アルテシーマの微笑み


「会いに来てやったぞラダ……って、」

場所は冥界、翼竜ラダマンティスの執務室。
いつものようにカノンが訪ねた時、部屋の主は留守だった。裁判の資料でも探しに行っているのだろう。
そんなもの部下にでも任せればいいものを、あの几帳面な男は、何事においても自分が関わらねば気が済まないらしい。
ラダマンティスが戻ってくるのにはまだ時間がかかると判断したカノンは、その間執務室を物色することにした。……だが、執務室には「物色する」と言えるほど物が置かれていなかった。がっしりとしたつくりの文机と、資料やら何やらが整然と並べられている本棚。必要最低限のものしか揃えないのは結構だが、カノンにしてみればつまらなさすぎる。

(……ん?)
執務室をぐるりと見回して、カノンはある一点に眼を留めた。殺風景な部屋に存在する違和感のようなもの。浮いている、と表現した方がいいかもしれない。それは、黒ばかりの調度品の中で唯一「色」を持っていた。
(……観葉植物か?)
本棚の陰に隠れていて気が付かなかった。それは確かに緑色をしていた。掌に収まるくらいの、鉢に植えられた小さな観葉植物。種類としてはさして珍しいものではない。
どうせ部下が持ってきたものだろうとは思ったが、ラダマンティスが観葉植物を部屋に置くというイレギュラーさにカノンは口元を緩めた。風流な心を持ちえていないあの男が、観葉植物とは。どうにも可笑しくて仕方ない。

興味からその観葉植物に手を伸ばそうとして、
「あ」
カノンは小さく声を上げた。次の瞬間、指の上に鮮やかな赤の軌跡が走っていた。
指を切ったと理解するまでに数秒を要した。まさか、この観葉植物にそれほどの鋭さがあるとは思わなかったのだ。血を流すのは久しぶりだったものだから、まじまじと傷口を眺める。人差し指の先から第二関節にかけての部分が、すっぱりと見事に切れていた。この切れ味のよさはシュラのエクスカリバー並みかもしれない。
痛みはそれほど感じないものの、予想以上に出血が多かった。どうしてか血止めしようという気は起きず、鮮やかな血が石の床に滴り落ちるのをただ見つめていた。



「――カノン!?」
それから何分経過したかは分からなかったが、ようやくラダマンティスが執務室へと戻ってきたらしい。書類を手にしたラダマンティスは、指先から血を流しながら突っ立っているカノンを見るやいなや血相を変えた。
「怪我か!?手当てもせずに何をしている!」
まるで自分自身が大怪我でもしたかのような顔で、ラダマンティスは書類を乱暴に文机の上に放り出すと、常備しているらしい黒のハンカチを取り出してカノンの切り傷に当てた。
血液は、至極ゆっくりと音も無く赤色を滲ませる。
高級そうな生地がみるみるうちに赤黒く変色していくのを見ても、カノンは表情ひとつ変えなかった。

「……よかった。止まったぞ、血」
ほっとしてラダマンティスは肩を落とし、カノンの手を握ったままソファーへと誘導した。
失血を押さえるために、カノンの手首はラダマンティスによって強く握られ青白くなっていた。
カノンは自分の身体状態に関して甚だ無関心だった。このまま血が流れ続けて止まらなくなり、最終的に失血死しても構わなかったが、ラダマンティスが世話を焼くのだから仕方ない。

「……もういいラダ、血が止まったのなら放せ」
「駄目だ、血止めしただけでは足りん。応急手当をしなければ」
「この程度なら問題な、」
「問題ある!」

すさまじい剣幕だった。ラダマンティスが何をそこまで必死になるのか、カノンには理解できなかった。
「救急箱を、持ってくるから、それまで、動かさないで、いろ!」
一語一語を強調して言われては、従わないわけにはいくまい。全速力で執務室を出て行ったラダマンティスの背中を見送ったカノンは、おとなしく椅子に座って待つことにした。
すると、一分もせずにラダマンティスが息を切らしながら戻ってきた。よほど急いできたのだろう。

「包帯巻くぞ」
有無を言わせず、ラダマンティスは傷口に当てていた布をどけて消毒液をふりかける。少し沁みたが、声を出すには至らない痛みだ。救急箱から包帯を取り出し、慣れた手つきでカノンの人差し指に巻きつけていった。
カノンの珍しそうな視線に気付いたラダマンティスが言う。
「小さな傷は、自分で処置しているからな。いちいち部下に心配をかけたくはない」
おまえらしいなと言うと、ラダマンティスは「そうか?」と首を傾げた。

「……カノン、何故こんな切り傷を? おまえほどの男が簡単に傷を作るとは思えんが」
「ああ、それなら」
カノンは億劫そうに、包帯が巻かれていない左手で、本棚の隅に置かれた観葉植物を指差した。
「葉で切った」

ラダマンティスの話によると、その観葉植物は「ラダマンティス様はいつもお疲れのようなので、少しでも癒しを」と部下のクィーンが気を利かせて置いたらしい。なるほど、あのアルラウネの持ってきたものならば、鋭い切れ味なのも頷ける。
「すまないな、間接的ではあるが俺のせいだ。傷の手当くらいしかしてやれることがない」
「別に。おまえのいない間、勝手に部屋のものに触った俺も悪い」
ラダマンティスは顔を伏せ、カノンの長い指に巻かれた真新しい包帯に目を落とした。
易々とカノンに傷を付けた観葉植物が恨めしい。自分でさえ、カノンに触れるたびに緊張するというのに。だが観葉植物ごときに妬いたなどと知れれば、きっとこの男は大笑いするだろうから口には出さなかった。

「――ラダマンティス」
カノンが尋ねる。
「観葉植物の寿命って、どのくらいか知ってるか?」
唐突な質問ではあったが、ラダマンティスは生真面目に答えた。
「クィーンは、うまく育てれば人の寿命よりも遥かに長く生きると言っていた。専門的なことは知らん」
「そうか、それならいい。……なあラダ、この観葉植物ずっと育てろよ」
「言われずともそうするつもりだが……どういう意味だ?」
謎掛けのような言葉と共に、カノンは笑う。遠くを見るような目で、笑う。
「俺が死んでも、俺の血を吸ったその葉は変わらずに生き続けるだろう?」

人間の食べた物が、やがて血となり肉となるように。植物に取り込まれた彼の血液は、道管をめぐり葉脈を経て、葉や根の隅々に行き渡る。『カノン』はその植物の一部となるのだ。
たとえ『カノン』本人が消え去ろうとも、そうやって一部は残される。
「おまえが寂しくないように」
だから枯らすな、とカノンは言った。彼の瞳は、今よりもずっと先の死を見据えている。

「――残念だが、カノン。その頼みは叶えてやれそうに無い」

時折カノンが遠い目をするのを、ラダマンティスはこれまでにも何度か見てきた。
死を知りすぎているのだろうと思う。自分が死を体験したのは後にも先にも一度きりで、カノンほど死と親しいわけでもない。だから、うまく死を誤魔化して話を流すようなことは出来ないし、かといって死を否定することなど不可能だ。今の自分に言えるのは、きっとこれだけだと思った。
「俺が死ぬのは、おまえと同じ瞬間だと決めているのでな」

一度目は時を同じくして二人とも死んだ。ならば、いつ来るかは分からぬ二度目の死もまた同じ。
どちらかが先に死ぬことがなければ、どちらかが置き去りにされることもない。
故に、『形見』など最初から必要のないものなのだ。

カノンは今度こそラダマンティスに目を向けた。目を見開いて、プロポーズとも取れる台詞を吐いた目の前の男を凝視する。何か言おうと思っても、言うべき言葉が思いつかずに固まった。ラダマンティスは相変わらず憮然とした表情だ。
「……本気か?」
「当たり前だろう」
確認するまでもなかった。ラダマンティスという人間は、この状況で冗談を言えるほど頭の柔らかい男ではない。それはカノンが一番よく知っていた。
「生きるも死ぬも、俺とおまえは道連れか。……上等だ」
にやりと笑う。先程の笑みとは比べ物にならないほど、物騒な笑い方だった。カノンの瞳には獰猛な獣の光が宿っていた。
ラダマンティスはおもむろに立ち上がり、執務室の扉の鍵を掛ける。
生きるも死ぬも、そしてこれから始まる行為を知るのも、二人だけでいい。



(この甘美な時間を味わえるなら、怪我も良いと思えるのだ)





2009/04/07


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