あなたの愛した空はインディゴ


なんの前触れもなく、ぱちりと目が覚めた。遙は何度か瞬きを繰り返し、それと同時に右手で布団の中を探る。掌はひんやりとしたシーツの感触しか知覚しなかった。
――おかしい。あるはずのものが、いるはずの人間がいない。同じベッドで寝入っていた凛が、どこにも。

「りん……?」
小さく名前を呼ぶと、その声は部屋の壁にぶつかって行く宛てもなく転がる。呼び声を受け取ってくれる人物の不在に、遙は胸がざわつくのを感じた。

順を追って、ここに至るまでの出来事を思い返す。昨日は鮫柄での合同?の後に、凛が遙の家へ泊まりに来ていた。お手製の鯖シチューを振る舞ってやったり、動物もののドキュメンタリーを見て号泣する凛にティッシュを差し出してやったり、普段と変わらない時間を過ごしたはずだ。眠る直前だって、凛は遙の隣にいた。

「りん、」

先程より大きい声で呼ぶが、やはり何も反応は返ってこなかった。凛が横たわっていた場所のシーツがすっかり冷たくなっていることから考えると、彼はだいぶ前にここからいなくなったのではないだろうか。
息を詰めて静寂に耳を傾ける。少なくともこの部屋には、そしておそらく階下にも人の気配はない。水を飲みに行っているという可能性もなさそうだ。
――それなら、何処に?

「凛!」

今度は鋭く叫んだ。勢いよく上体を起こして布団を剥ぎ取る。いない。どこにもいない。途方もない不安が胸に迫り上がってきて、遙は焦燥に突き動かされるままベッドを飛び出していた。
テレビの裏や棚の引き出し、どう考えてもそんな所には隠れているはずないだろうという場所まで、手当たり次第に探し回った。ばたばたと騒がしい音を立てて家探しをするも、凛の姿は杳として知れず、朝の静寂が七瀬家を包むばかりだった。

家にいないのなら外だ。家の中を散々荒らし回った末にやっとその結論に至り、遙は寝間着にパーカーを一枚だけ羽織って外に出た。暦の上では秋といっても、プールに入れる時期はとうに過ぎて肌寒い季節だ。早朝ならなおのことである。
玄関の扉を開けた瞬間、ひやりとした空気が肌を刺す。遙は一瞬その冷たさに怯んだが、構わず走り出した。寒さなどよりも凛の姿が見えないことの方が遥かに深刻な問題だった。

誰もがまだ眠りにつく時間帯だ。真琴の家もそれ以外の近所もひっそりと静まり返っており、微かな風の音だけが鼓膜を震わせる。群青を一面に塗り込めたような闇の中、今すぐにでも大声で叫びたいのを堪えて、息だけで何度も凛の名を呼んだ。
階段を駆け抜けて鳥居をくぐる。神社内はますます静かで、神聖さを通り越して不気味ですらある。木々の隙間、家の陰にも凛の姿はない。

神社の敷地を出ようとした時、ぴるるる、という甲高い鳴き声が周囲にこだました。咄嗟に音のする方へ視線を向ける。白い鳥が、夜の空気を切り裂いて空へ高く飛び上がるのを、遙は確かに目撃した。海鳥かと思ったが見覚えがない。鋭い鳴き声も遙の記憶にはないものだった。
呆然と空を見る遙を置いて、鳥は海の方へと飛んでいってしまう。遙はしばらくの間呆気に取られていたが、空の色を見てはっと我に返った。

――夜明けが近い。

空を覆う青はだんだんと薄くなり、水を滲ませたように淡い紫色へと変わりつつある。ここからだと木に隠れて見えないが、朝陽が出てくる辺りは橙に色付き始めているのだろう。
そこでやっと、遙は夜の間に交わした凛との会話に思い出した。

