の縁に腰掛けてサガを見上げる。サガは大きな枕を両腕に抱えたまま、大股一歩の距離を保って動こうとしない。
サガの表情はいつになく沈んでいた。まるで世界の終わりがすぐそこまで迫っているような顔だ。今にも泣き出しそうに顔を歪めて、足元に視線を落としている。こういう顔を見るのは久方ぶりだった。聖戦後、再び命を与えられてからのサガはいつも凛とした表情を崩さなかったから。

「……サガ?」
無言になってしまったサガに声をかける。サガは一度びくりと肩を震わせ、恐る恐るアイオロスと視線を合わせる。しかし目が合うとすぐに逸らしてしまった。
腕の中の枕を強く抱き、「……嫌なのだ」と小さく呟いた。

「私はいつも考える。もしお前が眠っている間に死んでしまったら?そして私の隣で息絶えたままだったら?……夜明けを迎えて、先に目覚めるのは私だ。『私だけ』だ。その時既にお前は死んでいるのだから。何度声をかけてもお前は起きない。青白くなってしまったお前の頬に触れると、その身体は体温を失くして死人の冷たさに変化している。どうしても認めきれず、最後に私はお前の胸に耳を当てて、そこでやっと残酷すぎる受け入れざるを得なくなる――もう分かるだろう。そうだ、お前の心臓が止まっているのを世界中の誰よりも先に確認するのは私だ!私は己の感覚を以ってお前の死を肯定するのだ。他人から聞いた話であれば、すべてを否定してお前はまだ生きていると信じることもできるというのに。よりによって私自身がその恐ろしい事実を証明しなくてはならない!」
まるで何かに追い立てられているかのように早口で捲くし立てる。発言の内容は支離滅裂だった。
呟きは次第に大きくなり、最後には悲鳴に近い叫び声になった。恐怖そのものの表情で。声で。言葉で。

「そんな――そんなむごいことは、嫌なのだ」

そこまで言って、サガは糸が切れた人形のようにその場にへたりこんだ。震える目蓋から涙がとめどなく溢れていく。アイオロスはその様子を呆然と見つめていた。言葉が出ない。
「不安……そう、不安だ。私は不安で不安で仕方がない。だから私は言葉でその穴を埋めようと必死になって、それでも足りないからまた言葉を重ねて重ねて、もっともっと不安を増長させていく。可笑しいだろう莫迦みたいだろう笑えてしまうだろう、私は昔からそうだった。太陽が似合うお前とはまるで正反対だ。自分の中で無理やりに全てを自己完結させることでしか自我を保てなかった。私の無残な穴は広がるばかりなのに無視をしていた。気づかない振りをしていれば痛みは麻痺されて『痛い』とも感じなかった。だがお前は違う。違う。違うのだ。私の醜さと卑屈さと弱さの塊から目を逸らしてはくれない。私はお前によって気付かされてしまった。お前は自分の真っ直ぐさが逆に人を追い詰めてしまうことを知らないのだろう。私はいつだってお前の視線に押しつぶされてきた!」

まるで呪いのようだと思った。
これは自分の知っているサガではない。神のような男と言われていた彼は、常に自信に満ち溢れていたはずだ。それは――その姿は、彼が必死で取り繕っていただけに過ぎないのか。サガは強い人間なのだと思っていた。凛と生きる人間なのだと思っていた。だから、「あの事件」を起こしたのがサガだということに何よりも驚いたのだ。確かにあの時、教皇に成りすましたサガの顔を見たというのに。空白の13年間の出来事を知らされても信じきることができなかった。
サガの強さの中にある脆さを、自分は知っていたはずだった。ならば何故、こうしてサガが脆さを露呈しているのを見てこれほどに狼狽している?今まで自分は、サガの何を見てきた?

