柘榴の傷口


蝉の声がひっきりなしに響いている。南中を少し過ぎた太陽は眩しさを失わず、舗装されたアスファルトにじりじりと容赦なく照りつけた。海からの風があるとはいえ、真夏の日差しはかなり厳しい。これ以上紫外線を浴びる前に屋内へ行かなければ。白い帽子を目深に被って歩みを速めた。
商店がまばらに立ち並ぶ通りを歩いていると、これから海へ遊びに行くであろう少年たちの一行とすれ違った。小学6年生くらいだろうか、日焼けした小麦色の肌を惜しげもなくさらして、弾丸のように通り抜ける。先頭を行くのは利発そうな短髪の少年だった。そのあとを小柄な男の子がぴょんぴょんと跳ねながらついていき、少し後ろを小走りで追いかける2人がいた。一人は他の子よりも背がひょろりと高く、もう一人は黒髪で落ち着いた雰囲気を出していた。
その光景にひどく懐かしい既視感を覚えて、すれ違う瞬間に立ち止まる。だが、道行く誰かが振り向いたところで、少年たちの足は走るのをやめない。あっという間に彼らの背中が小さくなっていく。そうして視界の隅から4人の痕跡がすうっと消えていくまで、江は遠ざかる背中に視線を注ぎ続けていた。



神社に続く階段を上り、半分まで来た所で左に折れる。古くはないが新しくもない一軒家、その玄関の前に立つ。ここに来るのは久しぶりだった。「七瀬」と書かれた表札に一度だけ視線をやって、インターホンに手を伸ばす。だが、ボタンに触れるか触れないかという時、不意に引き戸が内側から開けられた。
「あっ……」
驚いて手を引っ込める。体が反射的に動いて2歩後ずさる。家の中から扉を開けたその人も同様に驚いた顔で江を出迎えた。
「あらあ?江ちゃんじゃない、久しぶりねえ」
「おばさん!」
引き戸を隔てた内側、優しい顔の女性がふわりと柔らかな表情を見せる。江が会いに来た人物の母親だった。目的の彼以外誰も家にいないと思っていたので狼狽する。今日は週末、他の家人がいてもおかしくない。親が不在だからと家に上がらせてもらっていた高校時代とは違うのだ。
高校卒業後も部活や兄の繋がりで何度か顔を合わせてはいたが、七瀬家にお邪魔することはなくなり、会う機会もかなり減っていた。それにも関わらず名前を覚えてもらっていたことに少しだけ安心する。

「しばらく会わないうちにすっかり美人さんになったわねえ。今日は遙にご用?」
「はい、久しぶりにお会いしたくなって……」
「あらまあ、嬉しいわねえ。それじゃとにかく家に上がって、お茶と羊羹くらいしか出せないけど……」
「え?でもおばさん、これから外に出るつもりじゃなかったんですか?」

見れば、彼女は外出用のバッグを肩に掛けていた。外に行こうとしたところを江と玄関前で鉢合わせしてしまったのだ。タイミングが悪かった。それもこれも、電話の一本も入れずに来てしまった自分の無計画性が原因だと自戒する。
江が彼に会いに行こうと考えついたのはほとんど衝動的なものだった。あまりにも眩しい日差しに、あの夏の日を思い出してしまったから。ただそれだけの理由で、ショルダーバッグと白い帽子だけを持って家を飛び出した。土産物のひとつも持参していない。今になって浅薄すぎる自分の衝動を恥ずかしく思った。
だが彼女はそれを咎めることもなく、息子の後輩が訪ねてきてくれたことを純粋に喜んでいるようだった。とても寛容な人なのだ。

「ああ、これね。これから町内会の集まりがあるんだけど、せっかく江ちゃんが来てくれたんだし」
「いえ、事前に連絡を入れなかった私が悪いんです。おばさんはどうかお構いなく」
「そう?でもお茶を出す時間ならまだ……」
そこまで言いかけて、彼女は江の目をじっと見つめた。彼女なりに、江が今日連絡もなしにここへ訪れた理由を考えているようだった。そして、自分が間にいることで、江が本来の目的を達成できないであろうことを推測する。
ゆっくりと瞬きをひとつして、彼女は目を細めて微笑んだ。伏せられた睫毛が悲しみの影を僅かに落とす。
「……それなら、お言葉に甘えて行かせてもらうわね。江ちゃんは家に上がってゆっくりしてちょうだい。あの子ならたぶん縁側にいると思うわ。いつもみたいにぼーっとしてるんじゃないかしら」

じゃあ、また後で。そう言い残して横を通り過ぎていく。鍵を掛けずに家を出るのはこの地域ではよくあることだ。
江に手を振って階段を下りていく彼女の後ろ姿を見送って、江は深々と頭を下げた。何も問い質さずにいてくれるのが有り難い。
頭を上げて、もう一度玄関に向き直る。家の中はしんと静まり返っていた。蝉の声が騒がしい外とはまるで違う空気だった。しかし無音というわけではなく、和室のどこかに吊るされてた風鈴の音が微かに鳴っている。人の気配は感じられないが、あの人は確かにいるはずだ。小さく「おじゃまします」と呟いて、江は七瀬家の敷居に足を踏み入れた。



板の廊下は一歩進むごとに軋んだ音を立てた。かつては制服を着て、短いスカートを揺らしながらここを歩いたのだと懐かしくなる。もう6年以上も前のことだった。
居間の扉は開いていた。ちりん、と風鈴が涼し気な音を立てた。視線を縁側のある右側へと向ける。
夏の空気に溶けるようにして、音なく、しずかに、その人はいた。
名前を呼ぼうとした声は風に掻き消え、唇だけが僅かに動く。江は息を呑んで彼の背中を見つめた。江が思い描いていたよりも随分と薄い背中だった。まるで途轍もなく重い岩を背負っているかのように力なく落ちた肩。背筋も緩やかに丸まって、芯の強さを感じさせない。耳が隠れるほどにある髪は、ろくに手入れしていないのか伸ばしたままにしているようだった。

江が覚えている彼は、いつもぼうっとしていて、何を考えているかよく分からない人だった。しかしその目は全てを見透かすように透き通り、水を見るときらきら輝いた。水を前にした彼はまるで幼い子供のように全身から喜びを発して、今にも飛び込もうという勢いでうずうずしていた。水を見るとすぐ服を脱ぎ出す癖は、結局彼が部活を引退するまで直らなかったけれど。
均整の取れたしなやかな体、水の切れ目に滑りこませる腕のライン、たくさんのものを背負っているのにその重さを感じさせない背中。記憶の中にあるのは、どこまでも自由で、どこまでも美しい姿だった。
――それが、たった数年でこんなにも変わってしまうのか。

言いようのない遣り切れなさが胸を満たす。ここに来てしまったことを今更になって後悔した。何も言わずに後ずさって、そのまま去ってしまいたい。彼はきっと、江が今こうして彼の背後に立っていることに気付いているだろう。ただ気付かないふりをしているだけだ。江は、彼が与えてくれた猶予に甘えてここから離れることもできた。けれど今逃げ出しては何の意味もない。自分がここに来た意味をもう一度問い直す。

「……はるか、せんぱい」

喉から絞り出すようにして出た声は思った以上に掠れていた。
名を呼ばれた彼が、ゆっくりと振り返る。目が合った瞬間、背筋に冷たい感覚が襲う。それは後悔によく似た手触りをしていた。縁側に吊るされた風鈴がまたちりんと鳴った。蝉の声は相変わらずうるさく鳴いているはずなのに、どうしてか今は風鈴の音しか聞こえなかった。
透明さを失って曇った瞳。今にも雨が降り出しそうな暗雲ばかりが広がっている。諦めという名の曇り空だった。あの綺麗なアクアブルーはどこに行ってしまったのだろう。突き抜ける空の潔さも、深く落ち着いた海の穏やかさもない。

江がその場に立ち尽くして動けずにいると、彼は気だるげに腕を上げて居間のテーブルを指さした。指し示された先に視線を送れば、テーブルの上には麦茶が入った透明なグラスと茶菓子が置かれていた。グラスの外側には僅かに水滴がついている。中に入っている氷は溶けた様子もなく、この麦茶がまだグラスに注がれたばかりだということが分かる。彼は江が家に来たことに早々に気付いて、彼女が来るより先にそれらを用意していたのだった。
彼は必要最低限の動作だけで江の行動を促す。視線で語るのは昔から変わらなかった。江は「ありがとうございます」と一言付け加えて、そそくさとテーブルの前へと移動した。座布団の上に正座をしてしばらく待つものの、彼が縁側から離れる気配はなく、江のいるテーブルの反対側はいつまでも空席のままだった。彼はどこか遠くの空を見つめたままこちらを見向きもしない。

彼のその反応は予想できていたことだったから、今更戸惑うことはなかった。むしろ彼と真正面から向き合わなくてほっとしている自分がいた。変わってしまった彼を見ることは、過ぎ去った忘れられない過去と相対するのと同じだった。あの日に全てを置いてきて、それきり立ち止まってしまった七瀬遙という存在は、江にとって過去を想起させるものでしかない。
「お久しぶりです、遙先輩。1年くらい会ってませんでしたよね。お元気でしたか?」
ありきたりな言葉をその背中にかける。“お元気でしたか”という言葉は皮肉でしかない。魂が抜けたかのような彼の背中を見れば、とても元気などと呼べる状態ではないことくらい分かっていた。それでも江にはそれ以外の言葉が見つからなかった。何を言っても意味は無いのだから。