『なあハル、この辺りで一番空がよく見える場所ってどこだ?』

前後の脈絡もなく、突然そんなことを訊いてきたのだ。あの時はどうせろくでもない思いつきだろうと判断して、「山にでも登ればいいだろ」などと投げやりな答えを返すに留まった。凛は不満そうな顔で遙を睨みつけたが、それ以上深く追及してくることはなかったから、あの場のやり取りだけで会話は完結したと思っていた。
けれどきっと、凛の中ではまだ終わっていないのだ。一番空がよく見える場所を探すまでは。
確信を得た遙は、次の瞬間、海側の方面に向けて地面を強く蹴った。



果たして彼はそこにいた。海を臨む展望台、中央に誂えられたベンチに浅く腰掛け、夜明けへと近付く空を見つめている。
朝焼けの美しいロケーションと相俟って、まるで映画の一場面のように思えた。空を背景に座っているだけで絵になるのだから得なものだ。
だが生憎と、その横顔に見惚れるほど遙には余裕がなかった。

「おいおい、どうしたんだよ。そんな息切らして」

気配に気づいて振り返り、凛は遙と目を合わせた。ぜえぜえと肩で息をする遙を見て、凛は大げさに肩を竦ませる。こういう下手な役者のような反応の仕方は昔と同じだ。わざとらしい仕草とは裏腹に、驚いた様子は見て取れなかった。遙がここまで来ることを予め想定していたのだろうか。だとしたら相当たちが悪い。

「そう怖い顔すんなよ」
「……こんな時間に、勝手に外を出歩くな」
「いいだろこれくらい。すぐ近くなんだし」
「よくない。……心配、するだろ」

その言葉に、凛は一瞬だけ硬直した。しかしすぐに破顔する。
「はは、心配なんかしてくれてたのか」

心底意外そうに目を見開くのが、遙にはとても腹立たしかった。当たり前だと言い返すのも癪だったので、無言で視線を逸らす。どうしてそんなへらへら笑ってられるんだ。人の気も知らないで。凛が無事に見つかった安堵よりも、その身勝手さに対する苛立ちの方が大きくなっていく。
遙が纏う空気の変化を感じ取ったのだろう、凛は慌てて掌を目の前に突き出した。

「だから怒るなってハル! ……ほら、もうすぐ夜明けだ。こっち来て見ろよ」

強引に話を切り替えて、自分の隣へと遙を手招きする。遙はしばらくの間眉根を寄せて凛をねめつけていたが、ひとつ大きな溜息をついて、渋々といった様子で歩き出した。
そのまま凛の隣に辿り着くと、わざとゆっくりした動作で腰を下ろす。遙なりに嫌味を込めたつもりだったが、肝心の凛は空ばかり見ていて遙にはちっとも意識が向いていなかった。
今日は目覚めてからずっと凛のペースに乗せられてばかりだ。まったくいい気がしなくて仏頂面になる。そんな遙の不機嫌さに構うことなく、凛はうきうきと声を弾ませて一方的に話しかけてきた。

「なあハル。朝焼けが綺麗な日は雨が降るって話、知ってるか」
知識自慢でもしたいのだろうか、凛の唇はゆるやかに弧を描いていた。どうせ知らないだろ、だったら博識な俺が教えてやるよと言いたげに。
……その手には乗るものか。遙はここぞとばかりに鼻を鳴らした。

「『朝焼けは雨、夕焼けは晴れ』だろ。昔、ばあちゃんに教えてもらった天気の諺だ。朝焼けの時は東側が晴れてるから、そろそろ西から雲が来るかもしれないってことらしい」
「へえ、そこまで知ってんのか。お前のばあちゃん流石だな」

凛が珍しく素直に賞賛の言葉を投げかけてくるので、遙もつい誇らしい気持ちになってしまう。身内を褒められて悪い気はしない。
急に機嫌がよくなった遙を見て、凛は思わず吹き出した。お前ってそういう所だけは妙に分かりやすいよな、と余計な一言を付け加えることも忘れない。「だけ」を強調するのは凛の常套手段だった。
ひとしきり笑って、ふと瞬きを繰り返す。からかうような明るさの代わりに、少しばかりの寂しさが顔を出した。

