キップル・インダストリー


※ハイスピ未読時に書いたものです。
※ショタ凛が夏の時点で既に岩鳶にいる設定です。



「なあ、このあとゲーセン行こうぜ!」

スイミングクラブの帰り道、凛は水着の入ったバッグを肩から提げて、ニカッと八重歯を見せた。少年たち4人の行動方針を提案するのは、いつも凛か渚のどちらかだ。今日は凛が真っ先に「ゲーセン」という単語を発した。
田舎の漁師町である岩鳶町には、ゲームセンターなどという華やかな施設は縁がない。だがバスで20分ほどの距離にある市街に出れば、海岸沿いよりは栄えた場所に辿り着く。最近その繁華街に新しく複合型の娯楽施設ができたということは、凛の話で聞いていた。そこにはゲームセンターも入っているらしく、凛は少し前から会話の端々にそのゲームセンターについての話題を出していた。そして今日とうとう実行に移そうというのだろう。今日の練習が始まる前から妙にそわそわしていたのはこのせいだったのか、と遙は頭の片隅で考える。

「えっ、それって凛ちゃんがいつも言ってたあそこのゲームセンター?行きたい行きたい!」
誰よりも先に乗ってきたのは案の定渚だった。ぴょんぴょんと体を跳ねさせて同意と興奮を示す。珍しいものに対する好奇心は人一倍強いのだった。
その横で不安そうに身じろぎした真琴が、困り眉で声を上げる。
「でも、そういう場所には子供だけで行っちゃいけないって、大人は言ってたよ?」
遙はやはり頭の中で、真琴の忠告はあっけなく却下されるだろうと予想した。真琴はあれこれ不安要素を並べて心配するが、生憎と押しの強さは今ひとつだ。好奇心に突き動かされた2人の耳に入るわけがない。

遙は小さく溜息をついた。練習が終わったのだから早く帰ればいいのにと思う。余計な面倒事に足を突っ込みたくはない。けれどここでそそくさと一人で帰ろうとしたところで、目ざとくそれに気付いた凛に「勝手に帰んな!」と襟首を掴まれ、「ハルちゃんも一緒に行こうよ〜!」と渚に取りすがられ、「一人で行かないでええ」と真琴に泣きを入れられるのは目に見えていた。結局自分も同行せざるを得ないのだ。行きたくないと駄々をこねることは無駄だった。
さっそくバス停へと駆け出す凛と渚を前にして、遙は静かな諦めと共に、渋る真琴の手を引いて2人の後をついていった。




岩鳶町の小学生にとってゲームセンターといえば、とにかく騒々しく、ちょっと怖い人たちの溜まり場というイメージしかない。その想像は決して見当違いではなかった。耳をつんざく爆音とそれに付随する地響きのような振動。まるで嵐の日の海に来たような――いや、この騒がしさは人工的に発生した音であるから尚更酷い。
自動ドアをくぐって店内に一歩足を踏み入れた瞬間、遙はすぐさま引き返したい衝動に駆られた。だがその衝動は行動を完遂させるには至らない。凛が遙の右手をがっちりと掴んでいるからだ。おそらくこうなることを見越して、凛は遙が逃げないようにと対策を講じたのだろう。

目をきらきらさせる凛と渚とは対照的に、真琴は店に入るや否や小さく悲鳴を上げて遙の背中にしがみついてきた。未知の場所に対する恐怖心で震えている。鼓膜が破れそうになる爆音もそうだが、それに加えて、中高生のグループがいくつか散在しているのも恐れを生じさせる原因の一つだった。今日は土曜日だったが、学生らしき人々はどれもジャージ姿で、おそらく部活帰りだということがうかがえる。別にこちらを睨みつけていたりしているわけではないのだが、真琴にはそこにただいるだけで威圧感を感じてしまうのだ。

凛に引っ張られる形でゲームセンターの奥へ奥へと進む遙、そしてその後ろを必死で真琴がついてくる。
「はっ、ハルちゃん、やっぱり僕無理だよ、出ようよ……」
涙声で訴えてくる真琴の声は切実だったが、そう言われても遙の右手は凛がきつく握っていて離すことはできそうにない。無理矢理引き剥がすこともできないわけではなかったが、ゲームセンターという未開の地で物珍しさに目を輝かせている凛の高揚に水を差すのも憚られた。

