心中ごっこ


それがいつの会話だったかは思い出せない。話した場所も、その前にどんな話をしていたかも忘れた。だけどあいつの表情だけはやけに鮮明だった。
「ねえ、凛はさ」
「あ?」
いつもの困り笑いの中、絵の具が水で滲むように表情に溶け込んだ諦めの色。こんな顔もするのだと意外に思った。ただ俺が知らなかっただけだ。お前はいつもそうやって、ひとりで諦めてきたんだろう。だけど俺は知らないふりをしてきた。お前の震える手を取れなかった。

「もし本当にだめになった時は、俺と一緒に死んでくれる?」

あの時、俺は何て返したんだっけ。馬鹿じゃねえのお前、と呆れただろうか。縁起でもないこと言うなよ、と常識人ぶってみただろうか。それとも――「お前と一緒ならな」と、自暴自棄に笑ってみせただろうか。思い出せない。何もかも。忘れる必要のない記憶ばかりが水の底に沈んでいく。
だけどお前の言葉だけはいつまでも鮮明に焼き付いて離れない。死。お前と俺とを繋ぐのはなにもハルだけじゃない。あの冬の日。青ざめた顔、震える指先、背中にひたひたと迫る得体の知れない恐怖。水に潜む魔物の名は、きっと「死」によく似た響きをしている。



目を覚ますと真っ暗な暗闇だった。まだ夢の中に取り残されているような錯覚を起こして、何度も瞬きを繰り返す。けれども淀んだ空気は一向に透き通る気配を見せなかったから、これは夢ではなく現実だと認識する。
倉庫のような場所だった。微かな潮の匂い。体を横たえられた床はしっとりと湿っている。海が近いんだろうか。
体は鉛のように重くて容易に動かせなかった。頭もまだ正常に働かない。それでも、自分の足首が麻紐で拘束されかけていることには気付けた。なんだこれはと思う暇もなく、俺の足元でごそごそと作業をしていたそいつが顔を上げた。

「あ、起きた? 凛」
真琴だ。まるで電車の中で居眠りをしていた相手に声を掛ける時のような気軽さだった。そのくせ、やってることは俺の手足を紐で縛るという物騒な行為なのだから笑わせる。目覚めた俺を見て頬を緩ませる柔らかな表情とはあまりにも不釣り合いすぎた。
驚きよりも先に呆れがこみ上げてくる。怒鳴り声を上げるような気力も残っておらず、溜息が漏れる。

「……何やってんのお前」
「身投げの準備」
「はあ?」
「これから死ぬんだよ、俺たち。水の中に沈んで」

真琴は、冗談を言っているわけでも、俺を脅そうとしているわけでもなかった。淡々と死を語る。まるで自分のことではないかのように。
ようやく回転を始めた頭が、ここで目覚めるまでの記憶を再生していく。今日は2週間ぶりにこいつに会って、例のごとくホテルに向かって、当たり障りの無い普通のセックスをして、それから……? そこまで考えて、シャワーを浴びた後の記憶が曖昧に霞んでいることを思い出す。シャワールームから出ると、真琴はいつものように水の入ったペットボトルを差し出してきた。300mlの小さなサイズだ。俺は何の疑いも抱かずにそれを受け取って、一気に飲み干した。ここまではいい。問題はその先だった。ただの水だと思っていたそれは、舌に触れた瞬間微かな苦味を引き起こした。違和感はあったものの全て飲んでしまったが、今思えばあれは睡眠薬のようなものだったのだろう。水を飲み干した後、真琴が申し訳なさそうに眉を下げていた理由をやっと理解する。

つまりこいつは、最初から俺を道連れにするつもりで薬を盛ったのだ。一緒に死んでくれる相手を俺に定めて。
不思議と恐怖感は湧いて来なかった。そうか、死ぬのか、とごく自然に閉ざされた未来を受け入れた。たぶん俺も、これから起こる出来事を自分のことだと思えていない。
俺の反応が薄いことを不思議に思ったのか、真琴は首を傾げて俺を見た。

「……あまり驚かないんだね、凛は」
「これでも充分驚いてるっつーの。……まあ、でも、なんとなく予感はあったし」

確かに予感はあった。俺と一緒に死んでくれる?――そんな馬鹿げた問いを、大真面目に俺に吹っ掛けた時から。いいや、もっと早いかもしれない。もしかしたら、あの凍えるような寒い冬の日から。お前が抱える怖れの断片に触れたあの時、気付いたら俺はもうどうしようもなくお前の海に沈んでいた。深く暗い闇だ。浮き上がることはできそうにない。死へと向かう引力を、俺たちはいつからか同じ距離で感じていた。
死にたいわけじゃない。生きていたくないわけでもない。まだやるべきことは沢山あるし、行かなくちゃいけない場所は数え切れず、会いたい人もまだ世界中にいる。俺の死を願わない人間だって少なくないはずだ。自惚れかもしれないが、俺はこれからの人生を期待され続けている。

……それでも、お前がわざわざ俺を道連れにしたいというなら、一緒に死んでやってもいい。

誰もが羨むものを持っていながら、本当に欲しいものを手に入れられない負け犬が、今こうして死を選ぶということ。この選択も、所詮諦めだと笑われるだろうか。逃避にすぎないと蔑まれるだろうか。後から何を言われようと構わない。
諸々の言葉を口に出すのは気が引けて、代わりに俺は真琴を見た。視線だけで考えを伝える。あいつの真似だ。しかし生憎なことに、俺と真琴はそこまで以心伝心できるほど強固な繋がりがあるわけではなかったから、言いたいことの10分の1も伝わっているかどうか怪しい。
真琴は呆けた表情で俺を見つめると、ゆっくり瞬きをひとつして「ありがとう」と呟いた。悲しそうに、申し訳なさそうに、罪悪感の滲む顔で。俺を巻き込むことに負い目を感じるくらいなら、最初から一人で死ねばいいんだ。なのにお前は一人は嫌だと言う。一緒に死んでくれと懇願する。死ぬのが怖いんじゃない。独りになるのが怖いんだ。だから俺も見放せない。

後ろめたい言葉とは裏腹に、俺の手足を縛り上げる真琴の手つきには躊躇いのひとつも見られなかった。右手に握っていた紐をもう一度強く引いた。ぎゅっと音がして俺の足首がきつく締め上げられる。思わず小さな悲鳴を上げると、真琴は心配そうな顔をして俺を覗きこんでくる。
「ごめん、きつくしすぎた?もっと緩めようか?」
「いいよ別に……緩めたら途中で外れるかもしれないだろ」
「それはそうだけど、」
「どうせ死んだら痛みも感じないんだ。目一杯きつくしろよ」
「……うん」

真琴は頷いて、紐をもう一周巻きつける。それでいい。下手に泳ぎ慣れている俺たちは、手足が自由になったらそれこそ必死で藻掻いてしまうかもしれない。頭ではどんなに死を望んでいても、体に刻み込まれた本能は水上へ浮かび上がることを優先する。これは本能を抑えつけるための封印だ。生きたいと願う意志を無理矢理に閉じ込める。そうやって初めて、俺たちは水の底に沈んでいける。
黙々と作業を続けていた真琴だったが、俺の足首に視線を落としたまま不意に喋り出した。

「そういえば、水死できる方法を調べるのが一番大変だったなあ。ネットで検索すると、怖い画像ばっかり出てきてさ」
先程までの重い空気はどこへやらだ。雰囲気に流されて暗い顔になっていた俺は途端に拍子抜けした。肩の力みがすっと消える。
「おいおい、俺らもこれからそのグロ死体の仲間入りするんだぞ?覚悟はできてるんじゃねえのかよ」
「……言われてみれば確かに」
「相変わらず変なとこ抜けてんなあ、真琴は」
「うん、……なるべく早く、魚やプランクトンが死体を分解してくれることを願うよ」

――ああ、早く白骨になりたい。
本心か強がりかも分からない言葉をうそぶく真琴は、普段とあまり変わりがないように見えた。これから死のうという人間とは思えないほど無感動だ。
俺は真琴のこういう所が怖かったのだと思う。誰もが感情を溢れさせるような場面では、自分だけ一歩引いた場所に立っている。しかし時々ひどく取り乱しては、全然大丈夫じゃない顔で「だいじょうぶだよ」と笑ってみせる。体の震えを止められもしないくせに。
けれど今の俺も、真琴と似たような状態にあるのかもしれない。死への恐怖を感じることもなく、ただ死に向かう水の感触を確かめようとする凪いだ心。正気の沙汰じゃないのは俺もお前も一緒だ。そう思うと、自然に笑いが込み上げてきた。

「よりによって選んだ方法が入水とか、お前勇気あるな。俺だったら意地でも水から遠ざかる死に方を選ぶぜ」
「そう?俺たちにはぴったりだと思ったんだけど」
「俺らはともかく、あいつがな。とんだ当てつけだ」

俺と真琴との会話で“あいつ”といったら一人しかいない。きれいで、自由で、何ものにも侵されない、あいつ。
けらけらと乾いた笑い声を上げてみせると、真琴は困ったような笑みを浮かべた。俺の足首を縛り終えて、今度は手を縛るために俺の背後へ回る。無駄話に付き合いながらも作業はきっちりこなしていた。
後ろ手に回された手首に麻紐の感覚。容赦なく縛り上げられて僅かに眉を顰める。これで俺は両手足を拘束されて動けなくなった。逃げられないし、逃げる気もない。手足を縛り上げるという行為は、自らの覚悟を確かめるためのいわば儀式のようなものだった。

「凛は、あのまま眠っていられたらよかったのにね。そうすれば苦しまずに済んだのに」
掠れた声で真琴が言う。睡眠薬の効果は真琴の想定よりも早く切れてしまった。おかげで俺は、自分が手足を縛り上げられる間抜けな様子を見届ける羽目になった。確かに不本意だったが、真琴が言いたいのはそれじゃないんだろう。これから海に入って溺れ死ぬ過程のことを言っているのだ。睡眠薬で眠ったままなら、醜く藻掻くこともなく窒息できる。けれど目覚めてしまった以上、酸素を奪われる苦痛を味わいながら死ぬ。
「俺ら潜水得意だし、死ねるまで時間かかるだろうな」
溺死がどれほど苦しいのかは知らない。ただ、楽な死に方ではないことだけは確かだ。自由のきかない体を必死で動かして、苦しみながら沈んでいく。俺のおやじも、きっとそうやって死んでいった。
自分からその死に方を選ぶことの愚かさなら、俺は嫌になるほど思い知っている。だけど今はもう、これしか選べない。

動けない俺を運ぶのは真琴の役目だった。そのために真琴は自分の手足を縛ることはしなかった。俺の体を横抱きにして持ち上げる。
倉庫の扉を開けると、潮風が一斉に頬をなぜた。眩しいほどの月が海を照らしている。こんな綺麗な月の夜に、俺たちは醜い水死体を晒すのか。不意に湧いて出た罪悪感が胸を浸す。
しかし真琴は同じ月を見ても考えることは別のようで、淋しげに目を細める。真琴がこういう顔をするのは、決まってあいつのことを考えている時だった。

「……ハルは、俺たちがいなくなったら、探してくれるかな」
案の定あいつの名前が出てきた。これから一緒に死ぬ俺よりも、どこか遠くで生きているあいつを思うんだから図太い奴だ。だけど俺も同罪だから真琴のことは言えない。2人揃って考えるのは同じ相手のことだった。
「そりゃ血眼になって探すだろ。……でも、俺らが二人一緒になって海に沈んでるとは、流石のあいつも考えつかないだろうなあ」
「そうかな?ハルは分かってると思うよ」
「分かってるって、俺らの関係をか?それとも自殺することをか?」
「……たぶん、どっちも。ハルは知らないふりが得意だから」

俺は最後まであいつのことをよく理解できなかったけど、真琴が言うならきっとそうなんだろう。もしあいつが本当に全てを知っていて、それでも知らないふりを続けてくれているとしたら、俺達のこの行為は途轍もない裏切りだ。取り残されるあいつの気持ちなど、あまりにも苦しくてもう考えたくはない。だから俺は海の底に逃げるんだ。
抱きかかえられた体勢のまま、真琴の横顔を見上げた。月に照らされて肌が青白く光っている。真琴の目は紺碧の海を内包していた。どこまでも深く、どこまでも暗く、果てが見えない。深海の底はこんなところにあったのだと今更気付いて、俺は喉につかえた棘を吐き出すようにして笑うしかなかった。





2013/08/01



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