「……でもなんか実感ないよな。雨になるなんて思えねえくらい綺麗なのに」

これほど優しい朝焼けが、やがて冷たい雨を連れてくるなど誰が想像できるだろう。秋の空は変わりやすいといっても、この空を見た後だと俄には信じがたい。
 遙は凛の横顔を一瞥した。もしかしたら、雨と引き換えの美しさなのかもしれないな、とらしくないことを思った。

凛の不在によって予定外の時間に目覚めることとなった遙は、眠い目を擦りながら空をぼんやりと眺める。紫と青、橙と桃色の混色だ。場所によって濃さは異なっており、どれか一つの色に定まることはない。一面真っ青な夏の空とは正反対だ。青に慣れ親しんでいる遙の目には、この淡彩の景色はどことなく新鮮に映った。

「……お前、これが見たかったのか」
半分まで出かかった朝陽に視線を注いだまま、遙は凛に問いかける。
「おう。そういえば、ここからの朝焼けって見たことねえなと思って」
「だからってこの時期じゃなくてもいいだろ。寒いだけだ」
「分かってねえなあハル。朝焼けを見るなら秋が一番なんだよ!」

夕焼けは秋に見るのが最も美しい、という話ならよく言われているが、朝焼けに関しては聞いたこともない。そもそも朝市などのために早く起きる人以外には、朝焼けという存在自体がどうしても縁遠く感じる。正月のご来光を有難がるような人達だって、普段は夜明けに起きることなど滅多にないだろう。早朝ランニングの習慣がついている凛の方が少数派なのだ。

そう反論しようかとも思ったが、凛がまた息をひそめて空に集中し始めたので、遙も仕方なくそれにならう。
別にここでいくら喋ったとしても朝焼けには何の影響ももたらさないだろうに、凛は呼吸すらも極力抑えているようだった。馬鹿馬鹿しいと思っているはずだったが、どうしてか遙は自主的に口を閉ざした。再び訪れる静寂に目と耳を委ねる。

空は、深い群青の影をすっかり掻き消して、藤の花を一面に敷き詰めたような紫になっていた。冷たい空気は鋭く肌を刺すばかりなのに、空の色はどこまでも淡く柔らかい。
空と海の境界線上では、いよいよ緋色の朝陽がその全貌を現そうとしていた。朝陽の周りは、色の濃い橙と山吹色が揺れながら混ざり合い、空の紫に溶けている。
……やがて、音もなく、かたちもなく、眩い光があたりを包み込んだ。

――これが、朝焼けか。

空なんて毎日見ていると思っていた。昼は青、夕方はオレンジ、夜は黒。そうやってぞんざいな分類でしか判断していなかった。
だが、今まで自分が見てきたのは、先入観によって偏平に塗り分けられた空にすぎなかったのだ。本当の空は今ここに、一瞬一瞬ごとに表情を変えて存在している。

今更、凛の勝手な行動を容認するつもりはない。だが確かにこれは、朝早くベッドを抜け出してでも見ておきたいものだと、感覚として理解できる。少なからず心が動かされているのを遙は感じていた。
横目でちらりと凛を見る。朝陽の光を取り込んで、凛の瞳は赤みを帯びながらきらきらと輝いていた。まるで幼い子供のようだ。

「凛。お前、朝焼けが好きなのか」
「……どうなんだろうな。見慣れはいるけど、好きかって言われると分からねえ。……ただ、向こうにいる間も、朝焼けはよく見てた」

憂うような、それでいて何かを懐かしむような声色で、凛は小さくつぶやいた。
「向こう」という表現が指し示す場所を、遙は嫌になるほど知っている。触れてはいけないところに触れてしまった。迂闊な質問をするべきではなかったと、暗い色が遙の胸中に滲んだ。
たとえ些細な寄り道でも、こういう話はあまり聞きたくない。自分の知らない四年間に関しては尚更だ。遙は無意識のうちに手を握りしめていた。

オーストラリアは、凛にとって苦い経験を思い起こさせる土地だった。挫折、苦悩、後悔、断絶――しかし、そればかりが全てではなかったと、遙は凛自身の口から聞いたことがある。水泳をやめずにいられたのは、苦しい日々の中にも救いがあったからだ、と。
彼の言う「救い」がどんなものだったかは、まだ教えてもらったことがない。けれどたぶん、朝焼けもその一つに数えられているのだろう。なぜなら、