「……大丈夫、おれにつかまってろ」
店から出るという選択肢は選べそうになかったため、遙は少しでも真琴の不安を和らげる方向に動いた。すると真琴は少しだけ安堵したように肩の力を緩め、こくりと頷いて遙のパーカーの裾をつまんだ。この広いゲームセンターで迷子にならないようにという意味も込めて。真琴はなおも不安げに周りを見回してばかりだったが、遙が近くにいる限りは取り乱すことはなさそうだった。

「ねえねえ凛ちゃん!あれ、ゾンビ倒すやつじゃない?面白そう!」
「じゃあ一緒にやるか!」
「うん!」

渚が目をつけたのは大型のガンシューティングゲームだった。銃型のコントローラーを両手で抱え、無差別に撃つ真似事をする。凛も乗り気で渚に追随した。2人がそれぞれに100円を投入しゲームが始まる。
画面上に突然現れたゾンビを見て、先程まで落ち着いていた真琴が再び叫び声を上げた。青ざめた顔で、やだやだやだゾンビとか駄目だってー!と首をぶんぶん振る。画面を見ないように目を瞑るが、時々ちらりと目を開けてはうわー!と悲鳴を上げるのだった。ゲームが終わるまで視界を閉ざしていればいいものを、怖いもの見たさには抗えないのだ。真琴が画面を見るたびに強い力でしがみつかれる遙は、早く終わって欲しい一心だった。

凛と渚は大はしゃぎで画面に映るゾンビを銃撃していく。遙にはそれの何が楽しいのかさっぱり理解できなかった。出てくる目標物を倒すという趣旨なら、モグラ叩きでも充分だと。それに架空のゾンビなどよりも、真夏の寝苦しい夜に顔の周りを飛び回る蚊の方がよほど厄介に思えるのだ。刺された箇所の痒みを懸ける分、蚊を叩き潰すスリルは大きい。自然界にこれだけ驚異的な敵がいるのだから、わざわざ想像上の存在にまで戦いを仕掛ける必要性を感じなかった。
そういうことを言うと、どうせまた凛に「お前はロマンがわかんねーやつだなあ」と呆れられるに違いない。だから遙は口を閉ざして、見ることだけに専念する。

ゲームの方は、渚が早々にあっけなく戦線離脱して、凛が孤軍奮闘している所だった。凛は初心者ながらゾンビ相手に善戦したが、ライフポイントは見る見るうちに減っていってゲームオーバーになってしまった。2人とも最初こそ悔しそうに地団駄を踏んでいたものの、渚が横の音楽ゲームに興味を示したのをきっかけにして、すぐに新しい筐体へと移っていった。遙と真琴もそれに追従する。
だが、そうやってゲームに熱中していられるのも30分程度にすぎなかった。飽きてしまったのではない。ゲームに使う小銭がもう底をついてしまったためだ。小学生が一日で自由に使える小遣いなどたかが知れている。ゲームセンターは、その上限をいともたやすく突破してしまうのに十分な場所だった。

「ほら、もうお金もなくなっちゃったし、早く帰ろう?」
真琴の進言は、この時になってやっと凛と渚の耳に聞き届けられた。そうだね……と渚もがっかりした声で肩を落とした。本当はもっと遊びたくて仕方ないのだ。
まだ未練があるのか、2人はちらちらとゲームの筐体を見ながら店の外を目指す。一方で遙と真琴は、これでやっと帰れるという思いで足取りが軽かった。
――が、しかし。最後尾の凛が、とあるクレーンゲームの前でふと歩みを止める。ガラス越しの空間には種種雑多のぬいぐるみが並べられている。凛が目を留めたのはそのうちの左端、ハムスターの形をした手のひらサイズのマスコットだった。

「なあ、みんなちょっと待ってくれ」
「どうしたの凛ちゃん、気になるものでもあった?」
「うん。これ、このハムスターのやつ、江が好きなんだ。お土産に持ってってやりたい」
「わーっいいね!……でもさ、お金もう無いんでしょ?」
「いや、実はまだ、バス代の他に『もしもの時用』の300円が残ってる」
「3回分かあ。もしかしたら取れるかも!」
「おし、やるぜっ!」
「まだやるのお……?」

またやる気を出した凛、応援する気満々の渚、早く帰りたい真琴、そして既に見ているだけで疲れてしまった遙。テンションの落差が激しいものになっていたが、凛はこれがホントに最後だから!と言って聞かない。真琴と遙は仕方なく凛のクレーンゲームに付き合うことになった。
凛が取ろうとしているハムスターのマスコットは、同じ種類のものが2体並んで置かれていた。1回目の挑戦、凛は左側のマスコットを狙ったが、引っ掛けるリング部分にアームが掠るだけだった。続いて2回目の挑戦は右側狙い、うまくアームが引っかかったはいいものの、途中でするりと抜けてしまった。2体のマスコットはもつれるようにして転がった。

