まばたく間に恋をした


ピリリリリ、と電話のコール音がズボンのポケットから聞こえて、遙はその場で立ち止まった。隣を歩いていた真琴も足を止めて「ハル、電話?」と聞いてきた。前を行く渚と怜はまだ気付いていない。

今度新しくプール付きの大規模なジムができたから行ってみようよ、という渚の提案により、岩鳶水泳部は土曜の午前から市街へと出ていた。
あと少しで目的地に着くという時に突然の電話。七瀬遙の携帯電話がその機能を充分に果たすことは稀である。携帯を携帯しない性格のせいで電話がかかってくることはあまりない。

しかし今、その電話が、鳴っている。怪訝な顔でディスプレイを覗くと、「松岡江」と表示されていた。ざわめく胸の内を押し殺すようにして受話ボタンを押す。

『遙先輩っ! あのっ、お兄ちゃんが、お兄ちゃんが行っちゃうって……!』

 電話口から聞こえる声はひどく動転し震えていた。彼女が「お兄ちゃん」と呼ぶ人物は一人しかいない。――凛。遙は心の中で呆然とその名前を呟いていた。

『オーストラリアに行くってメールがいきなり来て、どうしましょう、本当に突然だったんです、今までそんなこと言ってなかったのに、遙先輩、私どうすれば……っ!』
「江、落ち着け。もっとゆっくり……」
『ゆっくりなんてしてられません! だってもう今日の午後には出発しちゃうんですよ!? もう空港に向かってるって……! だから遙先輩早く、』
「江!」

思った以上に大きい声が出ていた。取り乱す江を宥める目的もあったが、それ以上に自分の動揺を加速させないようにしたかったのだ。遙のいつになく厳しい声に、江もはっと息を呑んで押し黙る。狼狽しているのは何も江だけではなかった。

――オーストラリア? もう出発する? あいつは何をしようとしてるんだ?

断片的に示された情報によって疑問が次々に沸き上がってくる。それに答えられるであろう凛本人は今ここにいない。
遙の電話の応答に只ならぬものを感じたのか、隣にいた真琴が緊張した面持ちで遙を見つめた。前を歩いていた渚と怜も、遙の叫び声を聞きつけてこちらへ戻ってくる。
大きく跳ねる心臓の音を敢えて無視しながら、遙は江に低い声で呼びかけた。

「いいか江、まず落ち着け。ゆっくり深呼吸しろ。事情を話すのはそれからだ」
冷静さを掻いていたことを自覚したのか、江は素直にその言葉に従った。すう、はあ、と本当に深呼吸しているらしい息遣いが聞こえてくる。

『……すみません、遙先輩。ちょっと混乱してたみたいです』
「落ち着いたならいい。……さっきの話、もう一度頼む」

それから江はぽつぽつと凛について話し始めた。つい先程兄からメールが来て「オーストラリアへ行く」とあったこと。それには理由も目的も書かれておらず、ただ午後には飛行機が出るとだけ記されていたこと。

『私、それを見たらすごく胸がざわざわしたんです。……お兄ちゃん、もしかしたらオーストラリアに行ったまま、もう戻ってこないつもりなんじゃないかって……』

途切れ途切れに語る江の声は、最後のあたりになるとほとんど涙声になっていた。不安でたまらないのだろう。遙は江を安心させるように、ゆっくりと力強く応える。

「心配するな。凛のことは俺がなんとかする。だからそこで待ってろ」

凛の意図は何なのか、本当に引き留めるべきなのか、遙自身にも分からない。だが言わずにはいられなかった。たとえ凛から何も告げられなかった程度の存在だとしても、凛の真意を問い質す役割は自分にあると――自惚れでも、そう思いたかったのだ。

お願いします、と江に後を託され、遙は電話を切る。顔を上げると、三人が固唾を呑んでこちらを見つめていた。漏れ聞こえる会話の内容から、それが凛に関わる話題であることを察したのだろう。江との電話の内容をかいつまんで話すと、三人の顔がみるみるうちに険しくなっていった。

