砂漠の薔薇 02


からからに干からびた砂漠を歩いている。見渡す限り砂ばかり、高い砂丘が邪魔をして地の果ても見えない。ここへ至る途中にも、道半ばで息絶えた亡骸がいくつも転がっていた。自分もいずれはこうなるのだ。誰にも看取られることなく、ありとあらゆる水を奪われて。
死ぬのは怖くなかったが、どうせならば水のある場所で命の終わりを迎えたかった。人が生まれる時はあたたかな水に包まれているというのに、どうして死ぬ時も同じようにならないのだろう。不条理だと思った。

――ハル。

どこからか自分の名前を呼ぶ声がする。聞いたことのない響きだ。何度も何度も呼んでいる。こんな砂の大地で、一体誰が。
ざくりざくりと砂を蹴り、声のする方へと足を動かす。まるで引き寄せられるように。この呼び声を、自分はずっと前から望んでいた。そんな気がする。
一際高い砂丘を越えると、そこは一面のオアシスだった。深い青を閉じ込めた、アクアマリンの宝石にも似た水面。青、青、青。それまで水の気配などまったく感じなかったので、オアシスが突如として目の前に現れたかのように思われた。けれど間違いない。……水だ。

――なあ、おまえはこの水がほしいんだろう?

また声がした。はっとして目を凝らすと、青の中心にぽつりと人が立っていた。水に映る青とはまるで対照的な赤髪。見知らぬ顔だが、しかし、この者こそが自分を呼ぶ声だと確信する。
ああ、欲しい。欲しくて欲しくてたまらない。一面に広がるこの青も、水に愛されたその赤も。

――ほしいのならくれてやる。ひとつも残らず、おまえだけに。

差し伸べられた手には抗いがたい引力があった。求めていたのはこれだ。くれるというなら受け取ろう。いや、たとえ拒まれようと奪いに行く。
縺れる足を必死に動かして坂を下っていった。みるみるうちにオアシスが近づいていく。そして、あの赤に向かって手を伸ばした。





「………………。」

次に瞬きをした時、目の前に広がったのは青いオアシスなどではなく、薄灰で塗り固められた土壁の天井だった。ハルカの右手は天井に向かって一心に掲げられていたが、当然何も掴めず空を掻く。……どこだ。あの赤はどこに行った。状況を把握できないまま何度も手を開いたり閉じたりしてみたが景色は変わらなかった。薄暗い部屋の中。そこでようやく、あの美しい景色が夢だったのだと気付いて落胆する。夢の中でさえも自分の自由にはならないのか。苛立ちと失望が同時に溢れてきて眉を顰めた。
これが夢ではなく現実なのだと自覚した瞬間、忘れていたはずの猛烈な乾きがハルカを襲った。喉の粘膜が張り付いてしまったかのようにうまく呼吸ができない。これが現実の続きなら、自分は砂漠の真ん中で行き倒れていたはずだ。目覚めた場所はどう見ても砂漠ではないが、襲い来る乾きは確かのあの時と同じだ。

「……っ、……!」
声にならない悲鳴が声帯を引き裂く。震える指で喉を掻き毟ってみても乾きは収まらない。水を。早く水を。
「あっ、気がついた!?」
乾きに耐えるハルカの頭上から、驚きと焦りの声が降ってきた。夢の中で聞いたあの声とは違う響きだ。緊張をはらんだ碧の目がハルカを覗きこんでくる。ハルカと同じ年の頃の青年だ。どうやらハルカが寝ていた寝台の横でずっと様子を見ていたらしい。
「大丈夫旅人さん、何か、」
「……み……」
「あ、そうそう水!水だよね!?大丈夫、これ飲めばよくなるから!」
はい!と言って差し出されたのは、アクアブルーのガラスの小瓶だった。手のひらにすっぽりと収まる大きさで、香水瓶のように繊細な細工が施されている。中には透明な水が入っていた。

