恋が弾けるお時間です 1


遙の家には猫がよく現れる。そのどれもが家を持たず、近所に住み着いている野良猫だ。気まぐれに姿を現しては食べ物をねだったり、庭先で昼寝をしていたりする。昔からそうやって付き合いを続けていたから、今更驚くようなことでもない。
……しかし、今こうして玄関前に陣取っている猫は、いささかサイズが大きすぎた。長い手足を丸めて地べたに座り込み、赤毛を膝に埋めて沈黙している。飼い主に家を追い出された猫は、きっとこんなふうにしょぼくれて肩を落とすのだろう。
遙は呆気にとられたまま、眼下にある彼のつむじを見つめるばかりだった。果たして声をかけるべきか否か、それとも見なかったことにして裏口から家へ入るか、そもそも何故この時間この場所にこの人物がいるのか。頭の中がぐらぐらと混乱する。
人の気配に気付いたのか、大きな赤毛の猫が顔を上げた。一瞬、泣いているのではないかと思った。しかし予想に反して涙など一粒も零れてはいなかったし、目を赤くさせているわけでもなかった。不機嫌そうな光を宿した目が睨み上げてくる。

「……凛」
唇が二文字の音声を紡ぐ。久しく本人に向けて呼んでいなかった名だ。一日だって心の中で呼ばない日はなかったけれど。
呼ばれた方は煩わしそうに目を細めると、消え入りそうな声で悪態をついた。

「おせーよ、バカ」

待ち合わせをしたわけでも、会いに来てくれと頼んだわけでもなかった。遙が部活を終えて家に帰ったら玄関先に彼がいた、ただそれだけだ。凛は自分から遙の家へ足を運び、遙の帰りを待っていた。単なる気まぐれや思いつきで片付けるには、鮫柄から岩鳶の距離は離れすぎている。発作的に岩鳶へ行こうと行動を起こしたとしても、電車に揺られる時間の中ではっと我に返るはずだ。何をやっているんだと自分を叱咤して道を逆戻りすることもできただろう。だが凛はここにいる。わざわざ鮫柄から電車を乗り継いでここまで来たのだ。
凛がそう短くはない時間をこの玄関前で過ごしたであろうことは、凛自身の言葉からも、そして少し疲れているような彼の様子からも容易に想像できた。

「……何しに来た」
気遣う言葉のひとつでも掛ければよかったものを、遙の口からはぶっきらぼうな言葉しか出て来なかった。動揺を自覚する。
「見りゃ分かんだろ」
「分からないから聞いてる」
凛は見るからに面倒そうな表情をした。それくらい察しろよと顔に書いてある。遙とて凛がここに来た目的を一切理解できないわけではなかった。具体的な理由は分からないにしろ、きっと何か嫌なことがあって逃げ出してきたのだと、不本意なしがらみを忘れるためにここを目指したのだと。それくらいは簡単に推し量ることができた。だが、遙は凛から直接聞きたかった。無知を建前に凛の言葉を探る。
その意図に凛も気付いたのか、諦めたように一言、

「今晩お前んちに泊めろ」

という可愛げのない“お願いごと”が返ってきた。素直に「会いに来た」と言えない性格なのは最初から分かっていたので別段驚きもしない。ただ、人にものを頼む態度にしてはあまりに捻くれている。ここでもし遙が頼みを断りでもしたらどうするつもりなのだろう。遙には絶対に拒絶されないという自信の表れであるなら、それはそれで居心地がいいかもしれない。
右肩に掛けていたバッグを持ち直して軽く息をつく。今日はこのまま家でのんびりとするはずだったが、思いもしないイレギュラーが飛び込んできた。おかげでまた一つ、明日に計画していた予定を繰り上げなくてはならなくなった。