「ハル、それ本当なの? 凛がもう帰ってこないかもって」
「……分からない」
「だったら本人に直接聞きに行きましょう、どういうつもりなのか!」
「そうだよ、とにかく引き留めなきゃ! ここからなら空港近いし、みんなで行こう!」

 後輩たちが口々に言い募るが、遙は小さく首を横に振る。

「……いや。俺が一人で行く」

有無を言わせぬ声だった。渚ですら「でも」と言いかけた言葉を思わず飲み込んでしまう程に。真琴は遙の意志を確かめるようにその目を見つめる。怜は何か言いたげに口を開けたが、やがて決意の面持ちで唇を引き結んだ。
三者三様の反応だったが、誰も遙を引き留めようとはしなかった。自らに与えられた役割を全うし、遙へと繋げるために。三人が頷いたのは同時だった。
その同意を後押しとして、遙は迷いなく駆け出した。





搭乗手続きをする人々でざわめく空港のロビーで、凛は受付の列に並んでいた。
黒の帽子を目深にかぶり、目線は下を向いている。手にした赤いキャリーケースは、かつてオーストラリアに行った時にも使ったものだった。もう使うことはないと思っていたが、思いがけず早く再利用する時が来た。留学中は色々な場所に持ち運んではぶつけたので、あらゆる箇所が傷付いたりへこんだりしている。あの時は随分と大きく感じたキャリーケースも今はちょうどいいサイズになっていた。

見送りはいない。母には以前から話を通してあったが、妹の江にはそのことを教えないよう頼んでいた。オーストラリア行きを江が知れば、すぐさま周囲の人間にも広まることは分かりきっている。理由を詮索されるのも、行くなと引き留められるのも凛は好まなかった。

一時間ほど前に送ったメールで、江には初めて今回のオーストラリア行きを伝えたが、きっとひどく驚いていることだろう。落胆する妹の顔が脳裏に浮かんで少しばかり罪悪感を覚えたが、これでよかったのだと自分に言い聞かせる。

次の方どうぞ、と声が掛かる。列はいつの間にか前へ前へと進んでいて、凛の番になっていた。はっとして足を一歩踏み出そうとした、その時だった。

「――凛!」

聞き覚えのある声に名前を呼ばれた。だがそれは、ここで聞くはずのない声だった。
勢いよく声のする方を振り向く。その拍子に帽子がぱさりと床に落ちた。心臓が激しく脈打つのを感じる。
どうして。どうしてお前がここにいる。
突如として湧き上がる疑問に思考回路が追いつかない。

「ハル……!?」

 ここまで全速力で走ってきたのだろう、らしくなく肩で息をして、顔中に汗を滲ませながら遙が凛の前に立つ。焦燥に駆られた様子の遙は、ひどく干からびた顔をしていた。





「わざわざ見送りに来てもらえるとは、愛されてんなあ俺」

からかい半分で言った凛の言葉に、遙は1ミリも表情を動かさなかった。あまりに無反応すぎるので、凛は眉を顰めてそっぽを向いた。

空港の建物を出て、人通りのない道端へと二人は場所を移していた。遙が空港内のロビーは嫌だと言い張ったためだ。
舗装された道路を一歩出ると一面の野原だった。午後の日差しを浴びてクローバーが生い茂っている。青い空によく映える緑だった。だが、そんな緑の生命力とは裏腹に、遙は納得の行かない顔で凛を睨んでいる。

「本当に行くのか、オーストラリア」

ぴんと張り詰めたような緊張感が漂う。遙の呼びかけに凛は僅かに肩を跳ねさせたが、振り返らないまま返事をした。

「……ああ」
「どうして何も言わなかった」
「わざわざお前に許可を貰う義務でもあんのかよ? お前は他校の人間で、俺のチームメイトでも何でもない。それくらい分かってんだろ」
「……」

――だけど、俺はお前の恋人だ。

喉まで出かけた言葉はあまりにも自惚れが過ぎる気がして、遙は空気だけを吐き出した。
互いに「好きだ」と言葉にして伝え合ったことが今まであっただろうか。なんとなく互いの好意を感じる程度の付き合いだ。本当に恋人同士なのかどうかすら危うい。
手を繋いだり、デートをしたり、――キスをしたり。世の恋人たちが順調に積み重ねていくような過程を何一つ経験しないまま、ここで意味のない押し問答をしている。

「だけど」
それでも何かを言わなくては先に進めない。だが、それ以上何も出てこないのも事実だった。行く先を失った「だけど」がふわふわと宙に浮かぶ。
遙は言葉を探して足元に目を落とした。クローバーが所狭しと咲いている。緑の中に埋もれるようにぽつぽつと咲いている白い花はシロツメクサだろう。

「……お前の心は、お前だけのものじゃない」

苦し紛れに言葉を拾い上げる。「行かないでくれ」と言いたいだけの気持ちを、ひどく遠回しにして伝えることしかできなかった。凛は呆れたように遙を鼻で笑う。

「自由じゃないのが嫌なくせに、人の自由は奪うのか」
「ちがう。俺の心だって、俺だけのものじゃない。……お前が、いるから」

絞りだすような遙の声に、はっとして凛が振り返る。そこでやっと、遙と凛は互いの目をまじまじと見ることになった。揺れる二つの目と目。まるであの日のようだと遙は思った。



中学一年の冬、凛の涙を見てあんなにも衝撃を受けたのは、凛を傷付けてしまったことに対する罪悪感からだと思っていた。
だけどきっと違うのだ。確かにその「罪悪感」は理由の一つではあったが、それ以上遙が最も耐えられなかったのは、凛が水泳をやめる――即ち、凛と共に泳げないということだった。
凛と泳ぐ楽しさを知ってしまった遙は、もはや凛のいない海では行きていけない。
いつの間にか凛に何もかも繋ぎ止められていた。心も、体も、人生も。



遠くで飛行機が飛び立った。境界線を引くように、飛行機雲の白い筋が青空を横切って行く。あの飛行機雲はいつか消えるだろう。だが、凛の存在は遙の中にいつまでもいつまでも残り続けた。

「俺はもうずっと前から自由じゃなかった。でも、自由じゃないから見えた景色もあった。その理由は全部お前なんだ、凛」

ああ、なにか、証が必要だ。言葉だけでは駄目なのだ。言葉と約束を封じ込めるための器が要る。けれど遙は、証として機能するものを何ひとつ持たなかった。
どうすればいい。焦燥しながら遙はまた足元を見た。鮮やかな緑のクローバーと、淡い白のシロツメクサが風に揺れている。

――これだ。
天啓を受けたかのようなひらめきが電流のように全身を駆け巡る。
こんなところに、あったじゃないか。
そう思うより先に、遙は野原にしゃがみこんでいた。

「な、何やってんだハル、」
突然の行動に困惑する凛を無視して、遙はクローバーの茂みに手を突っ込みシロツメクサの茎を丁寧に辿る。ぷちん、と軽い音を立てて白い花を摘み取った。
凛の指に合うよう輪を作り、余った茎をくるくると輪に巻きつける。子供がよくやる野草遊びと同じ要領だ。
今は趣向を凝らした花冠など必要ない。欲しいのは証。約束を閉じ込めるための指輪だ。

シロツメクサの指輪はすぐにできた。茎で輪を作っただけの素朴なつくり。指輪と呼ぶにはあまりにも粗末だった。

「凛」

立ち上がり、視線を合わせた。凛の目が戸惑いがちに揺れる。
遙は凛の左手を掴み、その薬指に白い指輪をはめた。成されるがままにしていた凛だったが、遙の手が離れてからやっと、自分の指の上で花開く白い花をじっと見つめた。
道端に咲くありふれた花だ。何も珍しいものではない。

――だが、それが左手の薬指にあるというだけで何故こんなにも輝いて見えるのか、凛には不思議で仕方がなかった。

「……なんだよ、これ」
「指輪。約束の証だ」

左手の薬指という場所の意味を知らないわけではない。けれどあり得ないと思っていた。七瀬遙という人間から、こんなものが与えられるわけがないと。
しかし凛の薬指には白い花が咲き誇っている。証はここにあると告げている。

微かに震える凛の肩を見つめて、ひとつ、息を吸った。

「凛。お前と泳ぐのも、お前と生きていくのも、たぶん同じことだ。面倒で、居心地いいわけじゃなくて、いちいち疲れるし、本当に面倒だけど」

繰り返される「面倒」という言葉に凛が眉根を上げたが、気付かないふりをする。

「……俺は、それでもいいと思ってるんだ。お前となら、自由じゃなくても別にいい」



まっすぐすぎる言葉を使うのは、自分の剥き出しの心を全て曝け出してしまうような気がして嫌だった。
――いや、本当のことを言うなら、きっと怖いのだと思う。

まっすぐな言葉を使えば、その分まっすぐな感情を向けられる。言葉で人を傷つければ自分も同じように傷付く。何も盾になるものはなく、誰も守ってくれやしない。それが嫌で、怖くて、口を閉ざした。

柔らかな言葉で代弁してくれる幼馴染を間に立たせて、自分は何も知らないふりをした。だけどそれは、今となっては不必要な防衛手段だ。
目の前にいる、意地っ張りで分からずやの相手に思いを伝えるには、何よりもまっすぐな言葉を使わなければならないことを、遙はよく知っていた。
証はただその場所にあるだけでは駄目なのだ。そこに言葉と約束を込めて初めて意味を成す。

もう一度深く息を吸った。夏の終わりの透き通った空気が肺を満たした。

「だから、凛。自由じゃない世界でも、俺と泳いでくれるか」

凛の瞳から目を逸らさずに。まっすぐな言葉を、まっすぐな気持ちで、告げた。
見つめ合う二人の間を風が吹き抜ける。凛の赤毛がさらさらと揺れる。

「……ばっかじゃねえの」

 ふいに、凛が呟いた。声が震えているのは気のせいではない。

「今更だろ、そんなん。どこまででも付き合ってやるよ」

泳ぐことも。これからの人生を生きることも。凛はずっと前から受け入れていた。
そもそも、最初に遙と泳ぎたいと願ったのは凛なのだ。遙はその身勝手な願望に、渋々ながら付き合ってくれていた。
そして今、遙もまた、凛と泳ぎたいと願った。互いの我侭が、同じ方向で噛み合った瞬間だった。

凛はゆっくりと首を動かして、薬指に咲くシロツメクサに視線を落とした。

――なあ、お前、そこらへんに咲いてる花のくせに、どうしてそんな誇らしげなんだ。

尋ねてみても返事はない。花はただ空に向かって咲くだけだ。
けれど答えはとうに分かっていた。

凛がひとつ瞬きをすると、ぽたり、と透明な雫が指輪の上に落ちた。いつの間にか目元がひどく熱を帯びていることに気付いて、凛はその雫が自分の涙であることを知る。
顔を上げると、また遙と目が合った。口元を緩めて微笑んでいる。表情は穏やかなのに、四つ葉のクローバーを見つけた子供のような無邪気さも見える。

こんなに綺麗に笑われたら、こっちも笑うしかないだろう。
凛はつられて顔を綻ばせた。瞳から大粒の涙を溢れさせながら笑うので、瞬きの度に新しい涙が頬を伝う。

遙が一歩、踏み出した。さわさわと揺れるシロツメクサが、道を開けるように首を傾ける。
凛はその場から動かず、遙の動きを目で追っていき――静かに閉じた。
やがて二つの唇が重なり、約束は遂に成就した。





「はあ? お前、俺があっちに行って何年も戻ってこないとか思ってたのかよ? んなわけねえだろ」

凛は素っ頓狂な声を上げ、呆れたように遙を横目で見た。既に飛行機の手続きを終え、出発準備までの時間を空港内のロビーで過ごすばかりの状態である。
もちろん隣には仏頂面の遙が座っており、じっとりとした目で凛を睨みつけている。

だがそんな視線を注がれる覚えはないと凛は反論した。
曰く、凛のオーストラリア行きは当初から五泊六日の予定だったという。小六の時のような水泳留学という大層な名目ではなく、単に個人的な目的を果たすための旅行であると。

「……向こうを発つ時、俺、馬鹿みたいに捻くれてたからな。スクールの皆や世話になった人達にもろくに挨拶しないまま逃げ帰ってきたんだ。……いつか、ちゃんと改めて礼を言いにいかなくちゃならねえと思ってた」

だから今がそのタイミングだったんだ、と凛は語る。憂うような、それでいて懐かしむような表情で。
凛にとってオーストラリアは挫折の経験を嫌でも思い起こさせる土地だったが、そんな彼をただ突き放してしまうほど人々が冷酷だったわけではない。泣きながら必死に足掻き続けた凛がそれでも水泳をやめずにいたのは、陰ながらに彼を支えてくれる存在がいたからだ。

過去を振り返る余裕ができて初めて凛はそのことに気付けた。記憶が薄れてしまう前に、早くこの感謝の気持ちを伝えなければ――そう思い立ち、急遽オーストラリア行きを決めたのだった。
だが、周囲への連絡が後手後手になってしまったために、今回の勘違いが起こってしまった。

理屈は理解できたが、それでも遙は納得いかないというように眉をしかめる。

「だって……お前の妹、泣いてたぞ」
「江が!? 嘘つけ、俺はちゃんと後から旅行の日程もメールして……まさかあいつ、一通目のメールだけ見て早とちりしたんじゃねえだろうな」
「……たぶんそうだろ」

遙が電話口で聞いた江の声はとても冗談には取れなかった。本気で兄がもう帰ってこないと思い込んでいたに違いない。「オーストラリアへ行く」と要件だけを告げたメールを見て、ニ通目に目を通す前にすぐさま遙たちへ連絡したのだろう。
おそらく後から自分の勘違いに気付いたはずだが、時既に遅し、遙は携帯電話の入ったバッグを真琴に預けて凛を追いかけた後だった。

「ってことは……」
凛はポケットから携帯電話を取り出した。画面に映し出される「新着メール一件」の文字列。受信ボックスを開き、そこに示された文面を読んだ瞬間、凛は盛大に吹き出した。

「ぶはっ……! ちょ、これはねえよ、ひでえなオイ!」

携帯電話を握り締めながら肩を震わせる凛を、遙はむすっとした表情で睨みつける。どうせ碌でもないことだろうとは予想できたが、何も知らずに横で笑われるのは気分が悪い。凛はなおも笑い転げながら、震える手で携帯電話の画面を遙の目の前に突き出した。受信時刻は四十五分前で、差出人欄には「橘真琴」と表示されている。

『これからハルが干からびた顔で凛に失礼なことを言いに来るかもしれないけど、優しく出迎えてあげて』

たったそれだけの文章だった。本文の最後には両手を合わせて頼み込む猫の絵文字が付けられており、うっかりその絵文字の可愛さにほだされてしまいそうになるが、この文面だけでは何のことだか全く理解できない。
しかし、先程のやり取りを経た凛には、腹を抱えて笑うほどそのメールの意味が分かりすぎてしまった。確かにあの時の遙は汗に水分を奪われてとてつもなく干からびた顔をしていたし、面倒だの疲れるだのと失礼なことを言われたことも確かだ。真琴のメールはこれ以上ない的確な予言だったといえる。……優しく出迎えてやれたかどうかは知らないが。

遙はメール画面をまじまじと見つめた。初めはきょとんとした表情で、しかし次第に不機嫌なものへと変わっていく。

「……余計なことしやがって……」

 低い声で呟かれたその言葉は、真琴に対する精一杯の苦言だった。遙の眉間に刻まれた皺には、「そもそも俺は凛の機嫌を伺うために来たんじゃない」「でもこんなメール送っておいてもし万が一凛と喧嘩別れしたらどうするつもりだったんだ」「そもそも俺は凛に優しく出迎えられた試しがない」などといった数々の不平不満がありありと表れていたが、この場に通訳の真琴がいないので凛に内心が伝わることはなかった。
凛は嬉々として真琴への返信を打ち込んでいたが、遙はその文面を見ないように視線を逸らした。

――そしてふと、携帯電話を握る凛の薬指にあのシロツメクサの指輪がまだ嵌っていることに気付く。

「……それ、いい加減外せばいいだろ」

嬉しいのか照れくさいのか自分でも分からず、遙はぶっきらぼうな言葉を投げかけてしまう。
メールを送り終えたらしい凛は画面から目を離して遙を見た。ぱちぱちと長い睫毛を揺らしてから、遙の視線を辿って自分の薬指へ目を落とす。そして「なんだこのことか」とばかりに軽く鼻で笑った。

「もう俺のものなんだから、つけるも外すも俺の勝手だろ。誰かに変な目で見られてるわけでもねえし」

ただでさえ利用客があまり多くない空港のロビーは閑散としていた。数少ない利用客は談笑をするか本を読むかしていて、こちらに関心を向けている者は一人として存在していなかった。だが遙は「そういう話じゃない」と凛をなじる。

「それは、そんな長いことつけてるような代物じゃないって言ってる」

凛の長くすらりとした指に、白くて小さなシロツメクサの指輪はひどく不釣り合いに思えた。
野草で編んだ首飾りや指輪が似合うのはせいぜい小学生までだ、高校生にもなって男がこんなものをつけているなんて幼すぎる。あの場ではこれしかなかったとはいえあまりにも安直すぎやしないか。
自分で押し付けておきながら遙は今更になって己の衝動を呪った。こんなことならもっとましなものを用意するべきだったのだ。

しかし、悶々とし始めた遙とは対照的に、凛は何一つ気にせずその白い指輪を嵌めていた。まるでそれが、もうずっと長い間身につけているものであるかのように。

「まあ、あんな大仰なセリフを言っといて、そこらへんの道端に咲いてる花を差し出してくるような奴は、お前くらいじゃねえの? 死ぬ程お前らしいけど」

多少なりとも気にしていたことを盛大に皮肉られて、遙は一気に不機嫌な顔になった。凛はにやりと笑って、左手を自分の目の前に翳して指輪の嵌められた薬指を見つめた。その瞳が柔らかな光を宿していることに遙はまだ気付かない。

「……だったら返せよ」
「やだ」
「返せって」
「やーだ」

遙が指輪を奪おうとすると、凛は左腕をぐっと伸ばして指輪を遙から遠ざけた。ぷるぷると震える遙の指先は全く指輪に届かない。まるで子供の玩具の奪い合いだ。
遙が本気で取り返す気などないことは、椅子に腰掛けた体が僅かも宙に浮かないことからも明らかだった。奪おうとするふりと、奪われまいとするふりを演じている。
こんな意味のないじゃれあいですら、かつての二人には許されなかった。昔できなかったことを今こうして後を追うように経験している。そんな馬鹿馬鹿しい「恋人ごっこ」が、今はとてつもなく楽しいのだ。

「どうせ機内では外さなきゃならねえんだ、お前のそばにいる時くらいつけさせろよ」

凛がそう言い終わるか終わらないかのうちに、ロビー内にアナウンスが鳴り響く。凛の乗る飛行機がまもなく出るということを告げていた。
二人ははっとして同時に顔を見合わせ、体を元の位置へと戻した。もう子供のように戯れる時間は終わりなのだと気付いてしまった遣る瀬なさが、ひっそりと互いの胸の内側を浸していく。
どちらからきっかけを切り出せばいいのか分からず、浮き足立った束の間の沈黙が流れる。

「……時間だな」
 離れがたい気持ちを先に振り払ったのは凛の方だった。
「俺、もう行くわ」
「ああ」

遙が頷くのを見ないようにして、凛は横に置いていた赤いキャリーバッグの取っ手をぎゅっと掴んで立ち上がる。
彼にしてはひどく大げさでわざとらしい動作に、遙はかつてオーストラリアに行くと告げた幼い頃の凛を思い出した。あの時は下手な役者のようだと思っていたが、今の凛はあれよりもっとぎこちない。自分の感情を隠す技術は昔の方がよほど優れていた。
目の前にいるのは、寂しさを取り繕う術すらもおぼつかない可愛い恋人だけだ。歳月による変化が悪いことだけではないことを遙はよく知っている。

「なんだよ、その顔。今生の別れでもあるまいし」

凛は遙を見下ろして、からかうように顔をくしゃりと歪めて笑った。

――泣きそうになってるのは、お前だろ。

そう言い返したい気持ちを抑えて、遙は椅子から腰を上げた。たかが一週間たらず会えないだけだ。このくらいどうということはないはずだった。それでも茫漠とした感傷に襲われるのは何故だろう。

瞬きをひとつして、凛は遙を見、それから薬指の白いシロツメクサを見た。既に瑞々しさは失せ、萎れ始めている。摘み取られた野草はその瞬間から枯れる運命を待つだけだ。たとえ機内で水に浸してやったとしても、現地に着く頃にはもうすっかり枯れてしまっていることだろう。
だけどきっと覚えている。遙から受け取った言葉も、その気持ちも。
 
凛は目を閉じ、左手を顔に近づけてシロツメクサの指輪に唇をよせた。愛しい恋人へ口づけるように。
遙はその一連の動作を、呼吸も忘れて食い入るように見つめた。

ロビーの窓ガラスから注ぐ可視光線が、凛の睫毛に反射して精巧なきらめきを作る。ロビー内の雑音も、窓の外に響く飛行機のエンジン音も聞こえない。
どこからか嗅いだことのない花の香りが鼻をかすめた。

そして指輪はゆっくりと薬指から外され、ポケットの中へと大事に仕舞われた。
凛の視線が指輪から遙へと移る。目が合った。そこでやっと、遙は凛の瞳が見たこともないほど柔らかく優しく凪いでいるのに気付いて目を見開いた。
りん、と名前を呼ぼうとして開きかけた唇は、声を形作ることはなく微かな吐息だけを零すばかりだった。

遙が凛のたった一粒の涙に全ての価値観をひっくり返されてしまったように。凛もまた、遙から受け取ったちっぽけな指輪ひとつに人生を預けることを望んでいる。
それは自由を縛る枷ではない。ただ、共に生きていく証として。
――凛の瞳からそのような意味を読み取ろうとしてしまうのは傲慢だろうか。

「……ちゃんと、帰ってこいよ」

遙は凛の腕を掴み、小さくつぶやいた。先程の約束を確かめるように。すると凛はとぼけたように笑う。

「大げさだな。帰って来んのは当たり前だろ、一週間だけだぜ?」
「いいから帰ってくるって言え」

そうしない限りこの手は決して離さないとばかりに、凛の腕をより強く握った。
凛は片眉をひそめて遙を睨みつけたが、瞬間、こらえ切れずに破顔する。

「分かった、分かったから、ハル。俺はちゃんと帰ってくる。……だからお前も、俺が帰る場所ちゃんと用意しとけよ?」

僅かに小首を傾げて歯を見せる、その表情があまりに懐かしくて、遙は抱きしめたいと願う心とは裏腹に自然と手の力を緩めていた。するりと腕が解かれる。

……行ってしまう。

そう思っても体は石のように固まって動かなかった。
凛は何度でも無意識に遙を縛り付ける。心も、体も、人生も。
だがあの時と確かに違うのは、それが涙ではなく笑顔によってもたらされたということだった。その心地良い不自由さを遙はこれ以上ないほど愛していた。

動けない遙の代わりに凛が近付く。誰にも気付かれないほんの一瞬間だけ、凛は遙の唇をかすめとった。
シロツメクサの指輪に口づけを落とす時とは比べ物にならないほど軽やかに、しかし何よりも愛情は深く、離れゆく唇に柔らかな花の香りを残して。


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2014/09
遙凛小説アンソロジー「初めての、」に寄稿

2016/07/02
Web再録



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