――みず!
瓶の中身が水だと気付くや否や、ハルカは目を真ん丸に見開き、勢いよく寝台から飛び起きて青年の手から小瓶を奪い取った。目にも留まらぬ速さだったので青年は驚きで体を硬直させる。そんなこともお構いなしに、ハルカは瓶に口をつけていた。
――……みず?
たった一口分しかないそれが口の中へと流れ込んだ瞬間、ハルカはえも言われぬ不思議な感覚に身を包まれた。瓶に入っていたのは確かに水だったはずだ。間違えるわけがなかった。しかし、ただの水でもない。
甘いのだ。水蜜を齧った時のようなほのかな甘みが口の中いっぱいに広がる。甘みの感覚は水蜜によく似ているがどこかが決定的に違う。人工的な甘味料の味ではなく、自然界に存在する甘さとも違う。ハルカは新たな国を訪れるごとにその土地の水を飲んできたが、こんな水は始めてだった。するりと舌の上を転がるのに、蕩けるような余韻も同時に存在している。――そして、むせ返るような花の香り。
こくり、と水を嚥下する。あっという間に喉の奥へと吸い込まれていった。しかしあの甘みの余韻はいつまでも舌の上に残り、花の香りもまた同様に続いていた。
変化は、劇的だった。あれほどハルカを追い立てていた乾きが嘘のように消えていく。それどころか、ハルカ自身ですら意識していなかった疲労さえも、するすると抜け落ちていくのを感じる。丸まっていた背筋はいつの間にかすうっと伸びて、力を取り戻していた。

「………………?」
自分の身に何が起こったのかが分からず、ハルカは呆然とした表情で小瓶と自分の手とを交互に見比べた。いくら乾きに乾いていたとはいえ、ただの水がここまで効果を発揮するものだろうか。少なくともハルカには心当りがない。
混乱するハルカをよそに、碧の目をした青年は安堵したように肩の力を抜いた。
「よかった、もう大丈夫みたいだね。普通の水も飲む?」
「……いや」
舌の上に残り続ける余韻を消したくなくて、ハルカは首を横に振った。彼はまだ、今しがた起こった出来事を信じられずにいる。その反応が予想通りだったのか、青年は首を傾げて軽く笑った。

「はは、いきなり倒れられてびっくりしたよ。でもちょうど御神水が残っててよかった。……どう?かなり楽になっただろ?」
「御神水?……この水のことか」
ただの水ではないと思っていたが、まさか「御神水」などと大層な呼び名があるとは。しかしそう呼ばれるのも納得できる。
空になった瓶を目の前に差し出すと、青年はゆっくりと深く頷いた。
「そう。普通の水とは違う、特別な水なんだ。『命の水』という別名の通り、一口飲めば傷も病もたちまち癒え、日常的に飲めばその者に豪運と莫大な富をもたらす――なんて言われてる。その効果は、飲んだ本人が一番よく分かってると思うけど」
ね?と真正面から問いかけられて、ハルカは思わず視線を逸らした。「御神水」の効果を今しがた体感したのは確かだが、見透かされるようにそんなことを言われると居心地が悪い。青年に顔を背けたまま、指で小瓶のふちをなぞる。名残を惜しむように。たった一口しか飲めなかったあの水が忘れられない。

「そんな水、本当にあるんだな」
「うん。……この国には、水の神子様がいらっしゃるから」

青年は僅かに表情を曇らせて、窓の向こう側に目をやった。つられてハルカもそちらを見る。窓の外には、遠くに小高い丘が見えた。その上には白く輝く宮殿が立ち並んでおり、青年はあれが王族の住まう王宮なのだとハルカに教えた。
「さっき旅人さんが飲んだ御神水は、水の神子様がくださったものなんだ」
そうして青年は、この国のこと、そして「水の神子」という存在についてぽつぽつと語り始めた。

砂漠に囲まれたこの国は、自然に湧き出る水が極端に少ない。しかしその代わりなのか、数十年に一度「水の神子」なる存在が生まれるという。血筋も身分も性別も関係なく、まるで神の気まぐれのようにその者は選ばれる。神子としての力を持った者は、ただの水を「命の水」――万病を癒やす力の源へと変えることができる。その身に宿した血によって。
「……血?」
「そう、血だよ。神子様が水に血を捧げると、何の変哲もない水に命が与えられるんだ。内側できらきら光って、それはそれは綺麗でさ。俺も昔一度だけその儀式を見たことがあるけど、あれは本当にすごかったなあ……」
その光景を思い出したのか、青年は蕩けるような表情をし始めた。ハルカはその恍惚とした青年の姿をぼんやりと眺める。事情はよく知らないが、「命の水」は、人の病を癒やすだけでなく心まで虜にするものなのか。……その気持ちは分からないでもなかった。御神水と呼ばれたあの水は、一度飲んだら忘れられない不思議な魅力を放っていた。ほのかに甘く、嚥下した瞬間に体の核へと吸い込まれていく感覚。喉にまだあの水の感触が残っているような気がして、ハルカはもう一度唾液を飲み込んだ。
――ああ、確かにこれは。

「奪い取ってでも、欲しくなる……」
「え?何か言った?」
思わず零れ落ちていた言葉に、ハルカははっとして口を手で覆った。青年は過去を回想するのに気を取られていたのか、ハルカの発言の内容を聞き取ることはなかったようだ。青年は首を傾げて復唱を促すが、ハルカはそれには応えず無言を貫いた。青年は仕方なく話を続ける。
「それでさ、神子様は今、王宮付きの神官として宮殿にいらっしゃるんだ。人前に姿を現すことは滅多にないけど」
「……でも、お前はその『儀式』を見たことがあるんだろう?」
「ああ、えっと、それはね、ちょっと事情があって。特別に御神水を分けてもらったから」
初対面の人間には言い難いことなのか、彼は顔の前で両手を振りながら言葉を濁した。だったら思わせぶりなことを言わなければいいのだとハルカは内心苛立ちを覚えたが、何も言わずにいた。面倒そうなことには首を突っ込むべきではない。

青年の説明によれば、「命の水」は庶民にはとても手の届く代物ではないそうだ。神子が生み出す「命の水」には限りがある上に、それらはほとんどが国の管理下にある。「命の水」は専ら他国との交易に使われているらしい。四方を砂漠で囲まれて資源も少ないこの国では、他国との交易において「命の水」こそが最も価値のある取引材料なのだ。国の管理から逃れた一部の水は、貴族や金持ちが独占している。庶民が手にすることはまず無い――はずなのだが。

「だったらどうして、そんなに大切な水を俺にくれたんだ?」
ハルカは率直な疑問を彼に投げかけた。すると青年はきょとんとした顔で首を傾げた。
「だって、旅人さんは行き倒れて大変なことになってたじゃないか。今にも干からびそうになって。自分が持ってるものでそれが解決できるんだったら、全部あげるのは当たり前だろ?」

どうしてそんなことを聞くのかと言わんばかりに、青年は何度も瞬きを繰り返す。全く当たり前でないことを当たり前だとのたまいながら。
――ああ、こいつは、ただのお人好しなんだ。
旅人は驚きや呆れを通り越して感嘆すら覚えた。見ず知らずの他人にここまで優しくできるものなのか、と。穏やかに細められた碧の瞳には嘘も偽りも見えない。
この男には、人を助けて見返りを得ようだとか、優越感に浸りたいだとかいうちっぽけな下心は存在していないらしい。誰かを助けるということが日常の中に当たり前のように組み込まれていて、一度もその行動に疑いを持ったことがない。ただただ本当に、途方もなくお人好しなだけの人間なのだ。

ハルカはひとつ小さな溜息をついた。なんだか詮索するのも馬鹿らしい。今は何も考えずに、この世話焼きな青年の好意に甘えておこう。
「まあ……恩に着る」
素直な謝辞を言うのも憚られて、妙に堅苦しい言い回しをしてしまった。照れ臭さにまた視線を逸らしたくなるが、ぐっと堪えて目を合わせた。すると、目の前で碧の瞳が楽しげに揺れる。
「どういたしまして、旅人さん。……俺の名前はマコト。よろしくね」
「……ハルカだ」
「そう、じゃあハルちゃんか」
思ってもみない呼び方に、ハルカは一気に眉間に皺を寄せた。
「ハルちゃんはやめろ」
「ええ?それじゃあハルカ?」
「それも駄目だ」
「フルネームも駄目なの!?……うーん、だったら、ハル?」
「…………」
無言。肯定はしないが否定もしない。しかしマコトにはそれが肯定だと読み取れた。
「ハルでいいんだね。うん、それじゃあ改めましてよろしくね、ハル」
「……ああ」

差し出された手を取って握手を交わす。
――夢の中にいたあいつは、手が届く前にいなくなったのに。
つい先程見た夢のことを思い出して少しだけ苛立ったが、目の前にいる青年はあの男とは違うのだ。比べるほうがおかしい。これは現実なのだから。

かくして行き倒れの旅人は、この日この時、砂漠の国で初めての友人を得た。





2013/10/21



[ index > top > menu ]
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -