龍を解き放つ日


わたしはふたりを見送って、帰ってきたのはひとりだけだった。
自分は死ぬだろうと言っていた老師は、そのお言葉通り帰ってこなかった。……覚悟は、していたはずなのに。老師は決して嘘をつかない人だから。良いことも悪いことも、なにひとつ隠さずわたしに伝えてくれる。あの時、自らの死を冗談交じりに告げたのも、紛れもない真実だったのだ。

(……でも)

まばたきを、ひとつ。

(紫龍は、帰ってきてくれた)

滝から吹く風に揺れる黒髪が見える。
紫龍。目が見えない状態で、完全には癒えていなかった傷を抱えながら行ってしまった紫龍。
五老峰に帰ってきたのは一箇月ほど前。数週ぶりに再会した彼には、新しい傷がいくつもできていた。光を失ったままの瞳。彼は老師の死をことさら静かに伝え、涙を流すわたしの肩を抱いてくれた。
わたしが泣いたのは、老師を亡くした悲しみもあったけれど、同時に紫龍がこれ以上戦わなくていいのだという事実が嬉しかったからでもあった。そのことを、彼には言えない。

「紫龍!」
彼の背中に向かって呼びかける。先ほどからずっと空を見上げていた彼の意識がわたしのほうへと移ったのを確認して、ひどく安堵している自分がいた。
「もう暗くなっているわ。夕食にしましょう」
「ああ」
短く応えると、紫龍は滝に背を向けてこちらへと歩いてきた。目の不自由な彼が歩くのに困らないよう、わたしはその腕を取って隣に寄り添う。
そう、こうしているだけで幸せなのだ、わたしは。たとえ老師がいなくても、紫龍の目が見えなくても。『紫龍』がここにいてくれるなら、それで。

わたしの用意した夕食は、決して豪華とはいえなかったけれど、栄養はしっかりと摂れるような献立だった。
必要なものを必要なだけ、無意味な贅沢は心に隙をつくる。老師の教えを忠実に守った習慣は、今でも変わらずに続いていた。
紫龍は食事の間はほとんど話さない。ふたりきりの気まずい空気に耐えられなくなったわたしが苦し紛れに話題を持ち出したりしても、嫌な顔一つせず相槌を打ってくれる。でも、それだけ。一言二言反応を返しはするけれど、ただそれだけ。そこから話題を発展させることはせず、食事の時間に再び沈黙が訪れる。
以前は紫龍のほうから話しかけてくれることもあったのに、ここ一箇月間――彼が『聖戦』と呼ばれる戦いから帰ってきてから――は、食事中どころか普段の日常会話も少なくなってしまった。

(……わたしは、)

食事が終わり後片付けを済ませる。紫龍はわたしに「おやすみ」とだけ言って、すぐに外へと出て行ってしまった。不自由な目で夜に出歩く彼が心配になり、足音を忍ばせて後ろから付いていく。どこへ行くのかを直接彼に尋ねなかった理由は、きっと。

(わたしは、知っているから)

滝の落ちる音が次第に遠くなり、森の中へと入る。紫龍は歩くのを止めなかった。迷いの無い足取りで前に進んでいく。わたしは息を詰めて追いかけるだけだった。
数分ほど歩いて、密集した木々が途切れる場所へと辿り着く。そこだけぽっかりと穴が空いたように、空が突き抜けていた。廬山の澄んだ空気はよりいっそう星の光を眩しくさせる。気づかれないように、わたしは林の中に隠れて紫龍の様子を窺ことにした。

(こんなこと、しなくたって。わたしは知っている)

紫龍は空を見上げていた。満天の星空。数え切れないほど夜空に散らばる星たち。
けれど、彼が見ているのは廬山の空じゃない。此処ではないどこかの、空。遠い遠い空。見えない目で、遙かな場所にある星空を見ていた。

(わたしは知っている。
紫龍が空を見上げる理由を。紫龍が求める空の場所を)


まばたきを、ひとつ。深呼吸を、ひとつ。
わかっていたことなのに。認めなければならないことなのに。わたしは知らないふりを続けてきた。この一箇月の間、ずっとずっと彼を引きとめ続けてきた。彼が何も言わずにいてくれるのを良いことに、「行かないで」と言葉の鎖で縛り付けて。
――もう、解放してあげなければ。
あるべき場所から離れた龍は、このままでは天へ昇ることも叶わず、生きながらに死んでしまう。そうなる前に。

「……紫龍、」

空に思いを馳せる彼を引き戻すため、大きな声で呼んだ。
「春麗?」
私を出迎えたのは、紫龍の驚いた表情だった。でも彼は、どうして此処にいるのかをわたしに問いただすようなことはしなかった。そうか、いたのか、と小さな声で呟いて、それきり押し黙ってしまった。
ああ、やっぱり。彼はわたしに気を遣っているのだ。紫龍に傷ついて欲しくないと、涙を流しながら懇願したわたしに。戦わねばならない理由があったあの時とは違って、今では戦う理由も意味もない。だからお願い、ずっと此処にいて。もうわたしから離れないで――ひと月前の約束を、紫龍は守ってくれた。彼の心がどんなに別の空を望んでいても、此処に留まってくれた。紫龍は、優しいから。

「ねえ、紫龍」

それも、この夜で終わり。
今度こそ手放さなくてはならない。

「行っても、いいのよ」

紫龍は、見えない目をいっぱいに見開いた。どうしてそれを、という声が聞こえてくるようだった。
「わたし、知っているの。あなたが心をどこかに置いてきてしまったこと。あなたはそこへ行きたがっていること。だから、いいの」
優しいあなたは、自分の心を殺してまでわたしの願いを叶えてくれる。わたしはあなたと一緒にいたいけれど、その願いを通してしまったら、あなたはあなたでなくなるから。あなたは幸せになれないから。
わたしにとっての幸せと、あなたにとっての幸せは、互いの心の奥底で異なっている。

わたしが願うのは、あなたの笑顔。あなたの幸せ。
それらをもたらすのが、わたしじゃなくても。

「春麗、君は……」
いつのまにか泣いていたわたしの頬から零れ落ちる涙を拭おうとする紫龍の手を、やわらかく包み込んだ。
この手は、わたしの涙を掬うためではなく、大切な誰かを抱きしめるためにある。
言い聞かせるように、ゆっくりと。龍を解き放つ言霊を紡ぐ。

「……紫龍。わたし、あなたが好きよ。だから、」

(だからこそ、)

「いってらっしゃい」

これが本当の別れ。もう二度と会うことはない。そんな別れの時ですら、わたしたちは多くの言葉を必要としなかった。共に過ごした歳月が、伝えたいことを代弁してくれた。
ありがとう、紫龍。わたしの我侭に付き合ってくれた優しいひと。
どうか叶うなら、これからは大切な人と共に幸せになってください。そしていつか、あなたのほうから我侭を言えるようになってください。あなたが幸せになるための我侭を。

まばたきを、ひとつ。
瞳から溢れる涙は、駆けてゆく彼の背中が見えなくなるまで止まらなかった。



(さよなら、わたしの初恋)





2008/12/17


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