彼は庭の草木をぼんやりと眺めたまま、覇気のない返事をする。
「……“先輩”はやめろよ。もうそんな関係じゃないだろ」
江は約1年ぶりに彼の声を聞いた。感情の起伏が少なく、ぼそぼそと呟くような抑揚のない声。体を使わずに声帯だけで喋っていた。昔はまだ芯の通った声だったような気がする。

「先輩は先輩です。卒業したってそれは変わりませんよ」

――それに、私にとっての“先輩”は、もうあなたしかいないから。

心の中だけでそう付け加える。思っても決して言葉にしてはいけない。互いの心の柔らかい部分にある傷口に、触れてはいけない。それはいつしか暗黙の了解となっていた。タブーと言い換えてもいい。けれど江は敢えて言葉を紡ぐ。失われた過去を掘り返して彼に突きつける。
彼の纏う空気が、真夏にも関わらず氷のように冷たい温度を伴うのを感じた。

「何しに来たんだ、お前」
「急に話したくなったんです、遙先輩と。……お兄ちゃんたちの命日ももうすぐですし」
「……」
「お墓参り、まだ一度も行けてないんでしょう?2年経った今でも」
「……」
「気持ちの整理が追いつかないからですか?それとも、もう二度と顔を合わせないって決めてるんですか?」
「……」
「遙先輩。今更知らないふりをしたって、意味なんかありません。それでもまだ続けるつもりですか?」
「……」

最初から答えなど求めていなかった。2年の間積み重ね続けてきた言葉の雨を、誰かに叩きつけたいだけだった。その相手が彼しかいないという、ただそれだけのこと。自己欺瞞であることは自覚している。しかし、あの夏の眩しさから解放されるためにはこうするしかないのだ。
長い長い沈黙が訪れる。庭に植えられた赤い朝顔が空に向かって咲いている。少しでも多く光を受け取ろうとして南を目指す。太陽に手を伸ばす時、人も植物も同じ形を取るのだと知った。
ちりん。風鈴の音。風だけがあの日と変わらない。彼は伏せていた顔を上げて、ゆっくりと振り向いた。揺れる、揺れる、曇天の瞳。失われた海の青さを思った。

「今日は、私たちの傷口を抉るために来たんです」

彼の眼差しをまっすぐに受け止め、顔を歪めながら笑う。彼女の表情には、死の影が濃く滲んでいた。



今から2年前の夏、成人男性2名の水死体が県内の某港湾で発見された。
通常なら酒に酔って誤って海に落ちたと考えるべきであろう。同様の報告は毎年のように上がっているからだ。しかし今回はその限りではなかった。ふたつの死体のうち、一人は両手足を麻紐できつく縛られており、体内からは睡眠薬の成分が見つかった。もう一人は足首のみが縛られ、重石がつけられていた。では自由な方の腕はどうしていたのかといえば――水中で藻掻いた形跡もなく、相手の体を強く抱きしめて死んでいた。死した後、海の波に揉まれても決して離れないほど強く。
この異様なふたつの水死体を見て、“心中”という単語を連想するのは困難ではなかった。

海に沈んでからまだ日はあまり経っていなかったようで、すぐさま身元の照会が行われた。その日までに出された行方不明届けを元に、遺体は松岡凛と橘真琴の2名のものであることが判明。家族の立ち会いでそれが間違いなく本人だと確認された。身元の照会が完了するまでにかかった時間は限りなく短い。もともと、行方不明届けが出された時点で、「海に行っている可能性が高い」という申し出が家族からあったためだ。

松岡凛は、七瀬遙と共にオリンピック出場を有望視される新鋭の選手だった。これからはこの2人が日本の競泳界を担っていくのだろうと思われていた。
橘真琴は、少年期には松岡凛と共に同じスイミングクラブに通う仲であり、高校は別であったが、互いに水泳部で研鑽を積む間柄だったという。彼は高校卒業と同時に競泳から離れて大学へ進学し、某スポーツ用品メーカーで働き始めたばかりだった。2人は競泳という繋がりが無くなった後も交流をしていたようだったが、今回のような事態に至るような関係であったとは俄に信じがたいことだった。