「向こうの朝焼けは、日本より変化が速いんだ。ピンクと紫のグラデーションがみるみるうちに混ざり合って……瞬きの前後でさえ、もう同じ色じゃなくなってる。初めてあの朝焼けに出会った時は、ひたすら見惚れてた」

そう語る凛の声が、いつになく柔らかい響きだったから。
遙は、握りしめた手をゆっくりと解いていく。徒に構える必要はないと悟ったからだ。遙が考えていた以上に、凛は自分の過去と真摯に向き合えているようだった。凛の横顔には、寂しさの青と優しさの橙が等量に降り注いでいた。

朝焼けの空にもう一度視線を戻し、遙は静かに目を閉じた。凛が海の向こうで見たであろう空、その色彩に思いを馳せる。オーストラリアなんて行ったことがないから想像するしかない。
遙が知っているのは岩鳶町の空くらいで、どれも透き通った青の印象が強い。たまに夕陽を見ることはあったが、朝焼けに至っては今日この目で見るまでほとんど無縁だった。そんな乏しい想像力でも、感動を共有したいと思うことは自由だろう。

伝え聞いた話の断片を拾い集めて、限られたパレットの上にひとつずつ色を当てはめていく。水彩絵の具で描くのと同じ要領だ。はじめは一面の群青色。時間の経過と共に少しずつ水を滲ませて、薄い臙脂を差した空へと移り変わる。

頭の中に広がる彩りに、遙は感嘆の吐息を零した。かつて凛が見た空を、遙は色の記憶を辿ることで追体験する。ここは日本で、オーストラリアのように強い日差しはなくても。

「俺が好きなのは、朝陽が出たばかりの頃の色だ。……ほら、ちょうど今みたいな」

凛の声に導かれるまま、遙はゆっくりと目を開けた。目蓋の裏にある空と現実の空とが、あっという間に溶け合ってひとつの色になる。
その一瞬に、遙はさっきまでそこにいたはずの色の気配を忘れてしまった。目の前にあるのは、朝陽を抱いて白んでいく朝焼けばかりだった。想像でしか思い描けなかったはずの色が、実感を伴う本物の色として立ち現れる。

想像の中の色は確かに美しかったが、肌を刺す空気の冷たさも、海上を飛ぶ鳥の鳴き声も、隣に座る恋人の体温も感じられないのだ。いくら美しくとも、それではとてもつまらない色になってしまう。
オーストラリアの朝焼けを知らない代わりに、今ここで凛と共に同じ空を見ることができるならば、遙にとってはそれが何よりも好きな色だと思えた。

「岩鳶の空も、綺麗だな」

独り言のように凛が呟く。頭の天辺から爪先まで、全身の力を抜いていた。ぽかんと口を開け、しかし瞳だけはまっすぐに。

しらしらと夜が明けていく。水平線から上る朝陽、その光を受け止める空、波間に色を拡散させる海、声高く鳴きながら空を滑るつがいの鳥。
それらの風景を一つ一つ目蓋の裏に焼き付け、遙は最後に凛の横顔へと目を向けた。潮風に吹かれて赤い髪がさらさらと揺れる。髪の隙間から垣間見える瞳は、淡く色付き始めた空の彼方を見つめている。遠く遠く、海の向こうの国へと思いを巡らせるように。
穏やかな風景の中に記憶を探す。それは、桜を見つめる時の眼差しによく似ていた。

遙は瞬きもせず、呼吸すら忘れて凛の横顔に見惚れた。どんなに透き通った空よりも遙の心を惹きつけて離さない。心から愛すべき色がここにある。

「……ああ、たしかに、きれいだ」

朝焼けに夢中な凛には、この言葉に込めた本当の意味は伝わらないだろうけれど。この横顔がいかに綺麗かという事実は、自分だけが知っていればいい。そう思った。




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2014/03
遙凛プチオンリー「運命の桜色Pool!」記念アンソロジー「SEASON GATE」へ寄稿

2016/07/02
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