「あー惜しい!もうちょっとだったのに!」
「今のはいけると思ったんだけどなあ……」

いつの間にか真琴もクレーンゲームに引き込まれて、凛の操るアームがいいところに引っかかると歓声を上げたり、それが抜けた時には大きく溜息をついて落胆したりと、先程までの帰りたそうな雰囲気とは裏腹に新鮮な反応を示すようになっていた。クレーンゲームのコーナーには他に人がおらず、比較的静かだったのも、真琴の変化に関係しているのだろう。

「くそっ!最後は必ず取ってやるからな!」
凛は腕まくりをして3回目に臨もうとするが、ふと横から誰かが口を挟んだ。
「あそこ、うまくいけば2体いっしょに取れるかも」
そう言って2体のマスコットを指さしたのは遙だった。遙は、ガラスの向こう側にあるマスコットをじっと見つめている。頭の中でアームのシミュレートをしているようだった。
クレーンゲームに引きこまれていたのは真琴だけではない。遙も、様子を見守っているだけではあったが、アームの行方に心の中で一喜一憂していたのだ。
いきなり口出しをしてきた遙に凛は一瞬ぎょっとしたが、すぐさま反応する。

「七瀬、お前なんかいいアイディアあんのか?」
「確実ではないかもしれないけど……さっき凛が動かした時、2体のリングに重なる部分ができたんだ。そこを狙えば……」
「よし、やってみる!」

遙のアドバイスを受け、凛は最後の100円玉を投入した。慎重に慎重に、僅かなリングの隙間を狙う。かなりの集中力を要する作業だった。他の3人は固唾を飲んで見守る。凛は指先に全神経を集中させ、アームをリングに引っ掛けようとする――だが、アームは中空を掻いた。その瞬間、遙ですら「あっ」と声を漏らしてしまった。あと数ミリの誤差で失敗してしまったのだ。
凛は明らかに落胆して、しかしそれを表情には出さずに力なく笑った。
「ま、仕方ねーよな。ちょっと難易度高かったしさ!」
「そうだね、あれは難しいもん……」
「凛ちゃんはよく粘った方だと思うよ!」

真琴と渚はあれこれ凛を慰めるが、遙の口からはそんな言葉すらひとつも出てこず、居ても立ってもいられなかった。凛がああやって残念そうに笑う顔を見たくない。どうかその表情がこれ以上曇ることのないように。ただその一心だった。
遙は無意識のうちにポケットへ手を突っ込み、中に入っていた小銭の中から100円玉を1枚取り出していた。凛たちが反応する間もなく、コイン投入口に100円玉が吸い込まれていく。
「お前、何を……」
凛が呆然と呟く間に、遙の操作するアームがゆっくりと動き出した。慎重に、しかし迷いなく、目標物であるマスコットの元へとアームが移動していく。遙の代わりに今度は凛が息を潜めて見守る番だった。

ゲームセンター内の騒音はもう聞こえない。無音の空間が辺りに広がる。遙の神経は極限まで研ぎ澄まされていた。するするとアームがマスコットの間に降り、ふたつのリングのちょうど真ん中に引っ掛かった。寸分の狂いもない、完璧な動きだった。2体のマスコットがアームに持ち上げられ、不安定に揺れながらも吊られていく。
どれほど緊張していたか分からない。マスコットが取り出し口の中に落ちる音で、4人は一斉にはっと気を取り直した。音がした場所を覗き込めば、確かにそこにはハムスターが2体転がっていたのだった。それを見た瞬間、4人の緊張の糸がふっつりと切れた。

「すっ……すっごーい!一発で取っちゃったあ!」
「ほんとに凄いよハルちゃん、あんな簡単に取っちゃうなんて!」
「べつに……」
渚は感激のあまり遙に抱きつき、真琴も拍手喝采で遙を絶賛した。2人とも興奮を抑えきれないようだった。しかし一方で、凛は呆然として目を見開いていた。今起こった出来事が信じられないというかのように。遙はそんな凛の様子を見て、手にしていた2体のマスコットを咄嗟に凛の腕に押し付けた。