……無機質に並べられた事実の、なんとつまらないことだろう。誰も、なにも、知らないくせに。
江は俯いて、膝の上に乗せた両手を握りしめた。今でも忘れることができない。身元の確認のために見ることとなった、変わり果てた兄の姿を。あんなに綺麗に水を掻いていた腕が、為す術もなく海の底に取り込まれてしまったというのか。美しく均整の取れた体は見る影もなく、ぴくりとも動かないただの肉の塊になってしまった。今までずっと憧れていて、きらきらした理想の象徴だった兄の姿に嫌悪感を覚えたのはあれが最初で最後だった。
どんなに美しい髪でも、鋏で切り落とされたら最後、ただの廃棄物として処理されてしまうように。魂の抜けた体はその時点で人ではなくなってしまったのだ。松岡凛という名前は兄の呼び名ではなく、抜け殻を便宜上識別するための記号へと形を変えた。もう兄ではない。兄はどこにもいない。

「遙先輩は、知っていたんですよね。お兄ちゃんと真琴先輩のこと。2人がどうして死ななくちゃいけなかったのか。……知っていたのに、何もしなかった」

2人が同時に失踪したと分かった時、電話のスピーカー越しに聞いた遙の声を、江は今でも覚えている。焦燥と諦念が入り混じったあの声で、彼は確かにこう言ったのだ。「2人はきっと海にいる」と。あの時は取り乱していて、彼の言葉の意味を深く考えることはなかった。けれど今なら分かる気がする。
彼はずっと前から気付いていた。2人が抱えていた秘密も、死に縋るしかないほど追い詰められた理由も、彼らの死が残した意味も。気付いていながら何も言わなかった。止めることもなかった。かたくなに口を閉ざし、終わりまで言葉を封じて、全てを見届けた。そうして今、取り残された日々をただ抜け殻のように生き長らえている。

――ああ、この人も道連れにされてしまったんだ。
蜉蝣のような背中を見てそう思った。2人の死は、彼の命ではなく心をさらっていったのだ。どうして一緒に連れて行ってあげなかったのだろう。彼にとって、水の底よりも生きやすい場所がどこにもないことくらい、あの2人は初めから知っていただろうに。

彼は、あの事件以降泳ぐことをやめてしまった。予定されていた大会は全て出場を辞退し、完全に競泳から身を引いた。活躍を期待されていた選手がまだまだこれからという時に突然引退したとあって、競泳界のみならず彼の引退を惜しむ声が多く上がった。しかし騒ぎの大きさの割にあまり非難は出て来なかった。あんな事件があって、友人ふたりを一度に失ったのだから仕方ないという同情の方が多かったのだ。
世間の同情の視線から逃れるようにして、彼は地元に戻り細々と暮らし始めた。手先の器用さを生かしてどこかの工場で働いているということを、江は同級生の渚から聞いていた。平日は工場勤務、休日はただひたすら家の庭先で空を見上げているばかりだという。泳ぎをやめたどころか、あれほど焦がれていた水にも興味を示さなくなったと。江はその話を信じがたい思いで聞いたが、実際にこうして彼の疲弊しきった様子を見ていると、渚の言っていたことは本当だったのだと思い知る。そのくらい彼の背中は寂しかった。

「仮に、それが真実だとして。お前は俺に何を求めたいんだ?」
「……わかりません」

兄を返してくれだなんて言えるわけがない。責める言葉は意味を成さないことを知っている。真実を明らかにしたところで、死という事実は覆せない。2人はもう葬られてしまった。
だからといって、謝ってほしいわけでもなかった。そもそも、あの事件の一番の“被害者”は、きっと彼自身なのだから。
「ただ……あの2人の選択は絶対に変えられなくて、辿る結果が同じだったとしても。先輩が何かひとつでも言葉にしていれば、救われたものもあったんじゃないかって。私はそう思うんです」
「……」

江は目の前に置かれたグラスを手に取って麦茶を一口飲んだ。もう時間が経って生温くなっていたが、からからに乾いた喉が潤いを取り戻すには充分だった。人は水がなくては生きていけないのに、水は惜しみなく命を与え、惜しみなく奪っていく。
彼はまだ庭の朝顔を見つめている。かつては雄弁だった瞳すらも今では多くを語らない。言葉がどれほどに無力であるかを知りすぎてしまったのだ。これ以上彼に言葉を求めるのは酷でしかない。江は目を伏せて、グラスの中に浮かぶ波紋から視線を逸らした。傷口から漏れ出るのは、血ではなく透明な水だった。
この人は、これから続く茫洋とした人生を、なにひとつ拒まぬままに口を閉ざして、まるで償いのように生きていくのだろう。彼に最期の瞬間が訪れるその時は、どうか水とは遠く離れた場所であるようにと切に願った。





2013/08/03

【BGM】
遠雷/Do As Infinity
ポロメリア/Cocco



[ index > top > menu ]
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -