真昼の月と密やかに


ぱさりぱさりと零れるは、澄んだ蒼色を宿した髪。
次から次へと落ちゆくは、深い海を感じさせる小宇宙の欠片。

カノンは髪を切っていた。長く伸ばされたそれを、何の躊躇もなく無造作に切り落とす。
床には、彼の一部だった蒼色が方々に散らばっていた。もう相当な量を切ったはずだが、手にする鋏は未だ止まる気配を見せない。後で整えることなど考えてもいないのだろう、髪の長さは左右でばらばらだった。

「――カノン!?」
そんな彼の姿に仰天したのはラダマンティスだった。「暇だったら来い」と呼ばれ、大急ぎで仕事を片付けてなかば無理矢理暇を作って来てみればこの断髪現場だ。
大きなレジャーシートのようなものを床の上に広げ、見ているこちらが惚れ惚れしてしまうほど思い切りよく切っていくものだから、ラダマンティスは一言カノンの名を呼んだきり、しばらくの間放心したように見蕩れていた。
カノンはラダマンティスを流し見すると、残っていた最後の一房に鋏を入れる。しゃきん、ぱさり。鋏の音と髪の落下音が、一連の動作音としてラダマンティスの鼓膜に焼きついた。同時に、視界を覆い尽す、蒼、蒼、蒼。

「……どうだ、すっきりしただろう?」
髪をあらかた切り終えて、カノンは満足げに笑った。
……果たして、目の前にいるこの男は本当にカノンなのか。まるで別人を見ている気分だった。髪を切ったという外見的な特徴だけでなく、もっと根本的な部分で彼が変わったように思えた。
彼がとても鮮やかに、吹っ切れた表情で笑って見せるものだから。
ラダマンティスはいつまでたっても動けなかった。鋏を手にした短髪の男がカノンであると完全に認識するまで、要した時間は約10秒。眉一つ動かさずカノンを凝視し、それからやっと、思い出したように声を上げた。

「……カノン、」
「ん?」
「髪……切ったのか……」
「見れば分かるだろう。何か都合の悪いことでもあるのか?」
「いや、ないが……」

ラダマンティスは言葉を詰まらせた。
予想外にしょぼくれたラダマンティスの反応に、カノンは拍子抜けしてしまった。てっきり、無断で髪を切ってしまったことに対して烈火のごとく起こるだろうと思っていたのだ。
「まぁいいさ。とりあえずラダ、そこに突っ立ってないでこっちに来い。仕上げをしてくれ」
「……仕上げ?俺がか?他人の髪を切るなど初心者だぞ」
カノンは意に介せず、
「構わん。俺がおまえにやってほしいだけだ」
と言って鋏をラダマンティスに手渡す。仕上げは翼竜に委ねられたのだった。





カノンを椅子に座らせて、ラダマンティスは黙々と作業に没頭していた。カノンが好き勝手に切った髪を、なんとか形になるように揃えていく。鋏さばきは終始不安げではあったが、手際自体はなかなかのものだった。
腰に届く位まであったカノンの髪は、最終的にはアイアコスよりも少し短い程度にまで切り揃えられた。これだけばっさり切ると、いっそ清々しい。

「……こんなものか?」
「ああ。初めてにしては上出来だ」
カノンが笑ったのでラダマンティスは安堵した。
そして同時に、なぜ髪を切ったカノンに違和感があったのかを悟る。

……自分は、カノンの長い髪が好きだったのだ。とてもとても、好きだった。
深い海色を湛えた蒼は、彼の放つ小宇宙によく似合っていた。彼は海龍となるために生まれてきたのではないかと思ってしまうほど。
いつも潮風に当たっているせいでに毛先は傷んでいたが、だからこそ好きだった。
共寝した夜、隣で眠るカノンの髪に触れて、微かに香る海の香り。普段は長い髪に隠れて、ふとした瞬間に見える首筋や耳元。陽に当たってきらきらと光る髪。陽の光が届かない冥界の中ですら輝く眩さ。

思い出すにつけ、自分がどれほどカノンの髪に執着していたのかに驚かされる。厳密に言えば「カノンの一部」である髪に対して、だ。
ラダマンティスの思考をなんとなく感じ取ったのか、カノンは言い訳をするように口を尖らせた。
「……別に、何の考えもなく髪を切ろうなんて思ったわけじゃない」
ふ、とカノンの表情が曇るのをラダマンティスは見逃さなかった。
過去を語る時の表情だった。カノンにとっては苦々しいばかりの記憶。いくら話として聞かされてはいても、ラダマンティスには当時の彼の心を全て察することはできない。

「伸びた髪は今までの憎しみ、切り落とした髪は過去との決別……みたいなものか」
――あの時、決して髪型だけは変えるまいと誓った。
瞳に映る色や世界が絶えず変化して行こうとも、髪の毛一本一本にまで染み込んだ憎しみは忘れない。ずっとずっと同じ髪型であり続けることで、再び出会った時にありったけの憎しみを刻み付けてやろうとした。
「だが、今の俺にはもう、髪を伸ばし続ける理由も意味も無くなった。だから、」
あの日の憎しみからはじまった、確執や妄念、くだらない野望。カノンを縛り付けていた全てのものを、髪と共に切り落とした。単に「逃げた」のでなく、それらの記憶は完全にカノンの一部となって、ごく自然に離れていった。

「おまえのおかげだ、ラダマンティス」
そう言ったカノン言葉には、どのような意味があったのか。
軽い口調であるからそのまま受け流してしまいそうになるが、カノンは本当に大切なことこそさらりと言う。誰にも気づかれなくて良いのだというように。
ラダマンティスはカノンに対して何か「特別」なことをしてやったわけではない。だが、ラダマンティスにとってのカノンがそうであるように、カノンにとってのラダマンティスもまた、他の誰でもない「特別」なのだ。
互いが互いの心の中で大きな場所を占めている。まったくの無意識のうちに、それも、どうしようもないくらいに。

そこでラダマンティスは唐突に、今日がカノンの誕生日であることに気づいた。
そもそも、執務を大急ぎで片付けてきたのは誕生日を祝うためだったのだ。断髪の衝撃によって本来の目的を忘れてしまっていた。祝いの言葉を投げかけるだとか贈り物をやるだとかいう考えにまで至らなかった。
……今日この日、カノンが生まれた日に、髪を切るということ。
重い鎖を引きずり続けていたカノンは死んだ。ラダマンティスの目の前にいる彼は、過去の記憶を保ちながらも、まったくの新しい人間として生まれ変わったカノンだ。

カノンの存在はどんな時も眩しかったが、今日の微笑の威力はいつにもまして絶大だった。
光の差し込む明るいリビング。短くなった髪を揺らす穏やかな5月の風。カノンを取り巻くありとあらゆる美しさが、彼を祝福する。
髪を切るという日常の平凡な行為は、カノンという人間の器を通して、神聖な儀式へと昇華した。その奇跡のような瞬間に立ち会えたことを、ラダマンティスは世界に感謝した。

――それを目撃したのは俺だけで、そして、その美しさを内包したカノンも、俺だけのものだ。


ラダマンティスはおもむろに、カノンの首筋へと唇を寄せた。
今まで髪に隠れていた肌は彫刻の白さを連想させる。露わになったそこが、不思議な引力を以ってラダマンティスを惹きつける。我に返った時にはもう遅く、カノンの首筋に歯を立てていた。
くすぐったそうにしてラダマンティスを受け入れていたカノンも、この時ばかりは小さく息を呑んで身を硬くする。

「こら……、そうがっつくなって」
制止の言葉も意味を成さない。何度も何度も執拗に首筋を這う舌。頭の中が痺れる。カノンが傷みなのか快感なのか分からない波に揺られて沈んでしまいそうになる瞬間、ラダマンティスはやっと唇を離した。くらくらとした眩暈がカノンを襲う。
「どうしたんだ一体……おまえらしくもない」
日の出ている内からそういう行為に及ぶのを、ラダマンティスはあまり好まないはずだった。仕事に徹する昼間とプライベートの夜を、きっちり区別しなければ済まない性格。だが今日はやけに性急だった。何か目的でもあるのだろうか。
カノンの視線を受けたラダマンティスは、にやり、と笑った。

「……見晴らしが良くなったと思ってな」
「はぁ?」

見晴らし?一体何のことだとカノンは首を傾げる。前後の文脈が掴めない。怪訝そうな顔で、未だ痺れの残る首筋をさすり――理解した。
カノンの指が触れたその場所には、赤色の花がいくつも咲いていた。髪という障壁をなくして無防備になった白い肌によく映える。無防備とは即ち、どこからも丸見えであるということと同意義。

「ラダ、おまえ……!」
椅子に腰掛けていたカノンは勢いよく立ち上がり、振り向きざまに一発殴ってやろうとした。しかしその反応を見越していたラダマンティスに容易く避けられる。そして首筋を押さえたまま、絶叫。
「髪で隠れない所に……目立つ場所に、わざと……っ!」

カノンの顔が真っ赤になっていた。まさかラダが「そのようなこと」をするとは想定外だったのだろう。付けられた赤い痕を数えようとしたものの、カノン自身からは見えない場所にまで点在しているために確認しきれない。この数では、隠すために絆創膏を貼ったとしても不自然すぎる。かといってそのままにしておいては、容赦なく他人に見られてしまう。
それはもう見事なくらい、どこからどう見ても誤魔化しようのないキスマークだったのだ。

鋭く睨みつけられてもラダマンティスはまったく動じなかった。それどころか「してやったり」と言いたそうに唇の端を吊り上げている。
「俺からの誕生日プレゼントだ。……俺に黙って勝手に髪を切った分の仕置も含まれているがな。おまえにとって髪など価値のないものなのかもしれんが、俺のようにおまえの髪が好きな人間もいることを忘れてもらっては困る」
それに、とラダマンティスは続ける。
「どうせこの後、海界や聖域の連中がおまえのために誕生パーティーでも開くのだろう?……どのみち、そんな首筋を晒していては行けるものも行けまい。今日は一日中俺に付き合ってもらう」

5歳下の男の大胆不敵な発言に、カノンの口元が引きつった。
全てを予想しての行動だったのかという驚きと、そんな思惑があるなどと夢にも思わずに受け入れてしまっていたことに対する自己嫌悪。
「ああもう……降参だ」
短くなった髪をくしゃりとかき上げて、溜息。
きっとラダマンティスは、誕生パーティーに欠席する旨の連絡を入れる時間すら与えてくれないだろう。それに抗おうとしない自分もつくづく甘いなと思う。……これだから、「惚れた弱み」というやつは厄介なのだ。

――それでも、ラダマンティスがいつになく積極的に自分を求めてくるのが嬉しいだなんて、絶対に言ってやらない。
近づいてくるラダマンティスの真っ直ぐな瞳を見つめながら、カノンは小さく笑ったのだった。



(誕生日なんてただの口実に過ぎない)





2009/05/30


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