「凛、これ……おまえに」
「は……、……?」
明らかに困惑した表情だった。マスコットを押し付けられた衝撃で、体がよろめく。遙は凛が何か言うよりも早く、彼にしては珍しく矢継ぎ早に言葉を継いだ。
「もともと、おまえ……の妹が欲しいからって取ったものだし、それに、俺が取れたのは、その前に凛があれを動かしておいてくれたからだし……だから、それはおまえのものだ」
一息にそれを言い切ってしまってから、遙は「しまった」と思った。言い知れぬ後悔が急激に胸を浸した。
遙にその気がなくても、凛は何かにつけて遙との比較をしてしまう。遙にできて自分にできないことが増えると、ともかく自分を責めずにはいられないのだ。水泳以外に関してはどうであるかは分からない。それでもきっといい思いはしないはずだ。遙は咄嗟に言い訳めいた発言をした自分に嫌気が差した。

恐る恐る、凛の表情を窺う。もし機嫌を損ねてしまうようなことになったら、どうやって謝ろう。そんな内心の不安を抱えながら。
凛は呆然と口を開けたまま、一度息を呑んだ。ヒュっという音が喉の奥に響く。そうして呼吸を止めて、また、吐き出す。
「……ありがとな、七瀬!」
「え、」
予想外の言葉と表情に、遙は間抜けた声を上げるしかなかった。凛が笑っている。強がりでもなんでもなく、すっきりとした清々しい顔で。――おぼえず、その姿に見惚れた。
「俺やっぱお前ほど器用じゃねーしさあ、代わりにお前がやってくれて助かった!江もきっと喜ぶぜ!」

江という名前を聞いた瞬間、遙はまたたくまに理解した。凛は妹のためにこのマスコットを取ろうとした。自分のためではなく、妹のため。それが水泳とはまったく違うところだった。自分が遙に劣っている部分があろうと受け入れて、素直に助けを請うことができる。人のためだから。
凛はいつだってそうやって生きていた。人のためなら自分の楽しみも差し出せる、明るくて仲間思いの少年だ。そんな彼が、自分のためだけに願うたったひとつ。それが泳ぐことだった。凛から泳ぐことの誇りを奪わない限り、いつまでも仲の良い友達同士でいられるのだと、遙は確信に似た思いを抱いた。きっと凛自身は知らないだろうけれど。

「なあ七瀬、こいつをくれるのは嬉しいんだけどさ、俺は江に渡す分だけで十分なんだ。だから、もういっこはお前が持っててくれよ」
にかりと八重歯を見せて、もう片方のマスコットを差し出してくる。だが遙は咄嗟に受け取ることができなかった。すると渚が横からひょっこりと顔を出してきて、
「もらっちゃいなよハルちゃん、せっかくなんだしさ!」
とせっついてきた。隣の真琴も「そうそう、記念だよ」と笑う。記念?みんなで初めてゲームセンターに行った記念とでもいうのだろうか。遙には記念に物を残すという感覚があまりよく分からなかった。形に残しておかなくても、記憶としてずっと覚え続けているのに。遙にしてみれば、このマスコットとてガラクタにしか見えない。――ただ、凛から受け取ったものという事実がある以外には。

「ははっ、七瀬、あんまそれ似合わねーな!」

そうやってこちらを指さして笑う姿があまりにも眩しすぎるから、受け取らずにはいられないのだ。





「……で。これが昔、俺らがゲーセンで取った戦利品だって?」

怪訝そうな声と共にハムスターの形をしたマスコットを手に取るのは、来年の2月で17歳の誕生日を迎える松岡凛である。凛はそれを逆さにしたり振ってみたりして、物珍しそうにまじまじと観察する。経年の影響で少し薄汚れてはいるが、あれから変にいじったりはしていないので、アーケードの景品にしては状態はいい方だ。
マスコット自体はどこにでもありそうな大量生産品だ。しかし、これが七瀬遙の部屋にあるという点においては非常に貴重な品ともいえる。

凛がなぜ遙の部屋に居座り、勉強机の上に置いてあったこのマスコットをじろじろと眺めることになったかというと、話はそこまで難しくはない。ざっくりと説明するならば、今日も今日とて「プチ家出」と称して寮を抜け出してきた凛が寝る場所を求めて、両親が不在なのをいいことに遙の家へと押しかけたためである。こうして凛を家に上げるのは一度や二度のことではなかった。凛の来襲は、遙にとっては既に、月に何度かある恒例行事のような扱いとなっていた。
もともと遙は部屋にあまり物を置かない性格であり、凛もそれを知って普段は部屋に来ても内装にはろくに興味を示さない。しかし今回はいつもと違って、遙の勉強机をおもむろに漁り始めたのだった。そうして真っ先に目をつけたのが、勉強机の上で存在感を放つそのマスコットだった。