「俺、これから着替えて買い物に行くんだけど」
「は?」
3歩分の距離を詰めると、凛は慌てて腰を浮かせる。「帰れ」と追い出されることを心配でもしているのだろう。その瞳に僅かな不安の色が差したのを見て、遙は不本意な思いを抱いた。ここまでわざわざ足を運んできた人間を手ひどく突っぱねることができようか。俺はそこまで薄情じゃない、という思いを込めて、ダメ押しの一言を告げる。

「お前が何を食べたいかは、スーパーに着いてから教えろよ」





2人の男子高校生が、スーパーマーケットの自動ドアを何気なく通過する。一人はパーカーにジャージというラフな格好、もう一人はこの地域ではあまり見かけない他校の制服だ。学校帰りに買い物をする――というには纏う雰囲気が異質だったが、他の買い物客は彼等を気にすることはなかった。
遙の家から徒歩10分の場所にあるスーパーは、夕食の時間前ということもあっていつもより人の出入りが多い。カートを引く母親にアイスをねだる子供や、安売りのモヤシをいくつもカゴに放り込むおばさん、ソーセージのパッケージを両手に掴んで価格を見比べる主婦など、見慣れた光景が広がる。それに構うことなく、遙は手にしたカゴに野菜を次々に入れていった。普段スーパーで買い出しをする習慣がないであろう凛は、物珍しそうにきょろきょろと周りを見回しながら遙の後をついていく。

「そんなに野菜買って、何に使うか考えてんのか?」
「別に。とりあえず一週間分買い溜めして、その場にある材料でメニューを決めるから問題ない」
「器用な奴……」

関心したように呟く声はまるで他人事だ。興味本位にパプリカを手に取って、カゴに入れるでもなく元の場所に戻す。買い物に協力する気はないらしい。余計なものを選ばれるよりはマシだったが。
「それで、今夜は何が食べたいんだ?」
「あー……どうすっかな」
「決めとけって言っただろ」
「急かすなよ今考えてるから。そうだな……やっぱりここは……肉?」
凛の視線が精肉コーナーへと移る。迷った時は肉だと本能に染み付いているようだ。だが遙はあからさまに表情を曇らせた。

「俺は魚がいい。というか、鯖」
「はあ?俺に何食べたいかって聞いてきたのはお前だろ、どうしてそこでお前の好みが出てくんだよ」
「鯖が食べたい気分だから」
「それはいつものことだろーが。俺は嫌だからな」
「…………」

遙は不機嫌そうな態度を崩さなかったが、歩みは自然と精肉コーナーへと向いていた。今日くらいは凛の我侭に付き合ってやろうという気分だった。
そもそも、凛からのリクエストを募った時点で「肉」という回答が出てくるのは必然だと考えるべきなのだ。凛は昔からとにかく肉をよく食べる子供だった。たまにスイミングクラブの仲間たちと親同伴で外食に行く時でも、真っ先に肉料理を選んでいた。お腹が空いているからと調子に乗って、子供一人には有り余る量を頼んでは、食べ切れずに真琴へ残りを託すのが常だった。それを咎めもせずに引き受ける真琴も真琴だと、当時の遙は不満気に思ったものだった。どうせ凛は自分に都合の悪いことはけろっと忘れているのだろう。

遙より先に精肉売り場へたどり着いた凛は、国産の牛肉のパッケージを前にして、ありえねえ!と素っ頓狂な声を上げた。
「日本の肉ってこんなに高えのかよ!?オージービーフなんて同じ値段でこれよりもっとでかいブロック買えるぜ」
好物の肉に関してだけは詳しいようで、わなわなと震えながら値札を睨みつけている。凛は質より量派だ。オーストラリア産の肉が現地でどれだけ安いのかは知らないが、いかにその良さを熱弁されたところで自分は国産しか買わないだろうな、と遙はぼんやり思う。留学先での出来事は頑なに話そうとしないくせに、こんな時に限ってオーストラリア賛美をする凛の思考回路がよく分からない。