「アイオロス、お前はきっと、私が抱えているこのような恐怖や不安など感じもしないのだろう。私がお前を理解できないように、お前も私を理解することなど不可能なのだ。だがお前は……優しい。憎らしいほどに優しい。だから私のこの弱さごと受け入れてくれる、抱き締めてくれる……そうやって私はまたお前に甘えてしまう。自惚れてしまう。滑稽で愚かなゆえに私は勘違いをする。……お前は私を愛してくれているのだと。嫌だ。耐えられない。お前に弱さを見抜かれるのも、お前に優しく抱き締められるのも、そしてお前の死に恐怖するのも、もうたくさんだ……」

話せば話すほどサガの声は弱まっていき、幼い子供のようにしゃくり上げる。
アイオロスは、肩を抱くことも、手を取ることも、ましてや抱き締めることなどできなかった。サガは独りきりで泣いている。
やがてか細い声で、弱々しく言った。
「お願いだ、アイオロス」

――弱さを、許さないでくれ。

その懇願は、まるで死刑宣告のように聞こえた。サガの隣に立つ者としての自分は、今ここで殺されたのだ。
自分は分かっていると思い込んでいただけで、実際は何も分かってはいなかった。言葉や行動以外のものを汲み取ることができなかった。これまでも、今も、そしておそらく、これからも。
サガをいたわろうとすればするほど、心は遠く離れていく。……ああ、それでも。

――それでも、こうするしかないじゃないか。

アイオロスは迷わなかった。立ち上がり、強引にサガの手を取る。拒もうとするのも無視して、強く強く抱き締める。そして、広い寝台へ二人とも縺れるように倒れこんだ。
……これしかないんだ。たとえどれほど拒絶されようと、自分には抱き締めることしかできない。百の言葉を重ねるよりもただ一度の抱擁を選んだ。
サガは全身を硬直させたままアイオロスに抱きすくめられていた。どうにかしてその不安を取り除いてやりたくて、左胸をサガの耳元に当てる。
「聞こえるか、サガ」
とくん、とくん。それは心臓の鼓動音だった。規則正しく動きながら命を繋ぐ音。この音がいつか止まってしまうのではないかと、サガはそれをとても恐れていた。

「俺は今、生きている。いつか死ぬとしても、今、生きている。……それでは駄目なのか?」
耳元に響く音を聞いて、サガはまた涙を流した。なんてあたたかい音だろう。音に温度があることを今初めて知った。何かが安心と共に満たされていくのを感じる。暗く濁った闇が攪拌され、光に溶けていく。
「お前の言うように、俺にはお前の全てを理解することなんてできやしない。お前が背負ってるものを肩代わりすることだって、無理だ」
アイオロスがこれほど苦しそうに言葉を紡ぐのを見たことはなかった。いつも笑っている彼からは想像もできず、サガはアイオロスの肩の向こうの壁をぼんやりと眺めていた。
「でも」
抱き締める力が少しだけ弱くなった。サガはゆっくりと肩の力を抜いた。

「重圧に耐え切れなくなって、お前が倒れそうになったら……その身体を支える役目を、俺に与えてほしい」
顔を上げてアイオロスを見る。ふたつの視線が交わった。吐息が聞こえるほどに近い距離。この真っ直ぐな瞳に見つめられるのを、どうしようもなく苦痛に感じていたはずだった。今はそれがなんでもないことのように思える。
自然とサガはアイオロスに手を伸ばしていた。指と指が絡み合い、サガの冷たい指先が熱を取り戻していく。あたたかくて、また涙が溢れた。
「……ばかだな、アイオロス。その役目はとっくの昔におまえのものだというのに」
泣きながら笑った。上手に笑うことなんてできない。涙に濡れた顔をくしゃくしゃに歪めて笑う。
アイオロスは一瞬目を大きく見開いて、それから「そうか」と笑った。ふたりとも笑っていた。笑い声は震えていた。今にも泣き出しそうな顔で笑っていた。それでも笑った。笑うことしかできなかった。笑うことが、ふたりにとって何よりも尊い愛情表現だった。



朝の気配がして、サガは重い瞼を開けた。そうだ、昨日は安心の余りあのまま眠りに落ちたのだ、と思い返す。
顔を上げると目の前にアイオロスの寝顔があった。どうやら一晩中抱き締め続けてくれていたらしい。アイオロスの二本の腕は、絶対に放さないとでもいうように強い力でサガをいましめる。身動きが取れなくて少し窮屈な思いをしたが、その窮屈さすらも愛おしく思えた。
耳を澄ますと、あの鼓動音が聞こえてくる。とくん、とくん。生きている者だけが発する音。アイオロスにまつわる全てのものは、サガを安心させる要素で満ち満ちていた。その腕も、声も、背中も、何もかもが。
もうしばらくこのままでいたくて、サガは幸福なまどろみの中へと誘われていった。



(今この瞬間を抱いて、時間よ止まれ)





2009/11/07

【BGM】everyhome/鬼束ちひろ


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