「凛は覚えてないのか?ゲームセンターのこと」
「練習帰りなんて毎日遊んでたんだ、いちいち覚えてるわけねえだろ」

そういうものなのだろうか、と遙は首を傾げた。自分は今でもはっきりと思い出せるのに、凛はほとんど記憶に残っていないらしい。凛はあの後マスコットを江にお土産として渡したので、今頃は江の部屋の押入れに埋もれているか、もうとっくの昔に失くしてしまったかの二択だという。分け合った片方の行方を今更詮索するつもりはなかった。ただ、お前の分だと言われて受け取ったマスコットは、あれから4年以上が経った今も遙の部屋の勉強机に鎮座している。それだけは事実だ。
凛は軽く笑うと、そのマスコットを手にしたまま遙のベッドに腰掛けた。部屋の主に許しを得ることもしない。当たり前のように遙の部屋を使うのが凛だった。

「お前、よくこんなのずっと残しとくなあ。捨てりゃいいのに」
「捨てる理由がない」
「だからって机の上に飾る理由もないだろ」
「……その発想はなかった」
「ハハッ、お前らしいな」

凛の言う「お前らしい」の根拠が分からず、遙は黙ることしかできなかった。取り留めもない昔の記憶をずっと覚えていたり、思い出の品を残し続けたりすることは、凛からしてみれば「物好き」の類らしい。そもそも遙と凛とでは記憶に対する価値観があまりに違いすぎるのだ。

小学生時代の記憶を掘り起こす時、凛は遙と勝負した時のことをよく話す。「お前普段から勝負事には乗り気じゃないから、たまーにそういうことがあるとハッキリ覚えてんだよ」とは本人の談だ。確かに勝ち負けを決めるような出来事について凛は驚くほどたくさんのことを覚えていた。スイミングスクールからバス停までの競走だとか、アイスをどちらが早く食べ終えるかだとか、そんな些細な記憶もすらすらと出てくる。水泳のこととなれば尚更だった。たまに合同でタイムを測ったりしたが、凛はその時のタイムを4年経った今でも正確に覚えていて、どうしてそこまで限定的に記憶力が発揮されるのかと遙は少しぎょっとした。
だけどお前だってそんなに変わらねえよ、と凛は言う。

「さっきのゲーセンの話もそうだ。お前、勝ったり負けたりの話には全然食いつかねえし覚えてもいないだろうが、日常のどーってことないやり取りはしっかり覚えてるだろ。それこそ、その時の会話が再現できるくらいに」

言われてみれば確かにそうだった。遙が覚えているスイミング時代の記憶は、どれも取るに足りない日常の中の出来事ばかりだった。けれど今でも簡単に記憶を取り出すことができる。
例えば、練習帰りに食べたアイスの味や、喋りっぱなしだったせいで食べ切るのが遅れて、溶けかかったアイスを見た時の渚の慌てよう、地面に落ちる前に舐め取ろうとする渚のおかしな表情、それを見て腹を抱えて笑う凛と、溶けたアイスを受け止めるためにティッシュを取り出す真琴。その時の表情や声、日差しの強さすらも鮮明に思い出せた。

「それが当たり前じゃないのか?」
「んなわけねーだろ。俺が全然覚えてないようなことまでスラスラ喋りやがって。ゲーセンのこともお前に言われるまですっかり忘れてたっつーのによ」
「……でも、俺だって、自分の昔のタイムは覚えてない。お前が代わりに思い出してくれた」
「要は記憶力の使い方の違いだろ」

記憶に留めようとしたこと、忘れずにいたいと願ったことは、誰に言われずとも自然に覚えている。普段は記憶の底に眠っていても、ふとしたきっかけで思い出す。
凛は遙と競い合った記憶を忘れないと決めた。遙は、皆と笑い合った日常の場面を残しておきたかった。それは記憶力の差ではなく、願いの意味が異なっているのだ。忘れたくないという願いは同じでも、何のために願うのかは人によって違う。凛にとって遙との勝敗は非常に重要な意味を持つが、遙にとってのその意味は羽毛のように軽い。遙が大切にしている仲間との記憶を、凛が忘れてしまったのと同じように。
過去の記憶をどのようにして残していくか。何を掬い上げ、何を切り捨てていくか。過ぎ去った記憶の扱いは、誰か一人が決めてしまえるものではない。――それでも。