「俺は国産の方が好きだけどな。それより、もっと具体的なメニューを言ってくれ。肉だけじゃ漠然としすぎ」
「じゃあお前は何食べたい?肉限定で」
逆に聞き返されて、遙は言葉に詰まった。今日の方針は完全に凛に任せるつもりだったので、自分ではまったく考えていなかった。しかも肉料理と限定されては尚更困る。作るためのレシピは頭の中にいくらでも入っていたが、それを自分が食べたいかと問われると話は別だった。元来水以外に執着を見せない遙は、食べ物に関しても同様に「これが好き」と強固に主張できるものはあまりない。鯖をはじめとした魚や水気のあるものは好きだが、それも水を求める結果にすぎなかった。

「肉限定で……?」
いよいよ遙は答えに窮する。肉、肉、肉。果たして自分の頭の中に、肉をおいしいと思った記憶など残っているだろうか。こってりと脂がのりすぎたものは食べて気持ち悪くなるだけだったし、焼肉屋へ行っても肉ではなく野菜ばかり食べていた覚えしか――
「……あ」

そこでふと、遙は思い出した。凛たちと一緒に、市街の小さなファミリーレストランへ行った時のことだ。あの時も凛は分相応の大きなサイズのハンバーグを注文した。どうせまた最後は真琴に押し付けるんだろうと思いながら凛を見ていたのを覚えている。注文したハンバーグが出てきて、凛はこれでもかというほど目を輝かせた。全員分の品が来るよりも早くフォークを手にしてハンバーグに突き刺す。じゅわあと溢れだした肉汁の濃厚な香りを吸い込んで、凛は大きなひとかけらを口の中へ運ぶ。その瞬間の幸せそうな顔といったら、水泳のタイムで遙に勝った時以上ではないかというくらいだった。
実際は何の変哲もない普通のハンバーグで、ファミリーレストランに行けばどこにでもあるような品だった。けれど本当に幸せそうに味わうものだから、遙は凛のハンバーグだけ特別なもののように思えたのだ。

その記憶が一気に雪崩れ込んできて、遙は無意識のうちにとあるパッケージを手に取っていた。「国産 牛豚合い挽き肉」と書かれたそれ。
「……ハンバーグ。」
ぽつりと呟いた声は、凛の耳にも確かに届いたらしい。その声を聞くや否や、凛は「じゃあそれで決まりな!」と八重歯を見せてにんまり笑って、遙の右手から合い挽き肉のパッケージを奪い取った。そしてついでとばかりにカゴまで引ったくる。流れるような一連の動作に、遙は咄嗟の反応ができなかった。ぽかんと口を半開きにする遙を置いて、凛はカゴを持って颯爽と精肉売り場を後にする。
「おい、待てよ凛、」
慌てて凛の後を追いかけるが、凛は構わずスーパー内を制服で闊歩する。

「ハンバーグ作るならパン粉要るだろ?タマネギはもうカゴに入ってるよな?あとなんだっけ」
必要な材料が分からないなら黙ってついてくればいいだろうに、凛は奪い取ったカゴを離そうとはしない。つい先程まで遙が握っていた買い物の主導権は、完全に凛へと移行してしまった。元は凛が食べたいものを作るはずだったのに、これではまるで凛が遙のリクエストに応えているようではないか。あっという間に起こった立場の逆転に、遙は混乱を隠せない。そもそも、自分たちはどうして買い物に来たんだっけ――と、ここにいる意義を問い直す始末である。
熱心に卵を選ぶ凛の後ろ姿は、打って変わって上機嫌そのものだった。俺を出迎えた時の気弱そうな態度はどこにいったんだと思わずにはいられなかったが、口には出さなかった。





「俺がハンバーグとソースを作るから、凛はスープと付け合せを頼む」
「おう任せとけ。材料は冷蔵庫?」
「ああ。スープにはキャベツ・ニンジン・タマネギ・ジャガイモを適当に切って入れて、あとベーコンかソーセージを好きな量だけ。味付けはコンソメと塩胡椒でいいだろ、あんまり濃くしないであっさりと……」
「ちょ、ちょちょちょっと待て、そんなん一気に覚えられるかっての!ひとつずつ言え!」
「…………まずキャベツ」
「ん、これか。そんなに量いらねえよな」
「次にニンジン」
「はいはい」

七瀬家の台所では、当然のように2人が肩を並べて夕食を作っていた。遙がいつもの水色のエプロンをつけているのに対して、凛は桃色のエプロンを渋々着用していた。別にエプロンなんてしなくていいと言う凛の意見を無視して、遙が母親の箪笥から勝手に拝借して凛に押し付けたのだった。
やはりというか何というか、凛と桃色のエプロンという組み合わせは非常に違和感のある仕上がりだった。言い換えれば、しっくりこない。だがしっくりこないことと似合わないことは別問題だ。あまり料理をする習慣がないにも関わらず、エプロン自体は凛に妙に似合っていた。「新妻」という単語が遙の頭をちらついたが、それを口に出したらきっと凛は顔を真っ赤にして「帰る!」と怒り狂うだろうから黙っておく。

家に泊めろと言っておきながら、凛は宿泊道具どころか着替えすら持ってきていなかった。彼が今着ているTシャツとスウエットも遙から借りたものだ。体格はあまり変わらないからすんなり袖が入った。脱いだ制服はバッグの脇に畳んで置いてある。
凛は授業が終わると、部活には向かわずにそのまま遙の家へ直行したのだという。本当に思いつきで、着の身着のままの状態でここへ来た。その話を聞いて遙が内心呆れたのは言うまでもなかった。寮には連絡したのかと尋ねても、後輩がなんとか誤魔化してくれるの一点張りで信用できない。凛が何のために遙の家まで来たのかという疑問が再び鎌首をもたげる。
だが、料理をしている間の凛は、敢えてその話題からは目を逸らしたいようだった。合い挽き肉をこねる遙の横で、野菜を一口大に刻みながら、江が送ってきたメールの内容がどうとか、鮫柄の室内プールは空調が悪いだとか、他愛もない話ばかりを流暢に喋る。凛はもともと喋っていなければ死んでしまうというくらい話し好きな子供だったことを、遙はようやく思い出す。4年ぶりに再会してからは殺伐とした会話しかしていなくて、凛の話に耳を傾けるその感覚を久しく忘れていた。

「でさあ、そいつ江のメアド教えろってうるせえから、じゃあ今度の合同練で直接聞けばいいだろっつたんだけど、」
「……凛」
「あ?」
「鍋。沸騰してる」
「ちょっ……、そういうことは早く言えよ!あちっ」

吹きこぼれかけた鍋の蓋に手をかけた凛が小さく悲鳴を上げる。言わんこっちゃないと遙は溜息をついて、汚れていない左手で冷凍庫の扉を開けると、中から保冷剤を取り出して凛へと投げつけた。凛は反射的に受け取るものの、「そこまでしなくてもいい」とぼやいた。それは凛の言う通りで、鍋の蓋は確かに熱かったが火傷の心配をするほどではなかったのだ。だが、凛は遙から渡された保冷剤を返す素振りは見せず、そのまま素直に指先へと宛てがう。今の凛は、遙の気遣いを真正面から拒めない。
そんな彼の様子に気付かないふりをして、遙は無心にハンバーグを練っていた。





白いプレートに、中くらいのハンバーグがふたつ、デミグラスソースに包まれてほかほかと湯気を立てている。その横にはほうれん草とエリンギのバターソテーが添えてある。このソテーとコンソメスープは、凛が鍋を吹きこぼしながらも作ったものだった。スープの具は乱雑に刻まれてどれも不揃いだったが、肝心なのは味である。何度も味見をして、濃くしすぎないように調整した。凛は濃口の方が好きだったが、敢えて遙の好みに合わせたのだ。
メニュー自体には洒落た雰囲気があるものの、それを食べるのは和室の居間、食器も箸しかないのでひどくアンバランスだった。こればかりは仕方ない。
2人で向かい合って「いただきます」と同時に手を合わせる。顔を見るのも嫌だった相手の家に上がり込み、一緒に夕食を作って食べることになろうとは。遙の家に行こうと思い立ってしまった自分の行動力も謎だったが、それをあっさりと受け入れる遙もどうかと思う。
だがそんなことを今更あれこれ考えても無駄だ。とりあえず、今目の前にある夕食を食べるのが先決だろう。

箸でハンバーグを切り崩し、ひとかけらを口に放り込む。瞬間、熱い肉汁が口の中に広がった。デミグラスソースに混ぜた赤ワインの香りが鼻孔をくすぐる。おいしい、と素直に感じた。素朴で、けれどとても懐かしい味だった。言いようのない幸福感が全身を包み込み、知らず知らずのうちに口元が緩んだ。
――しかし、正面からの視線を感じて、凛はすぐに現実に引き戻される。凛がハンバーグを一口食べて身悶えている間、遙は食事には手を付けずに、箸を持ったまま凛を凝視していたのだった。じいっと、まるで敵の動向を探るがごとく。

「……なんだよ、ハル」
幸福な時間に水を差されて、凛は不機嫌そうに唇を尖らせた。名を呼ばれて遙はやっと我に返ったのか、すぐさま視線を逸らして俯いた。思い出したようにいそいそと夕食に手を付ける。
「人の食事風景を盗み見といてシカトかよ。おい聞いてんのか」
しかし遙は無言で箸を動かすばかりだった。昔ファミレスで見た凛の姿を思い出して悦に浸っていたとか、どれだけ巧妙に隠しても、おいしいものを口にした時の一瞬だけは素に戻るんだなとか、肉を食べてる時の表情は昔と変わらないとか、そのようなことを凛に言えるはずがないのだ。沈黙を突き通して凛の追求を逃れるほかなかった。
結果。互いに黙ってハンバーグを咀嚼し、時折遙が思い出したように顔を上げて凛の表情をうかがい、それに気付いた凛が遙を睨みつけるも、遙は懲りずに凛に視線を向ける……という奇妙なループが七瀬家の居間で繰り広げられることになるのだった。



2人とも残さず綺麗に食べ終え、「ごちそうさま」と手を合わせる。間髪入れずに遙は立ち上がり、慣れた手つきで食器を回収すると台所へ持ち去った。自分の皿くらい自分で片付ける、と凛が申し出る隙もなかった。凛は呆気にとられて遙を見送ったが、手持ち無沙汰になってそのあたりにあった雑誌をめくり始めた。
台所からは食器を洗う水の音が聞こえる。遙の背中は一人での生活に慣れた者のそれだった。当たり前のように一人分の食事を作って、自分だけで食べる。そんな生活を毎日繰り返している。もし今日凛がやって来なかったら、遙はハンバーグを作ろうなどと考えもせずに、例のごとく鯖を焼いていたのだろう。それが遙らしい気もするし、少しだけ寂しいような気もする。
雑誌をめくる手はいつしか止まり、凛は台所に立つ遙の背中をじっと見ていた。一人で何でもできるからと、人に頼ることをやめてしまった後ろ姿を。

やがて遙がくるりとこちらを向いた。その手には何故か、一枚の白い皿。そういえば遙はさっき、洗い物を終えた後に何やら鍋に火をかけていた。
「ハル、手に持ってるそれ……」
一体何だ、と尋ねようとする凛の横をすり抜けて、遙は縁側に向かっていった。完全に素通りされて機嫌を良くする人間などいようか。カチンと来た凛は、皿の中の正体を探るべく、縁側に腰掛ける遙の肩を掴もうとする――が。