「それでも俺は、忘れない」

小さく、けれどはっきりと呟いた。自分の意志を明確にするための行為だった。
凛は唇を引き結び、遙に視線を向けた。ベッドに腰掛ける凛が、立ち尽くす遙を見上げる形になる。
「……忘れないって、何を?」
「お前が忘れた昔の思い出を。あと……今こうしてお前と過ごしてる時間も」
ぴくりと凛の眉が動いた。確かめるように再び遙を視線で射抜く。遙も真正面からそれを受け止めた。

しかし、次の瞬間に凛の口から漏れ出たものは、厳粛な言葉ではなく、こらえ切れずに吹き出した息だった。
「ぷっ……おま、その真面目くさった顔やべえよ、クソ真面目すぎて逆に笑えてくるからマジで!」
そうしてとうとう限界だとばかりに、ぎゃははは!と腹を抱えて凛はベッドの上を転がり回った。遙の使っている枕を両腕に抱えると、それに顔を埋めて止めどなく引き笑いを繰り返す。
つい先程までひどく真剣に凛と向き合っていた遙は、突然の凛の変貌ぶりに付いて行けず呆気に取られた。せっかく本気で言った言葉を茶化されたのは不本意だった。あまりからかうなと反論しようとするが、枕に顔を押し付ける凛の耳元を見て「あ、」と声を上げる。

凛の耳は赤く染まっていた。笑ったことで体温が上昇したからというだけではないだろう。これは間違いなく照れから来る赤みだった。
真正面から遙に告白まがいのことをされて、照れているのだ、凛は。遙としては別に大げさでもなく、ただ思ったことを言っただけだったのだが、凛にしてみれば普段無口な遙からの言葉は予想以上に大きな衝撃をもたらしたらしい。真面目な空気を茶化したのも照れ隠しゆえだった。
なおも凛は恥ずかしさを誤魔化すように笑い続ける。その手には先程の話題に上ったハムスターのマスコットが握りしめられていた。

「あーほら、なんだっけ、こいつの名前」
「とっとこハムごろう」
「そうそれ、ハムごろうな。お前の性格とは全ッ然属性違うから、似合わなすぎて超笑えるぜ」

顔をくしゃりと歪ませ、凛は歯を見せて笑った。心底おかしくてたまらないというように。あの時もお前は同じことを言って笑ってたぞ、とは言わないでおく。
愛嬌があって丸っとしていて、表情をころころと変えるこのキャラクターは、遙と似ても似つかないし似合いもしない。本来子供向けに作られたものなのだから似合わなくて当然だ。女子である江や、男でも渚のような性格なら、持っていても違和感はないのだろうけれど。
凛の手の中でわしゃわしゃと弄ばれているマスコットと凛自身を見比べて、遙はぽつりと呟いた。

「……そのハムごろう、俺には似てないけど、お前には似てると思う」
「は?」
凛は訝しげに首を傾げた。遙の言葉の意図を汲みかねているようだったので、更に付け加える。
「昔アニメで見た。こう、手で顔をごしごしして……『へけっ』って笑うんだ。今のお前、それに似てた」
「はあああ!?」
「心外みたいな顔するなよ。かわいいって意味だぞ」
「それが心外っつってんだよこのバカ!」

ざけんな!と凛は阿修羅のごとく怒り狂い、手の中にあったハムスターのマスコットを勢いよく遙に向かって投げつけた。投擲されたそれは狙い通り遙の顔面めがけて飛んでいったが、いかんせん軽くふわふわした素材だったため、当たってもまったく痛みはない。
床に転がり落ちたマスコットを拾い上げて、もう一度まじまじと覗き込む。真ん丸の目と小さな口、ぴょっこり付いたふたつの耳。かわいらしさの塊のようなキャラクターだ。確かに凛がこれに似ていると評したのは些か過大評価だったかもしれない……とぼんやり考えていたら、遙のベッドでふて寝を決め込んでいた凛が突然「お前今失礼なこと考えただろ」と言い当ててきたので、遙は驚きのあまりまたそのマスコットを床に取り落としてしまうのだった。





2013/07/15

キップル(Kipple):SF作家フィリップ・K・ディックの代表作『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』に登場する造語で、「ダイレクト・メールとか、からっぽのマッチ箱とか、ガムの包み紙とか、きのうの新聞とか、そういう役に立たないもの」の総称。



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