にゃあん。

新たな来客の可愛らしい声。凛は不意を突かれて声を喉の奥に閉じ込めた。見れば、闇に溶けた庭の片隅から、猫が3匹こちらへやって来るのだった。その呼び声に応えるように遙が白い皿を地面に置くと、猫たちは待ってましたとばかりに駆け寄って、一心不乱に皿をぺろぺろと舐め出した。さっき遙が鍋で温めていたのはミルクだったのだ。
凛は口を半開きにしたまま、皿に群がる猫と、それを優しく撫でる遙の指先を眺めていた。ああ、そういうことか。こいつは別に一人なんかじゃなかったんだ。そう思うと急に気が抜けた。遙について色々と考えを巡らせていたのが馬鹿らしくなる。凛はのそりと体を動かして、遙の隣に腰掛けた。
縁側からは月がよく見えた。半月にも関わらずやたらと眩しい。庭の植え込みからは虫の声がひっきりなしに聞こえる。

「お前、いつもこいつらにミルクやってんの?」
「いつもはハムとか、魚の切り身とか。最近肉系が続いたから、今日は牛乳」
「ふうん……」

猫を撫でる手つきは随分と手馴れていたので、この猫たちとの付き合いは結構長いのだろうと推察した。遙が指先で猫の喉をなぞると、ごろごろと気持ちよさそうな声が返ってくる。この猫も相当懐いているようだった。
人に対しては無関心を貫き、必要に迫られない限りは自分から触れてこようともしないその手が、驚くほど優しく、信じられないほど柔らかに、茶ぶちの頭を撫でている。視線だけで横顔を盗み見ると、いつもと変わらない無表情かと思いきや伏し目がちの瞳がひどく穏やかに凪いでいるものだから、凛は何か見てはいけないものを見てしまったかのように目を逸らした。
俺には、そんなふうに触れてくることも、そんな顔したこともないくせに。凛は心の中で悪態をつく。別にああいう視線を向けられたいと思うわけではない。むしろ、この猫たちにするように優しく撫でられでもしたら、それこそ全身に鳥肌が立つことだろう。そんなことを求めているわけではないのだ。そんな、ことは。

凛の不機嫌なオーラを感じ取ってか、遙が猫から凛へと視線を移す。
「……お前も触りたいのか?」
そっちじゃねえよ、と盛大に舌打ちする。心の中でだけ。顔は無表情を装った。
「んなわけねえだろ。猫なんてどうでもいい。……俺は動物に嫌われやすいし」
昔は自分から積極的に猫に触りに行って、これでもかというほど構い倒していた。猫も猫で存分に楽しんでいたようだし、あの頃はまだ動物とも良好な関係を築けていたと思う。けれどいつの間にか動物に避けられるようになった。昔あれほど遊んでいた猫ですら、視線が合っただけで逃げていく。近寄りたくても近寄れなくなった。だから動物は嫌いだ。
「それは、凛が近寄りがたい空気を出してるからだろ。気を張りすぎなんだよ。リラックスして自然にしてれば、こいつらだって警戒しない。……ほら、」
遙は凛の手を取ると、一番近くの黒猫へと近付ける。凛の指先が咄嗟に怯んだ。

「大丈夫だよ、こいつら人懐っこいから」
言われるがままに手を伸ばし、柔らかな毛に触れた。初めは恐る恐る、次第にゆっくりと、同じ軌道を描いて撫でる。にゃおん。黒猫は一声鳴くと、居心地よさそうに目を閉じた。凛の手を拒む気配はまるで無い。猫を撫でるなんて、一体何年ぶりだろうか。
「……ほんと、慣れてるな」
「だろ?」

凛が感嘆の溜息を漏らすと、遙は得意げにほんの僅か笑った。だが、猫を撫でるのに夢中になっている凛はそれに気付かない。
黒猫が気持ちよさそうにしているのを見た他の2匹は、我も我もと凛の足元へ寄っていく。いつも撫でてもらっている遙よりも、新しく来た凛に猫たちは興味津々だった。猫にそっぽを向かれた遙は、喉を鳴らす猫と、それを無心に撫でる凛を交互に見やる。動物の癒し効果は絶大で、遙の前ではいつも深く深く刻まれている眉間の皺はどこへやら、凛は口元をふにゃふにゃに緩ませて蕩けそうな目で猫を見つめるのだった。

――さすがにそれは、困る。

そう思うのと、遙が衝動的に凛の唇を奪ったのは、ほぼ同時だった。
「……は?」
凛には一瞬何が起こったのか理解できなかった。猫を撫でる姿勢のまま目を見開いて硬直する。掠め取られた熱、僅かに残るくちづけの余韻、感情の波が読めない目で見つめてくるまなざし。それら全てを統合して、出てきた答えはただひとつ。……キス、された。
「……ふっ……ざけんな!!」
荒々しい怒声と共に、板の床に拳を打ち付ける。その拳を遙に向かって振り上げなかったのは凛の精一杯の理性だった。
猫たちは音と衝撃にびっくりして、蜘蛛の子を散らすように庭の外へと逃げていった。縁側には顔を真っ赤にさせた凛と、憮然とした表情でそれを見る遙だけが残された。

「猫、逃げたじゃないか」
「誰のせいだと思ってんだよ!」
「凛が口元をだらしなくしてるせい」
「デタラメ言うな締め上げんぞ!」
「いや事実だし」

凛の眉間の皺が復活したのを見て、どこか安心している自分がいることを遙は自覚した。いくら可愛らしい猫の前とはいえ、あんなにも無防備で隙の多い姿を晒されては困る。昔の屈託ない凛ならともかく、今は不機嫌そうな顔標準装備、近寄るなオーラを全開にしているのが常だというのに。不意にあんな顔を見せられたらたまったものじゃない。
先程のキスは遙にとって十分に意義のあるものだったが、その思考の経緯を知らない凛にしてみれば青天の霹靂、前触れもない一方的で理不尽なキスだとしか思えなかったようである。わなわなと肩を震わせて、握り拳に力を込めている。
「いい加減にしろよな……てめえの気まぐれに付き合わされるこっちの身にもなりやがれ」
勝手に人の家の玄関先に座り込み、今晩泊めろとのたまった自分のことは完全に棚上げだ。
遙は、凛がどの点において怒り狂っているのかを理解できない。この怒りを鎮めるには直接原因を聞いたほうがいいと判断する。

「お前、何がそんなに許せないんだ?何も言わずにキスしたこと?猫と遊んでるのを邪魔したこと?キスが一瞬だけだったこと?」
「全部に決まってんだろうが!」
「それなら、あらかじめこれからすることを宣言した上で、長時間キスすればいいんだな」
「え…………えっ?」

斜め上すぎる解釈に凛は素っ頓狂な声を上げた。いや待てその解釈はおかしい。と凛が言うよりも早く、遙は凛の手首をがっしりと掴んでいた。怯む間に腰まで引き寄せられる。おかしい。完全におかしい。そもそも「キスが一瞬だけだったこと」を許せないポイントとして挙げるのは明らかにおかしい。流れでそのまま肯定してしまったが、それは即ち「もっと長いキスが欲しい」と言っているのと同じことで――
「あ。」
凛は、しまった、という顔をした。遙は間違ってもこんな計算ができるような人物ではない。ということは天然だ。本能のまま、凛に逃げ道を作らないような言葉を紡ぐ。計算高い奴よりもよっぽど厄介ではないか。
腰を掴んで、ぐぐぐっと距離を詰めてくる遙の目は真剣そのものだった。この目に勝てるわけがない。だが精一杯の抵抗くらいは許されてもいいだろう。

「おいっ、ハル、まだ待てって……」
「もう十分待った」
「いや、お前はよくても俺が駄目なんだよ!」
「今までの間に心の準備を済ませてない凛が悪い」
「それ暴論……んむっ、」

時間稼ぎをしようとする言葉は掻き消された。あとはもう、流されて行くだけだ。


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